かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「過剰介入した人生」って、誰の人生なんだろう?

ちょっとだけ、生活が崩れて眠い「ハピペン」です。寝るのが遅いのがちょっと問題。

通勤中に読んでいる本について記録する。
(大事なところが多くてたくさん書いてしまいました。)

 

「過剰介入」の境界線ってどの辺りにあるだろう?

介入するほど、その子の人生がよくなるとしたら介入を増やした方がいいのだろうか。

ただ、その介入しまくった人生って、誰の人生なのだろうか。その子が納得さえしていれば、介入し放題でいいんだろうか。

"自分の"人生を自分で生きるためのバランスってあるんだろうか。

 行きに読んでいる本から。『アドラー博士が教える「話を聞ける子」が育つ魔法のひと言

妨げるだけでいい

「危ない!走っちゃダメ!」
 ↓
(言葉でコントロールせずに)手を握って、さっとその場を離れる
P64

小さい子には、言葉よりも行動の方が有効だと書かれいています。

危険な場所では手をしっかり握ってあげればいいのです。
P64

公園では手を放すときもあっていいのでしょうが、町中の道路で手を放す必要ってあまりないのですよね。

よく道路を走っている幼稚園児ぐらいの子に、「先に行かない!」「待ちなさい!」と言っている姿を見ますが。

家族のルールとして、家で約束して話をしたら変わらないかな、といつも思っています。

そうしたときに、

「何やってるの!車に轢かれて死にたいの?」

などと、心配のあまり、子どもを脅かすようなことを言うと、子どもは親の想像以上に怖がります。
(中略)
そして、恐怖心は、子どもの成長に大きな害を与えかねません。
では、どうすればいいのかというと、基本は「にっこり笑って、ばっさり」です。「そっちは危ないからやめようね。はいこっちね!」
と手をつかんであげればすむことなのです。
P65

笑顔で抑止」は有効です。私が1年目のときに定年を迎えた先生もよく言っていました。そして、それが上手で驚きました。

怖いから諦める。怖さで諦めさせるような指導は、良い効果は少ないようです。

 

この、行動で指導することは、「ペアレントトレーニング」の「タイムアウト」の考え方にも似ています。

軽度発達障害フォーラム ペアレントトレーニング

 

私は、簡易版として、教室にビニールテープで枠組みをつくり、「思いやりスペース」と呼び、友達が嫌がること、それが口頭で注意しても治まらないときに、警告した後、思いやりスペースに子どもを運びます。

・深呼吸

・10数える

を促します。

そこで、止まって10秒数えたら、無条件でもとの場に戻れます。

またやれば、また「思いやりスペース」に運ばれます。

「何が悪いか、どうして悪いか」は、思いやりスペースに行くのを嫌がったときに話すことがあります。ただ、大抵何が悪いか分かっているので、自主的に行動が減っていきます。

教師は、感情に訴えかけて思考させ行動を改善しようとすることが多いと思いますが、それでもやってしまうのが子どもです。

しかし、それが、周りの子に危害を加えるような場合は早急にやめてもらう必要があります。即効性があって、持続性がある変化を起こすには、諭しているだけでは難しい場合があります。

 

こちらの「妨げるだけでいい」という話にも強く共感しました。

自分が自分の主人公! (たの研 内沢達のHP)

お時間のあるときに見てみてください。

 

「約束」よ「お願いね」は"裏命令"の言葉

〇〇した方がいいと思うよ 」。これは、私の使う言葉で、超頻度が高いです。

「〇〇しなさい!」は、ほとんど使いません。

善悪の判断ってほとんど幼児の段階で注意されまくって知っていると、私は思っています。ただ、その判断を常に自分の意思で発揮できない。自律しきっていないのが子どもです。

だとすると、その判断を呼び起こすだけで子どもは相応しい行動を取ることができるはずです。気づかせさえすればいいってことです。

それにも関わらず、教師は、アイツは分かっていないという前提で、強めに注意することがあるでしょう。そうすると、子どもはその辺りを見透かして、あえて悪い方を選ぶことがあるように思います。

選択権を委ねる。それが周りの子に危害を加えない限りは試させる。そして、失敗をフィードバックし、よりよくなるにはどうするか対話して考え合うという流れが、行動改善にも、子どもの感情にとっても有効なように思います。

そして、気づきの再現性を高めていくにはどうすればいいか考えていく。

子どもと約束するときは、あくまで話し合ったうえでするのが原則です。
P70

超大事だと思います。

 「布団とりこんでおいてくれる?お願いしていいかな」
P71

こんな風に、「否定形」から「疑問形」にしていく。それで、もし「疑問形」で子どもが望ましい行動を取れないとしたら、それは、その集団に所属しているという感覚が薄く、「貢献感」が抱けていないと考えた方がいいです。お願いを聞いてくれないことを脅す、語気を強めるなどして強制しようとするとますます所属から遠のきます。

