かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

子どもに注目していることを示すには?注目ってどうすれば注目なのか?

自己紹介で、最近した贅沢は「オリーブをたくさん食べること」と応えた「ハピペン」です。イタリアンのお店でテーブルに「オリーブ」がおいてあって好きなだけ食べていい風味なお店があって驚きました。(その日はお茶だけだったのでそれにはありつけませんでしたが……今度改めて行ってみよう。)

 

子どもが抱く「注目されたさ」

アドラー心理学>などで、子どもの問題行動は、目的があるから、と語られます。

目的は以下のように移っていき、1から順に得られないと感じると次の数字へ向かいます。

  1. 誉められたい
  2. 注意を引きたい
  3. 権力争い
  4. 復讐
  5. 無気力

できれば、1や2のうちに、対処できるといいなと考えるわけです。

個人的には、大人一人で、すべての子どもの「誉められたさ」や「注意の引きたさ」を満たすことは不可能なのではないか、と考えています。

そのために<クラス会議>という方法があり、<クラス会議>のプログラムを行う中で、「認められる場」「傷付けられない場」という風土を作り、安心を保証し、信頼関係を構築することで、学級に指導が入るように導ていくというわけですが……。

 

今回は、どんな言動が、子どもの「誉められたさ」や「注意の引きたさ」を満たすのか

 

その鍵の一つに「CARE(コミュニケーションに焦点をあてた心理教育的介入プログラム)」というプログラムにある考えが分かりやすいと思いました。

研修で聞いた、「CARE」の考えから「3K」と「3P」を紹介します。

 

CAREって何?

●「CARE(ケア)って何の略?」次の頭文字をとったものです。

C:Child(子どもと)
A:Adult(大人の)
R:Relationship(関係を)
E:Enhancement(強める)

CAREとは - CAREプログラム-子どもと大人の絆を深めるより 

 

「CARE」は、子どもと大人の関係(絆)を強める(深める)プログラムなようです。

子どもの問題行動に困って、関係が作れない人をはじめ、子どもと接するすべての大人

が対象と書かれています。

 

そのCAREで大切にしている子どもとの関わり方に「3K」と「3P」があります。

 

「3K」(減らしたい3つのK)

「減らしたい3つのK」

  • 質問
  • 命令(指示)
  • 禁止(否定)

この3つの言葉は、子どもを直接的・間接的に誘導する行為であり、主導権は大人だと示すような言葉である。

質問は、間接的命令と言われる。「宿題やったの?」というとき心の中では「宿題をやれ」と少なからず「命令」を含んでいることは想像しにくくないのではないだろうか。

 

あくまで、いつでもこうしろというわけではなく、こうした言葉を一切排除した時間をきちんと確保することで、子どもは信頼されているという賞賛を感じ、反対にこちらに信頼を示してくれる可能性が高いということだ。

(参考:

学会等報告: Child-Adult Relationship Enhancement(CARE)ワークショップに参加して | 愛育ねっと(子ども家庭福祉情報提供事業)

 

「3P」(使いたい3つのP)

「使いたい3つのP」

  • 繰り返す(Paraphrase)
  • 行動を言葉にする(Point out)
  • 具体的に誉める(Praise)

この3つの言葉は、子どもに対する関心を示したり、いい行動に正の動機付けをする意味などがある。

 

この2番目の「行動を言葉にする」というのが、秀逸だと思った。

これは、子どもにとって「確かに注目している証拠」になるのではないか、と思った。

「注目している」ということが、快になるのだから、それを示すためには、別に「誉め」も「肯定」も必要なくて、「行動を言葉にする」だけでよいわけだ。(この子どもが起こしている行動の実況は、アンガーマネージメントの自分の行動や感情に気づかせるための手法にも似ており、プラスの影響があるものなのだと感じる。)

