授業において、「何ができるようになったか」が重要になってくるとさかんに言われていますね。
そこで「身につけたい力」を示すという手立てがよく聞かれるようになりました。
その理由は「身につけたい力」を子どもと共有して、この授業の意図に向かって、子どもが自覚しながら学ぶためです。
そうすることで、定着率が良かったり、意欲が沸いたり、深い学びにつながるというわけです。
ただ、その"身につけたい力"の共有の「質」を問わなければ、本末転倒かな、と感じました。
"身につけたい力"の主語は誰なのか。
教師が子どもに"身につけたい力"。
子どもが考えた"身につけたい力"
教師と子どもで考えたこの単元で"身につけたい力"
教師だけが考えた"身につけたい力"
この辺りを意識すると、学びに「価値」が出るかなと思います。
教師が「価値」を示したり、「価値」づけることは大切だと思います。
その「価値」のよさを、教師が思っているだけでは、子どもたちにとっての「価値」にはなりにくいのではないか、と思うのです。
子どもとしては「それが「価値」があるってことは分かったよ、僕自身が「価値」あるものとは思えていないけどね……」みたいなことが起こるよな、と感じました。
"身につけたい力"や「価値」を、子どもと共有できるといいですよね。