岩波ブックレットNo.759
「キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像―」土井隆義
サブタイトルにある
「排除型社会」「新たな人間像」
これらを少しでも明らかにしてスッキリしたい
「キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像―」(以下、「キャラ化する」)は、前回の「個性を煽られる子どもたち」から約5年後に出されたもの
「社会」や「人間像」に変化が訪れたのだろう
そこで、何が引き継がれ、何が変化したのかを見ていきたい
(全5回)
(目次は、本の実際の見出しです)
第一章 コミュニケーション偏重の時代
第一章には、
「コミュニケーション能力による序列化」の背景などが書かれています。
- 「日常世界の狭小化」によって、グループ内の圧力が高まる
- 狭小化した世界の中で、友だちとどれだけ上手く関われているかが重要になる。各々が「承認を得る」を目的としている。よって、コミュニケーションする力があるかどうかが人間を評価する視点になる。
- これらから「コミュニケーション能力による序列化」が起こる。
詳しく見ていく
1.格差化する人間関係のなかで
昨今の子どもたちは「人間関係への不安が強い」とある
- 「携帯の圏外」への不安
- 「簡単に削除できる関係(連絡をする・しない)」への不安である。
どうして、これらの不安があるかというと、自身も相手をそう見ているため、自分も排除されるのではないかという不安を抱く
「秋葉原の事件」についても言及がある
秋葉原の事件の背景にも、この人間関係への不安があるのだった
ある枠組みから自分が排除されることで、自分の世界そのものがなくなったように感じ、事件へ発展したと考えられる
そこから筆者は「日常世界の狭小化」を見いだした
たとえば学校でも「カーストによる人間関係」があり、カースト間の交流もなく、子どもたちの世界は「狭小化」している
その結果、カースト内で人間関係を済ませるため「敵対関係」が消失する。
すると、グループ内の圧力が高まる。
グループ内が暇になると、グループ内で何かしらの刺激を生み出そうとする
そこから、グループ内で熾烈なポジション争いも起こる
子どもと大人、社会との関係も薄くなっている
子どもたちは、
人間関係の「質」というよりは「つながり合うこと」それ自体に関心の焦点がある
「つながり」を感じられさえすればなんでもいいため
身近な連絡相手とのつながりをひたすら求めがちということだ
そうすると、社会には目が向かない
そんな風に「つながり」を強迫的に求める子どもたちは
相補関係を傷つけるような関係、対立は避けたい傾向にある
だから、予定調和的な「摩擦のないフラットな関係」を求める
その心理が「キャラ化」(「つっこみとボケ」、「いじりといじられ」など)を起こす
2.コミュニケーション至上主義
ここまでの歴史をふりかえる
- 1980年代半ばから、人びとの欲望が大幅に多様化する
- 産業界からの求めもあり、教育にも「個性の重視」が登場する
- 人物の評価の物差しに変化が起こる
どのような変化かというと、「画一的な評価の物差し(社会のみんなが「そうだね」って思えるような価値観)」が弱まり、「身近にいる個別の人間」から逐一に評価を受けざるを得なくなった(その場にいる人たちによって変わる流動的な価値観での評価)。 - 「自己承認」が得られるか否かは、その時になってみなければ分からないようになった
よって、
画一的な物差しによる「抽象的な他者」ではなく、「具体的な他者」からの評価に依存するようになった
そして、これは「圏外」に不安を感じる理由の一つ
その場にいない人は、評価を得ることができないため
自分が「合っているか」確認できないことが不安につながる
本文より
生きづらさの性質が、社会の拘束力の強さにもとづくものから、
人間関係の拘束力の強さにもとづくものへと、時代とともに変化している。
そうして、
価値観が多元化し、人びとの関心対象が千差万別になった世界で、
相手の反応を鋭敏に読みとってつねに良好な関係を保ち、
相手からの評価を得やすいように自分の個性を効果的に呈示し
続けるのは非常に困難なこと。
しかし、それは同時に、
自己肯定感を保っていく上で必須の営みでもあります。
そして、その営みをこなすために必要となるのは、