これも一つ、賞賛につながるということが興味深い視点である。

また、「繰り返す」というのも、有用だと考えられる。「メディエーション」の考えにとても近い。

「死ね!」って言う子がいたら、「死ねって言いたくなる気持ちだったんだね」といった感じに繰り返す。

このとき、表出されているものがあまりにも社会的ではない場合には、「肯定的な要素」をプラスして繰り返すことも大切である。

「死ね!」→「死ね!って言いたくなるほど悔しかったんだね」などである。

(参考:

学会等報告: Child-Adult Relationship Enhancement(CARE)ワークショップに参加して | 愛育ねっと(子ども家庭福祉情報提供事業)

 

「CARE」の「3つのK」「3つのP」は、子どもとラポールを形成するための(それ以上に日常生活においても関係を深めるために有用な)、エラーのない関わり方、かつ、プラスな関わり方だと感じました。

 

以上から分かる子どもの性質として、

◇子どもは、大人に信頼関係があれば指示を聞けるということ

◇そして、こちらが子どもたちを信頼して、「子どもたちが主導権がある」と感じる体験をさせなければ、子どもたちもこちらを信頼して、「こちらに主導権がある」という体験を子どもたちが受け入れないだろうと思った。(そもそも、主導権がもてないように振る舞ってくる可能性が高い。無理に強行しても、その圧力かストレスか、抑圧された感情は、表出できるどこかで表出され、誰かを困らせることになるだろう)

以上の二つが浮かんだ。

「出遅れること」

チョコレートはホワイト派の「ハピペン」です。森永の板チョコアイスにホワイトが出ていて、うまうまーです。開発者の方が私のようなホワイト派のために尽力してくださったかと思うと感動……。

 

さて、今日は、「出遅れること」ということについて書く。

 

「置いていかれたら。置いていかれた人と、歩いていくしかないじゃない?」
これは、自論で私論だけれど、ギャング・エイジ後、非行の流れの原理は、これだと思っている。置いていかれた存在特有の何かが結びつきを煽る、と。

 

そんな「出遅れること」について。

 

見識をくれたのはこの本。

子どもと教育を考える 15 自我のめばえ

子どもと教育を考える 15 自我のめばえ

 

 

この本に書いてあることを見て、

 

どの子どもにも、

どの人間にも、

 

自分は外の世界や現実に対して「出遅れているかもしれない」という劣等感や不安のようなものを抱く時期というのがあるのではないか、と思った。

 

そうして、「誰かに追いつきたい(同一視)」。

 

そういう、無限に(延々と)解決することない、幻想を追いかけて人は、成長しようとか、誰かに適おうとか、認められようとか邁進するのかもしれない。

 

「先にいる者と後からくる者」

ちょっと長いんだけど引用。

(ある子どもが寝て起きるとき)

目覚めた世界に先にいる者は、後からくる者が入りやすいようにと気をつかう。これは保育にたずさわる場合の根本のひとつである。このことは、この場面に限らない。
すでに楽しく遊んでいるところに他の子どもが来た場合や、よその子どもが遊びにきたとき、新学期に、すでに上ったグループに新入生が入ったとき、大人の場合も、親しい仲間関係があるところに新入者を迎えるときなど、同様のことがある。
ごく幼いときから、自分が出遅れたと感じたときに、迎え入れてもらうことを体験した子どもは、逆の関係になったときに、他人に対して保育的配慮をすることのできる者となるであろう。

目がさめたときに、泣いてむずかる子どもは、それなりの理由がある。放っておいたり、叱ったりしてはいけない。まず、目ざめたときにすでに動いている現実の世界にあたたかく迎え入れることが、保育者の最初の仕事になる。

ある環境に対して「遅れを取った」と感じる子どもは、追いつこうと自分を働かせる。

なんとかそれを受け入れてもらう素地を自分なりの力で展開する必要があるが、そこで変に強がって、自分から離れた自分を演じるとややこしいところがある。

 

そのために、自分は自分なりに選択をして、現実を生きることになる。

大人の姿勢としては、「遅れを取った」と感じている子どもに対して、大丈夫なことを示し、復帰できるタイミングを示してやることである。
(行けそうなときに、行く試みに付き合いきってあげることが大事かもしれない。)