所属は「させるもの」ではなく「するもの」です。

じゃあ、どうすれば所属したいと思えるかは、「コンプリメント」や「意見が言えること」などが関係してくるでしょう。

 

「なぜ?」と問うより、「どうするか考えさせる」

 「なぜ?」や「どうしてそんなことしたの?」これは、問題志向です。警察や裁判官みたいです。動機が刑期に関係するから重要でしょうが、教師もよく「なぜ」を聞きます。わざとか、わざとでないか、もしくは、相手も悪くないか、誰が一番悪いかを知りたいのです。けれど、子どもはその辺りはよく分からないことが多い。

「どうすることか考えさせる」は、解決志向です。子どもがどうすればいいのか、理解していくための話し合いにつながります。

わざとの場合「そういうことはしてはいけません!次からは絶対しないように!」などと指導して終えることがあります。けれど「子どもは気持ちのいいことしかしない」というのがあります。

なぜ、わざとそうしたのか?それは気持ちがいいからです。そのときの教師の指導がその気持ちいいを越えられるかが鍵になってきます。

そして、もう一度起こった場合、さらなる教師の指導で子どもにとっての気持ち悪さを高め、わざとやったことの子どもの気持ちよさを越えるしかなくなってきます。

最終的にスーパーサイヤ人がどんどん出てくるような、感情のインフレが起きます。

教師は疲れると思います。それが仕事だと思っている人もいるみたいですが、教えるが抜けてない?ってよく思います。

下手すると先生ってのは、「もうしちゃいけない」ってことしか教えてくれないときがあります。

どう、それを越えるかが、「どうするか考えさせる」ことです。もし、出てこなければ選択肢でいいです。子どもが「わざとした気持ちいいこと」から別の「気持ちいいやり方」に移行させればいいだけなのです。

そして、望ましい行動を表出した際には、賞賛を与えて、気持ちよさにプラスしてあげれば、望ましい行動が増える可能性が高まります。

「できたね」「よかったね」で、子どもの"聞く心"は育つ 

人を肯定する言葉を使おう。余計な小言を言うのはよそう。

テストが80点だった。「よかったね」にとどめておく。受け取って様子をみる。認めたのちに、「見直しておくといいかもね」くらいは言うかもしれない。

アドラー博士は、否定的な言葉を避けたほうが相手がよく聞いてくれると言っています。
P80

できたことを認める

ここはめちゃ大事な考え方です。

私は、大人ってすでに正解をもっていて、そこに達しているかを「よい・わるい」で評価している節があると思うのです。

ただ、それって、大人にとっては当たり前でも、子どもにとっては何日かステップが必要かもしれないんですよね。

だから、日々「これだけできているよ」というフィードバックの方が必要だと思うのです。

けれども、その指導内容が、「当たり前のことほど、当たり前のことができないということで糾弾しがち」です。

座る、あいさつする、手をあげてから話す、廊下を歩く、静かにする。これらのことは、大人にとっては当たり前のことかもしれませんが、子どもにとっては子どもの特性と全く逆のことをしているので、全然当たり前ではないのです。

子どもの発見を蔑ろにしてはいけません。

もし私たちも子どもを発見できているならば、その特性と真逆のことをもっと賞賛すべきだと思います。

特性に反するができていないことを、名指しで注意して揃うのを待つ前に、出来ている子を賞賛してあげてほしいです。

「今日は、3分できたね」「20人くらいできたね」「大変なことを頑張っているよね」など、なんでもいいので、できている頑張っている子を「すごいね」扱いしてほしいです。

もし、賞賛できないとしたら、それは、少しのステップを上っていることに気づけないということでもあります。

成長に気づくっていうのは、瞬間的なもので、一生にそのときしかないかもしれないもので、尊いものです。それが、大人次第で見逃されてしまったり、潰されてしまうというのは、本当に酷だと思います。

子どもには常に、「いいんだ。自分のベストを尽くせば大丈夫だ」と思わせておくことです。
P87

 これは、大事だと思います。能力の比較はしなくていいって感覚は大切だと思います。ただ、違いはあるという比較は重要です。ただ、できるできないの比較はあまりいらないかな、と。向いている向いていないとか、やり方の違いとか、気づくことで有用なことはいくらでも比較すべきだと思うのですが。

親は、過剰介入を慎むほうが伸びるものなのです。
P88

 「自分で自分から」の大切さを思う。

過剰介入については仮説にすぎないのかもしれないが、いつも自分に「この介入は過剰ではないか」と問うのは、子ども自身を伸ばすことにつながりそうである。

どこまで介入できるかは、学校の大きな課題でもあると思うし。

 

6/5(月)の分はここまでにしよう。

帰りに読んでいる本は、「武士道」の話に入ってなかなか親しみがなくて、ピンとこない。勉強したいと思っていたのだが、「武士道」は、身体を通して学ぶ必要があるってことだろうと強く感じる。