その子によって、助けるべきポイントは違います。
学校というのは本当に面白いところです。
不特定の子どもが集まっているところがいいですね。
学校は、そうして集まった子どもたちが活動する生活の場なわけです。
学校において、教科の指導で育てたいことは、「ねらい」によってある程度見通しをもつことができますが、人間同士のかかわりによって何が起こり、どんな成長が発生するのるかは、予測できないところがあります。
その視点の引き出しの多さが、教師に必要な技術の一つでもあると思います。
何が言いたいのかっていうと、UDについての講演や協議などでよく出てくるワードですが、その「つまずきを予想」できるか、というのが一つ大切なわけです。
班のリーダーとなった子がいるとします。
その子は支援級の子です。
交流に行って、班の子の役割を言わなければならなかったとします。
原稿があって、教師はそれを渡して読むことを促すわけです。
でもなかなか読まない。
どうしてか、これが、要は「つまずき」なわけです。
なぜか、読まない。
そこで、まず
「読まない」のか「読めない」のかの選択肢が出てきます。
「読まない」場合は、読めるけど読まないということです。
「読めない」場合は、何か「つまずき」に気づいて支援する必要があるということです。
この可能性をたくさん思いつけると、そのどれかを使って「つまずき」に対してサポートができるわけです。
どんな「つまずき」が考えられるでしょうか。
たとえば
・どこを読むのか分からない
・何人かの前で聞こえるように声を出すのが苦手
・今日そうした役割があると事前に言われていなかったから対応できない
・指示を聞いていない
・漢字が読めない
・できそうなんだけど動機にスイッチが入らない、励ましてほしい
今思い浮かんだのは、これくらいでした。
その子は高学年でした。
これは行事の時間で、いろいろな先生がいる教室での出来事でした。
(注:この記事は、まったくもって何かの批判のために書いているものではありません。)
ある先生が、背中に手を当てて「ここを読みなさい」と指で教えました。
けれど、その子は読みませんでした。
続けて「みんなに聞こえるように読んであげて」と言いました。
そうして、その先生は、その場から離れたので、私が近づいて原稿を見てみました。
そこに書かれている、他の子の名前と役割は、大人が見てもパッと見で、「がちゃがちゃ」で「ぐちゃぐちゃ」な文字だったのです。
なんと言ったらいいのでしょうか。つくりとへんのバランスが自由な書き方というんでしょうか……。
そういう原稿を子どもに目にさせてしまって、読めない状況を作ってしまったのは、ある種教師の怠慢です。
それを、誰のせいにするか?というわけではないのですが、大人の心の中に先行して「友だちの名前くらい読めないと」や「班の人にぐらい声を出しなさい」などと思っていると、「その字の読みにくさ」といった環境因には目がいかなくなることがあります。
子どもとしては、ただ単に「読める字なら読むわ!!」という気持ちでしょう。
どうしても、行事に参加することに頭がいってしまい、活動の中で班の人の名前と役割をいう「ねらい」を逃さないようにというところまで気持ちがいっていませんでした。
反省と共に、「つまずき」の視点に目を光らせる大切さを思うわけです。
「できる方法」はあるということ。
「できない」のではなく「できる方法」を提供できていないだけということです。
その子はできるのに、やらせてもらえる方法で指導してくれていない、ということです。
これは、学習権の侵害ですよね。気をつけたいところです。
「ほら、ここ言って」では言えない。なぜなら……字が字に見えないほど汚いから、なのです。
誰が悪いというわけではなく、結局思うところの一つは、まぁ、みんなでみんなを育てていって、みんなでみんなができるように意識したらいいだけなんじゃないの?って話。