 

「出遅れること」

人は「出遅れたこと」に気づいたときに、狼狽し、動揺するのは、二歳の幼児のみではない。大人になっても同様のことがある。
しかし、幼児期から、それを処理することを学んできた者は、次第に、わずかの助力でそれを乗り切ることができるようになり、更に、もっと広い人生の舞台で同様の場面に出会ったときにも、うろたえることなく、建設的に処理してゆくようになるであろう。

 この「出遅れ」にどう対処するか。これは、ストレスマネジメント、ストレスコーピング、レジリエンシー、アンガーマネージメントなど、そういう類の力なのかもしれない。

 

ここで知っておきたいのは、人は「出遅れる」という心苦しさをよく抱くということだ。

A子は、きょうは起きるのが遅くなった、どうしてもっと早く起してくれなかったのかと言って、きげんがわるい。時計の時間としてはいつもとほとんどかわらないのに、自分が起きたときにすでに妹たちが起きているというのは、遅く起きたのと同じことなのである。

(中略)

母親は、子どもが出遅れた認識をもつにいたった経過を察していたので、食卓のサービスを少しよくしてやる子どもはじきにきげんを直して、学校に出かける

 イメージされる光景に、「温かさ」と「優しさ」を感じる。

ここで知っておきたいのは、「出遅れた人」は、誰か何者かによって、その憂いを拭うことができるということだ。

私たちは、つい「便利な子ども」を求めすぎるところがあると思う。

いつの間にか、気づかないうちに、知らないうちに「便利な子ども」を生み出すことに必死になってしまっていることがあるだろう。

気づけば、その子どもが「便利でないこと」に腹を立ててしまっている。(なかなか恐ろしいことだ)

ある子どもが、それくらいのことで耐えられないからと言って、それくらいのことで悲しむからと言って、それくらいのことで助けを求めるからと言って、別にそれはなじらなくてもいいことだったりする。

突き放して与えた孤独は、いずれ誰かにそっくりそのまま還元される。

この衝撃的な題名の本の中にもそういったことが書かれていた。

反省させると犯罪者になります (新潮新書)

反省させると犯罪者になります (新潮新書)

 

 

子どもが自分は「出遅れている」と焦っているときは、どうにかこうにか少しでも並走して、子どもが自分から走るスピードを速められるような励ましをしたい。

社会は完全か不完全か

最近目覚ましを使わないで起き始めた「ハピペン」です。人は自然に目覚めるときは、レム睡眠で、夢を見ているときです。そのタイミングで起きないために朝のストレスがすごいのではないか、と思ってそうしています。そう思っているからというのもあると思いますが、いくらか、その方が目覚めが良いです。

(今日のは(今日も)ちょーっと、書きたいことをかなりダラダラ書いてしまった記事です。すみません。)

自分と時代とのズレを垣間見た記事

今日は、最近気になっている「宮台真司」さんの記事を見て思ったことを書きます。私は、こういった記事を見ると<メタ認知>を促されるなあと思いました。

realsound.jp

 

この記事に何度か出てくる言い回しに、

映画や小説などの表現には二つの対照的なフレームがあります。
第一は、本来は社会も愛も完全であり得るのに、何かが邪魔をしているので不完全になっているとするフレーム。不全をもたらす障害や悪の除去が説話論的な焦点になります。
第二は、本来は社会も愛も不可能なのに、何かが働いて、社会や愛が可能だと勘違いさせられているとするフレーム。そこでは、ベタに可能性を信じて悲劇に見舞われる存在と、不可能性を知りつつあたかも可能性を疑わないかの如く<なりすます>存在が登場します。

 というのがある。

 

無知で、よく知らない内に、私もこのフレームの中にいることに驚く。

 

そして、私は、<第一フレーム>の思考を持っていた。

 

今時は、性善説ではない?

