ある交流級のクラスの子の名前を全員覚えた「ハピペン」です!
今日あたりから、ふと今の学校を楽しめそうな自分に気づいた。ホントちょっとしたことなのだけれど、昨日くらいから話しかけてもらえることが増えたと感じる。ちょっと根暗でキモイけど「あっ、話かけてもらえた」って感じる。
今日もそうだった。実際は、私云々ではなく、周りもつかの間のゆとりができて、私を含む他者に目が向くようになっただけってのもあるだろう。
その一因に、子どもの名前を覚え始めたっていうのがあると思う。先生の楽しさってのは、子どもがいなかったら皆無なわけで、その学校の子どもを知っていれば知っているほど、職場は楽しいってわけだ。そうすると、やっぱり楽しいんだよ、学校ってのはさ。
っていうところで、一つ記事の紹介。
私は、「自尊感情」や「自己肯定感」というキーワードについて考えるのが好きです。これらを、どうやって育むのか。私は何度か「否定しない」ってことを言っていますが、こちらでは「〇める」ことが良い、と紹介されています。
その通りだなあ、と思いました。
学童のときに大切にしていたのが、「信じる、誉める、認める、仕掛ける」ということでした。
そのうちの「認める」。私はこれを大切にしているのだな、と改めて気づかされました。
私が子どもによく使うフレーズに「まあそういう日もある」「そりゃ大変だったねぇ」「いろんな日があっていい」「気持ちは分かるよ」と使っています。
(私は、物語シリーズの、忍野メメが「元気いいねえ、なんかいいことでもあったの?」ってイメージで使っているつもり。)
よく大人がしてしまうのはこれらの言葉の後に、「でも……」と言って違う解釈を付け足ることがあると思うのですが、私はそれをしません。受け取って終わり。
「言い返さない」ってことが「認める」ための鍵かもしれません。
「認める」ってのは、目の前にある現象や人間、出来事、時間軸を、「あり」って思えることだと思います。
失敗も、間違いも、辛さも、悲しみも、全部「あり」にすることで、自分がありのままでいることを受け入れられて、少し強くなれるのではないでしょうか。
今日、ビーチボールが頭の後ろに当たって、「痛ーい」と泣いた女の子がいた。私は、「んなわけあるか」って思った。百歩譲って、不意に対する感覚が過敏だとして本当に痛いと感じてたとしても、事が事だ。
私は笑いながら「まあそういう日もある」と言った。「本当に辛ければ休むがいい」とも。
そうして、今を「あり」にできたとき、踏み出せる一歩もあると思う。「大丈夫?辛かったね。苦しかったね。無理しないで。」なんてことも言えるかもしれない。でも、そしたら「なんで私ってこんな最悪で不幸なんだろう」って思えるのではないだろうか。だったら「そういう日もある」で「そういう日もあっていいんだ」って知った方がいい。
世の中の大人の価値観が「ノーミス」「完璧主義」に拠っているところがあると思うんだ。いいよ、失敗して。いいよ、間違って。いいよ、そのまんまの今で。苦しければ苦しめばいいし、楽しければ楽しめばいいだけなんだから。
苦しいのは嫌なことであっても、悪いことじゃないってこと。
そして、私は全員の人生を「あり」にしたいんだ。