「151」といったら「ミュウ」だよな。
数字を毎日打たなかったら、「ミュウ」には出会わなかったな。今年度は、幻ってことでお目見えせず。
ポケモン赤・緑が現役だったから、151匹目の「ミュウ」は、とても心が躍った。
だから、151という数字にもややテンションが高まる何かが宿っている。脳はアホである。
ただ、そういう偶然性によって人生は躍進するし、補填されもしているのだろうな。
偶然に悲しみに出会ったり、喜びに出会ったりしている。そして、偶然に、それを打ち明けられる人に出会ったり、沈黙に寄り添いながら居てくれる人に出会ったり、共に感じさせてくれる人に出会ったり、一緒にはしゃいだりしてくれる人に出会ったりするのだろうね。
得るも失うも偶然なのである。
ただ、今、思うのは、「"自分が"選択したことは、概ね人生の中で真(ないし正)なのではないか」と思う。
それは、人生に必要な色だったということだ。抗えないもの、選ばざるを得ないもの。それに出会うことも是なのかもしれない。
ただし、それを受け入れるかどうかは、また選ぶステージがある。それすらを信じて歩んでもいいし、それを信じないで歩み続けることもできる。
でも、やっぱり、忘れてはならないのは、人は常に明日という未知を歩めるということだ。
昨日とのつながりから、今日も不幸であると定義することもできるし。
昨日との分断から、今日からは新しい幸せのはじまりであると予期することもできる。
どちらを生きてもいい。選びたいものを生きていい。呪縛はあるのかもしれない。でも、ない自分を作ることもできるのかもしれない。
起こることは起こる。起こるべきことでないことは起こらない。
必要なことだけが起こると信じることもできるし、必要でないことも起こると嘆くこともできる。
それでも、人は入れ替わり立ち返っていく。忘れていくし、役割や務めを終えて眠りにつく。
その日まで、「恥の多い生涯を送ってきました」と思ってもいいし、「ま、いっか」と思ってもいい。
人間だからこそ「自分を否定する内省にこだわり」をもってもいいし。
人間だからこそ「無責任に切り替えてしまう」ということもあるかもしれない。
どちらにせよ、鎖は「気持ち」なようである。
希望としての可能性や好奇心に気づくと、明日が明るさを取り戻すように感じる。
その可能性や希望は「見えていなかった考え」→「選択肢」である。それに手っ取り早く出会うために他者がいる。悩みや絶望のような憂いに「他人」が必須だと考えられる。
「憂」に「にんべん」がつくと「優」となる。「優」自体は、憂いを役者が演技することを指すらしい。その演技が「美しい」「やさしい」ということである。
演技というものを「自分とどこか切り離された部分があるもの」だと理解していいなら、誰かがいることで、抱いている憂いを「演技」という一段距離を置いた位置に置けるようになるということかもしれない。
共有できる他者がいることで、憂いを分かつことができる。それを眺めることができる。憂いの演者を眺めることができるようになるということかもしれない。
優しさとは、相手が自分を眺められるようにするということなのだな。もっといえば、優しさとは「自分に対して、自分の人生を生きよう」と眺められるようにすることなのだと思う。
だから、優しさをもらうと"生きたさ"が沸いてくるように思う。そして、優しさを与えることも「演技すること」にあたり、やはり「自分に対して、自分の人生を生きよう」と思えることなつながるのだと思う。
合気道で習った「どうしたらその人が良くなるかを言えばよい」ということに通ずる。すべてのカウンセリングは「『自分に対して、自分の人生を生きよう』と思えるように共に居ること」なのかもしれないとすら思う。
これらは、素晴らしいといえる、たくましい、偉い友人の話を聞いたから想起されたことである。友人の人生に敬服する。その友人の幸福を願う。