たとえに自信がないのだけど、私は、将棋に最善の手があり、相手に合わせて最善の手を出すことで理論上必勝法となり得るように(到底人間の頭では計算しきれないが)、「その時」に対応する最適解があると信じている。

けれど、「様々な理由」によって、世の中は最適解が実行できないだけなのだ、と考えていた。

ただ、出来る限り最善手に近づけることはできる。
そして、そこに導いていくための考えが少しでも普及するといい、となんとなく考えていた。(特に子どもの見方等々)

だから、性善説で考えることも多い。みんなが善を持っている前提。公教育ってそういう場なのかもしれない、とも思うけど。

でも突き詰めると、自分の中に「子ども=善」で「大人=善を阻む悪」の図式があることに驚愕する。

私は、子どものことを考えているというより、大人のかかわりの相応しくなさから不完全になっている、と確かに思っていると感じてしまったのだ。

その子のために大人を正そうとする。という思いがあったときに、目的が「子どものため」だか、「大人を正すこと」なのか、自分の中で動機が混在していることに気づいてしまった。(「子どものために大人を正す」という感じに、思考の際に「子ども」が抜け落ちていなければ良いのだけど。)

 

それが、どんな思いだろうと、どんな結果を生むかっていうところまでは決められない。思いと結果には、もっと複雑な変数がかかわってくるだろう。
ただ、その自分の黒さに嫌悪が沸く。

この嫌悪の正体は、自分の正しさを証明しようとする、自己本位さだろう。

秩序が無秩序を否定するという無秩序を生むというパラドクス

これは、学校の怖いところなように思うのだけれど、学校とは正しさを管理している風潮があると思う。

特に先生各々は、集団を管理し経営を進めるために、一人の大人が正しさとして君臨することが少なくないと思う。

けれど、とにかく注意しなければならないのは「ある秩序が決まったとき、それ以外は無秩序と見なされるという無秩序が生まれる」ということだ。

公教育が生み出す秩序は、全員を包摂するということである。それにもかかわらず、ある秩序は、その秩序に適さないものは不適切として扱う。その誰かを不適切な存在として扱うことは、目指す秩序から外れる行為になってしまう。

このさも正しいと思って秩序を生み出しているつもりで、誰かを排除しているかもしれないというところに嫌気が指すのだなと思う。

そして、その秩序の気持ち悪さは、一人の大人に依存した秩序でしかないというところだ。

これは、最近別の路線でも気づいたのだけれど、いくら一人の教師が大人を一人でも多く正したところで、その正しさは一人の教師に依存する

教師とのかかわりがなくなれば、たちまち求める秩序は崩壊してしまう可能性があるのだ。

 

そうしたときに、やはり<第二のフレーム>が必要になるということだと思った。

 

どこに向かって邁進しようか

高圧的な正しさを横に置きつつ、依存も避けて進むにはどうすればいいのか。

問題は、もし正しさを訴えているだけで、自分は何もできていないとしたら、それはもうどうしようもないと言えるくらいの存在だということかもしれない。

でも、もししているのだとしたら、それは違うのかもしれない。

 

そう!勝手にひらめいてしまってとても気持ち悪いだろうけど、ちょっとここまで捉え間違いをしていたわ。

 

要は、正しさで誰かをやっつけようとしてたのか。さらに言えば、実際にやっつけちゃったのか?ってことだ。

やっつけようとしているときもあるのではないか……という心配はあるのだけど、だからと言って周囲の人が誰か倒れてしまったわけでもない。

そういう意味では、倒れるまではいかないけれどふらつかせるくらいはしているのかもしれない。

それでも、周りは立ってくれていて、目指す方に向かって、みんな(私も含めて)立て直して、子どもを見つめている。こっちが事実だわ。

 

目指す方には何があるのか?