なんといっても他者と円滑なコミュニケーションを営む力でしょう。
しかし、コミュニケーション能力は、決して自分の内部で完結するものではなく、
つねに他者との関係の総体。
コミュニケーション能力は、相手との関係次第で高くも低くもなりうる
また、相手との関係によって偶然的に起こるスクール・カーストは、
偶然発生(コミュニケーション次第で発生)するからこそ、
自分の努力では変えられない強い拘束力がある。
そして、グループ内の対立や衝突を避けるために、価値観をうまく調整するためのコミュニケーション能力に光が当たる。
やはり、コミュニケーション能力だけが絶対的に優位性をもち、人びとを序列化するようになる。
しかし、若い人びとのあいだには、いったんどこかのグループ内に入ったら、けっして誰か特定の人物が優位に立ってはならないという原則も存在しています。
互いに対等でなければならないという強い規範があるのです。
カーストの違うグループとの交友関係が避けられるのも、序列化された関係をあらかじめ回避するための技法の一つです。
(中略)
どうしても上下関係になりそうな人間は、異なるカーストとして最初から圏外化してしまい、認知の対象とすらしないのです。
したがって、同じグループの内部で、対等性のバランスがわずかでも崩れると、被害感情が募っていくことにもなります。
対等性の微妙なバランスを保ち続けるためには、グループ内の一人ひとりに配分されたキャラをはみ出すことはタブーなのです。
ここまでが「第一章」
最初の現状把握なので、細かく書いてしまいました。
自分なりの考察
あちらを立てればこちらが立たず、といった感じで、問題どうしがわざと絡まりあっているのではないか、というくらい袋小路に入っているように感じる。
「個性を煽られる」で挙げた問い
「個性を煽られる」で挙げた「個人的な問い」の残りあります。
- その集団の中にいて自分の立ち位置(要はキャラのようなもの)が決まると、自分はそういう人間なんだと自分で位置づける。
- その位置からは逃れられないものだと思い込んで、一生の間社会の中でもそうなのだろうと思い込んでしまう。
今回で、これらの問いへの答えは見えた
これは、要は「対立や衝突を回避したい」ということだ
好き勝手に生きてはKYになってしまう
子どもたちは、自分を守るために、自分に相応しいはずの「空気を読んだ自分」を選んで振る舞う
また、私が見る限り子どもたちの中には、
これ以上自尊感情が下がりたいくないから
ある程度自尊感情が下がった自分でいい
だから「とにかくもう私が生きることを邪魔をしないで」
というような、人生を悲観した子がいると感じています。
今、そうした子たちの自尊感情を上げるにはどうすればいいいのか
奮闘しているわけです
そのためには
「人とかかわれる手段や知恵や考え方」
を提供する必要があるのだろうなと感じます。
- 個性は他者との関係から見出せること
- 「素の自分の表出」に承認が必要なこと
- 排除されないための本来出ない自分の関わり方をしていること
これらを解決するには「他者との相応しいかかわり」を行うしかない
そんなものあるか知りませんが。。。
何を相応しいとするかは、今のところ分かりませんが
「相応しいと考えられる関わり方」が必要なようです。
たとえば、この3つを目指す
- 他者との関係から個性を見いだす
- 承認を気にせず素の自分を表出する
- 自分らしくない関わりをしない
次回の「第二章」で、ここで書かれた人間関係が
どのような人間像を生み出しているのか、「キャラ」というキーワードを手掛かりに見てきます
さらに「個性を煽られる」で土井さんが挙げていた4るの事柄についても深めたい
①人間関係の構成原理をもう一度見直す
②個々の問題に潜んでいる社会的な共通因子を見出す
③「個性を生かす」ではなく「個性を伸ばす」
④大人のメンタリティを問い直す必要がある
前回の「個性を煽られる子どもたち」
キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)
- 作者: 土井隆義
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2009/06/05
- メディア: 単行本
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