それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

「価値観の違いこそが課題を生む」

卒業式まであと3日!の「ハピペン」です。毎日、一つ一つ、課題と向き合って進むしかない。

 

そんな中で、「価値観の違いこそが課題を生む」と感じました。

 

そんな言葉があるか知らないが「卒業式観」ってそもそも一人ひとり違うのではないか、と。

 

もっと細かく言えば、卒業式の中の「コール観」など。もちろんこの辺りは正解のないものだと思う。

 

たとえば、コールを「一人一か所言うか」「複数人で言うところもつくるか」は、経験によるだろうと思う。

この二つに価値観の違いがあるということにわざわざ気づかなければ、そのときの実態によって自然に勝手に「コール観」は変わるはずである。(要はだってどっちがいいってないし、どっちでもいいよね?)

「コール観」の違いに良いも悪いもないから、実際は、単に大規模の学校か、小規模の学校かといったちょっとしたことで、「どんなコールにするか」は変わるだけの話である。

 

だから、こういうコールの在り方こそ至高ってことはないはず。

国レベルの教育政策の違いのせいで、社会に出てから「君はゆとり世代だからなー困るなあ」とか言われちゃうみたいに、「いや、君は卒業式のとき一人一か所だったでしょ?それじゃあなー困るんだよ」なんてことは絶対言われない。

 

だから、絶対的な「コール観」てないと、私は思う。

 

ただ、ここでまた、「参加」か「力」かみたいな話が出てくる。

優先順位は「ある『枠』を達成する力を一人ひとりが身に付けることなのか」「活動にみんなで参加して活動を達成することなのか」どちらだろうか。

実際は、どちらとかくだらない話をしている暇があったら、上手く設定してどちらも達成したらいいと思う。

しかし、執拗な「コール観」などがあって、どちらか一方しか優先しないという考えが起きた場合、両方を手に入れることはできない。

 

その優先順位の違いが「価値観の違い」ってことだ。

 

その価値観の違いは、どちらが正しいとい最終的に決められるものではないと思うが、「その価値観を擦り合わせる」という課題が生まれる。

(法か、慣習か、道徳か、生産性か、経済的か、幸福度か、将来か、どれもクリアしてるとしても頑なな人もいる。)

 

ただ、これは悪いことではない。

価値観の違いに出会って、課題を見つけて解決していくことは、生きることの意味の一つかもしれない。

一つの価値観しかなければ、そこには課題は存在しない。いつもいつも通常営業で日々をやり過ごすことができる。

 

価値観の違いにぶつかった「居心地の悪さ」は、「自分にとっての大きな成長チャンス」の可能性がある。

大事なポイントとして、「一人で戦わなくていい場合に限る」って感じがするけれども。

 

「価値観VS.価値観」の中で、こちらも一人で戦わされてしまうわけではないからこそ、こういう前向きな考えができる。

 

どんな価値観にも味方はいる。どうしてもその場で自分の価値観に理解を示してくれる人が自分しかいないときは、無理しなくてもいいと思う。

 

ただ、あなたの価値観は悪いってわけではないってことは忘れないこと。

たとえば、悪いのは、その価値観を見直さないことだと思う。

そして、新しい価値観は否定されがちで、時代が追いついていないだけのこともある。

今は、過渡期だってことだ。

 

ただ、ある価値観が誰かを不幸にしていて、またある価値観が誰かを幸せにするなら、その価値観は検討に値するってことだ。

 

ある価値観を大人が辛いから拒否しているのか、子どものためかも吟味する必要がある。別に大人のために価値観を擦り合わせる必要はないんだ。

 

すべて子どものために。

目の前の子どものため、未来の子どものために相応しい価値観を示せる大人でありたい。

自分の古い価値観を崇高化してさも正論、さも正解のように振りかざしている大人は、その価値観から外れる子どもを平気で見殺している自分の異様さに気づいた方がいい。

 

どの子も好きな在り方で生きていいんだと思うよ、本来この世界は。

 

そんな中で、違った価値観に出会うから「自分がしなければならないこと」「自分がすべきこと」「自分がしていきたいこと」が生まれるように思う。

 

決して「価値観の違いを否定しない」で。

そこからが始まりだということだけは忘れず。

そこからこそ「始められること」への温かさにだけは鈍感にならず。

「価値観の違い」を受け入れて、愛おしめたなら、見える世界がある。

 

「何に気づいたか」は、明日の記事で。

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