目指すということは、今ここにはないという前提があるということになる。

本来は社会も愛も完全たり得るのに、何かが邪魔をしているので不完全になっているとする<可能性の説話論>。
本来は社会も愛も不可能なのに、何かが働いて社会や愛が可能だと勘違いさせられているとする<不可能性の説話論>。

 

改めて考えると、私たちがこのどちらを生きているかは、分かりえないことで、そもそもはこの間を生きているというか、この二つのフレームのどちらもを眺めることができる<現在地>という<現実>に立っているだけということに気がついた。

 

言ってしまえば、
性善説は素質ではなく後付けの願望だったのかもしれない」し、
性善説は本当生まれ持った性善説かもしれない」ってことだ。

この正解はなくて、分かっていることは、「性善説を目指そうとして目指しているけど、私たちはなかなか辿り着けない」ってことだけだ。

性善説だろうが後付けだろうが保持している「理性」と性善説じゃなかろうが後付けされたものでなかろうが保持している「本能」に<現実>を呼び起こされているってことだ。

 

たぶん、ここからは、じゃあそれはどう選ばれるのか選ぶと何が規定されるのかというところが問題になるのだと思う。

 

人々は自分なりの希望に向かって

人々は、結局、今の自分が巻き起こしたい方向へ向かっていくのだとしか言いようがありません。

正しさも正しくなさもそもそもなくて、そこにはそれ(という現実や社会)が存在していて、絶え間なく生まれ変わり続けているということです。

そこに勝手に<現在地>によって、善し悪しを見い出しているに過ぎないということです。

その価値観に本質を見いだしたり、統一性を持たせようとするのは、どこか違うというか大きなズレを生む可能性があるということなのだと思います。

けれど、やっぱりこの両方と重なる宙ぶらりんになる視点があるように、誰もの営みにも共通される考え方があるような気もします。

その考えの中身、質、量などは違うのだけど、その考え方は同じかもしれないってことです。

ここまで来て思うのは、「<現在地>からの<現在地>なりの希望性(希望だと感じられる生き方)を見い出したいんだ」ってことかな。

人々は、善し悪しというよりは、単純な希望に見えた、そう錯覚した、そう感じてしまった方に行ってみたくなって<現在地>を変えて見え方を変えているだけなのかもしれない。

そうそう、現実の見え心地がいいところで、時の流れを見ていたらいいだけなのかもしれない。

そこで、手を出すこともあれば、手を出さないこともあるってことなんだと思う。

その躍動は、自然な偶然と必然の折り重なりで、ある種オートメーションで進んで変化も起こるものなんだと思う。

 

世界が最悪でも、デタラメでも「変数を楽しむ」「それでも正しいと思うことをやっていくしかない」。そうして、子どもたちには、社会を信じて参加しようと思えるようになってほしい。その幻想しか、社会をよくしようと思える原動力にならないだろうから。

そう、だから、人は後世に真/善/美をプログラムするってことなんだと思う。

社会がデタラメできつさを感じたんだろうね、そのデタラメさも覆い隠されているし……おや?(隠してんのか。)

 

宮台さんの記事の続きです。

realsound.jp

主体性について

新しいちょっと高い手袋をして通勤しているのですが、指先が寒いよ!なんで!?と思っている「ハピペン」です。そして、試しに古い手袋をして通勤をしたらもっと指が冷たくなって冬は本当に怖いと思いました(お前はペンギンじゃねーのかってね)。

 

今日は、主体性について「研修」「本」「自分の考え」を書きます。

「第三のやる気」(?)

主体性とは、何かという問いは、一瞬沈黙に包まれるような問いですよね。

 

なんて答えるとベストかってのを考えたくなるのだけど、恐らくベストってないのだろうな、と思います。そこら中に定義はあるとしても。

 

今日は、研修の中で、主体性って?って話が出ました。

指導主事の先生は、はじめ「やる気」のようなものと思ったと言っていました。

 

やりたくなるようにすること。

やらなきゃいけないことだと思ってやれるようにすること。

かな、と。

この二つを「第一のやる気」「第二のやる気」としたとき、この二つは、その場で喚起させるようなやる気だというようなことを言っていました。

①やりたくなるようにすること。(教材、言葉かけが主でしょうか。)

②やらなきゃいけないことだと思ってやれるようにすること。(言葉かけが主でしょうか。)

 

けれど、養護学校が舞台になると主体性についての考えはそれでいいのか?と思ったと言っていました。

 

「第三のやる気」と言っていいか分かりませんが、それが「共に行っている中でじわじわと育まれるもの」と言っていました。

 

ある物事、「これ」といったものでやる気になるのではなく、共に活動していく中で、やれるようになっていく主体性もあるのではないか、と言っていました。

 

確かにそれもそうだなくらいに聞いていました。

 

偶然帰りに読んだ本に、「主体的な学び」について書かれていたので、それも紹介します。

 

地球市民意識を育てる『学び』」

多田孝志さんの本に書いてあったことです。

「地球時代」の教育とは? (シリーズ教育の挑戦)

「地球時代」の教育とは? (シリーズ教育の挑戦)

 

「自学・共創・実感による学び」が地球時代の教育には必要という文脈で、

「自学」と「共創」とは相互補完的な関係にあります。主体的な学びは、常に他者との関わりによって深まり、共創の学びは、個々の子どもが発想・発見・知識等の表出し合うことによって高まっていくのです。
(P26)

とあります。

 

「他者の存在によって主体性が高まり得る」ことが、示唆されています。

研修の話に似ているなあと思いました。

 

要は、教師の力によって、一時的な「主体性」を喚起することはできるかもしれないが、教師以外の存在によって「他者(お互い)の存在が、自分にとってのあなたとして認識されたときに、その間柄によって主体性の芽が出てくる」ということだと思いました。

 

いかに<他者を認識>するかは、主体性のための鍵かもしれません。というか、そもそもそうですよね。自分のためだけの勉強というより、誰かのための方が子どもたちはやる気を出しますね。

 

結局、一言で言うと、「つながりが主体性を高める」って話に落ち着きそうです。
(なんとなくサンデル教授の、母親を助けるか、他人を助けるかという話を思い出したぞ。)

 

自分なりに考えた「主体性」とは?

私は「自分なりの参加」と思いました。ここには、「参加しない」という主体性もあるかもしれません。学校の場合は、ここが「参加」を前提とするため、「主体性がない」と見てしまうこともありますが、それは「社会」に関する「主体性がない」という話ってことですよね。

ただ、ここまでの話でいくと、それはやっぱり「つながりを感じないから」ということで答えが出せそうです。

 

また、「伸びたさ。今より伸びようとする作用(よりよくなりたさ)」も主体性には必要だと思います。これも、また結局「社会」や「集団」を感じているかということが関わってきそうです。

 

そして、その伸びたさは、考えを一歩進めると「自分に必要なものを自分で手に入れられる力。(自分に必要なものを見い出し理解する力)」だと言えそうです。これも、また、「社会で生きていくための」という「社会」が前提に入ってきます。

 

主体性のための「つながり」をどう演出するか、今年はたくさん考えられたらと思います。

正しいことを誉めるということ(小学生のとき好きだった習字の先生の話)

寝不足で頭痛がひどかったハピペンです。最近は、子どもの頃の思い出ネタが多いのですが、寝不足で頭が痛くなるのも、小さい頃からです。久しぶりだったけど。

 

今日は、「習字」の習い事の先生の話を書きます。

 

習字の先生が好きだった

私が通っていた習字教室は、学校の近くにある普段はそろばんで使っている、自治会館みたいな建物の場所でした。

 

ウルトラマンのスウェットを着て行って、周りの子に「あっ、ウルトラマンが来た」って言われた記憶があるけど、習字教室ではそういうのは気にならなかった。

 

その習字の先生で強く覚えているのが、私の書いた字をほめたときのことです。

 

私は、鉛筆の持ち方が正しくありませんでした。

習字の先生は、正しく持って書くように教えてくれました。

そのとき、私は、鉛筆を正しく持って字を書くと、うまく力を入れることができませんでした。

心の中では、前の間違った持ち方の方がきれいに書けると思いました。

けれど、先生に見せにいくと先生は「いいのよ、うまいわよ」と言いました。

私は子ども心に「絶対そんなはずはない」と思いました。

けれど、なぜかとても嬉しかったのです。「良い」って言ってくれてこの先生ってすごいなあと思いました。

自分は「汚い字」だと思っていたから、「ダメな字」と言われると思ったのかもしれません。でも、先生は「良い」と言ってくれた。

その寛容さのような温かさを感じたのかもしれません。

「正しい持ち方で書こうとして頑張ったことをほめてくれている」のだと今は思います。

 

この「頑張り」を昇華させてくれるということ。

やった甲斐があるという見取りを大人はしてあげたいよなと思います。

子どもが正しく頑張っていることを当然ってことにしないことで、信じたくなる世界ってあると思うんだよなあ。

「損のない〈価値観〉を与えてあげる」ということ

最近コンビニの店員さんに、めっちゃ覚えられていることが判明した「ハピペン」です。新しい商品が出たときに職場に大量に買ったのを覚えられていたりして驚きました。2、3か月前だよそれ……みたいな。でも、まあ悪いことして覚えられているのでなくてよかったか!

 

最近、ふと「自分のもつ〈価値観〉」と「自分に沸いてくる実際の感覚」の違いに気づくことが多いです。

そこから浮かんだ「損のない〈価値観〉を与えてあげる」という話。

 

自分の価値観?

私にはいくつか後悔していることがあって、それはこんなこと。

  1. 友だちと集まって遊ぶことをあまりしてこなかったこと。
  2. バンドでドラムをはじめたころに習おうとしなかったこと。
  3. キャンプやバーベキューにあまり行ったことがないこと。

 言い換えると

  1. もっと人を好きで過ごしていればよかった。
  2. もっとちゃんと習えばよかった。
  3. もっと自然を楽しんでおけばよかった。

といった後悔があるのです。

 

どれも今からでもできなくはないことですが、あくまでこれまでの後悔ってことで……。

そして、ただ、「選択したのは自分だよなあ」という感覚はもっています。自分でその都度選んでいました。ちゃんとこういった〈価値観〉で選んでいました。

 

  1. 集団が嫌いだと思った
  2. 習う事が嫌いだと思った
  3. 野外活動や自然体験が嫌いだと思った

 

ふと、えっ、でもなんでこういう〈価値観〉なんだろう?と思った。

そして、最近、というか先週、子どもと接していると、なんでか、ポツポツと自分の小さい頃の思い出が浮びました。それで、あることに気づきました。

 

小さい頃の思い出

サッカー

浮かんできた思い出の場面は、「サッカーの習い事の場面」でした。

私は、サッカーを友だちにつられて2年生のときから始めました。

しかし、遠征に行ったときなど後から入ったってことで、仲間はずれにされるような気持ちになることがありました。

そういうのが嫌でやめました。

そして、母は、「ハピペンは一人でやることの方が好きだもんね」と励ましてくれたのです。「習字」は好きだったので、恐らく、それが根拠になって出た励ましだったと思います。
私は、この励ましに「そうか、だからサッカー嫌なのか」と強めに納得しました。

でも、不思議なもので、私の母の認識と私の認識では辞めた理由が違います。

私は、あの集団が嫌になって辞めたと思っています。
しかし、母は、引っ越しがきっかけでやめたと思っているのです。

だから、それは「習字」じゃない?っていうつっこみを入れたい。

 

スイミングとピアノ

これは、もっと小さいとき、幼稚園の頃に習っていたものです。

これは、先生が変わって嫌になってやめました。確か男性の先生になってくじけたかな

?(そういう父性に弱いっていうのも私が当時もっていた価値観です。まあそれは置いておいて)

 

結局スイミングを習って泳げないうちにやめてしまいました。

そのもっと前にピアノを習っていて、それもどこかで嫌になってやめています。

(読まれている方は「おいおい」って思われるでしょうね……)

 

この結果、いつか母に言われたのが「ハピペンは習うの嫌いだもんね」です。これにも強く納得しました。そう「オレは習うのが嫌い!」。

 

ボーイスカウト

これは近所の子が入っていて、私も何度か体験して入ったのですが、結果的にやめました。

自分の時間や考えが奪われていく感じが嫌だったように思います。

あることを「合っている・正しい」として進んでいくのが嫌いみたいです(今気づいたけど)。

その理由とか考えとかちゃんと納得してやる気になってやらせてもらいたいタイプなのだと思います。(この辺の感覚があるから、支援の役に立っているとも思う。)

そして、これを辞めたくなった理由も要はある集団心理のようなものが嫌だったということなのです。

そんな中、母はこう言いました「ハピペンは、キャンプとか好きじゃないもんね」。これにも納得しました。

実際は、外という心細さの中で、いつもの安心できる家と違うところで寝るのが嫌いだっただけだと思うのですが、自分の中で「ボーイスカウトが嫌い」=「自然体験が嫌い」みたいな〈価値観〉が出来上がっていました。

 

これも、先週、偶然、子どもが借りた植物の図鑑を見ていて、面白い木に「触れてみたい」「直接見てみたい」と胸がときめいたのです。それで、「あれ?オレ自然嫌いじゃないな」って思ったのです。「この木なんの木」を見に行きたいと思っていたし、それが「日立の樹」って呼ばれているくらいには木に興味が強かった。

 

まあ、それでも、もはや、大体の問題は「打たれ弱さ」な気がしてきたけど……。
(この間遺伝子検査で「やや打たれ弱い」傾向って出たし。あと、何かしら(?)のせいで、男性の厳しさに弱かったです。私は。)

でも、この年になって思ったのは、「それって本当に集団が嫌、習うのが嫌、自然が嫌、そういう理由だったの?」ってことです。

 

子どもの「本質」を育てたい

実は、私は、サッカーが嫌いなわけでも、スイミングが嫌いなわけでも、ボーイスカウトの活動が嫌いなわけでもないのかもしれません。

 

また、集団が嫌いなわけでも、習うことが嫌いなわけでも、自然体験が嫌いなわけでもないのです。

 

実際は、それぞれの「枠」に「苦手とする何か」があっただけってことです。

 

英語も習っていたのですが、これは、学年が上がって教室が変わったときに、前に座っていた学年が上の男子二人にまだ習っていないことを聞かれて笑われるのが嫌で辞めました。

 

嫌だったそれぞれは、厳密には「ある人」や「ある場」の「ある特定の何か」が嫌だっただけなのです。(この「全部が嫌い」ってわけではないってところが支援に似ているなあと)

 

私がうまくできていなかったことは「本当を上手く伝えること」なのかもしれない、と思っています。

また、「聞こうとする」ということを、その時、偶然大人たちがうまくできなかったのかもしれません。

テレビのエントリーで書いたように「自分を出せる」っていう環境や基盤が家になかったっていうところもあるかもしれません。

 

これらから生まれてきている私の〈価値観〉が「子どもの〈本質〉を育てたい」というものです。

〈本質〉ってなんだよって言われると少しまだ整理しきれていないのですが、
「言葉にできない思いや考えをちゃんと受け取って、その子の“本当は”に出会って支えていく」ってことです。

どういうことかというと、私は、本当は、サッカーをしたかったし、スイミングもしたかったし、英語もしたかったなあって思うのです。今だからそう思えるだけかもしれませんが、私は明らかに、そこにいた「ある人々」が嫌で辞めたということははっきりと覚えています(ボーイスカウトは集団の雰囲気)。

 

その“本当は”を拾ってあげて、“本当は”を目指せる選択肢も選べるように環境を整えてあげられる大人になりたいな、と思うのです。

 

「損のない〈価値観〉」と「正常な〈ライフスタイル〉」

ここで扱った〈価値観〉というのは、〈アドラー心理学〉でいう〈ライフスタイル〉という表現に似ています(また勉強してどこかで扱いたいと思いますが)。

 

「自分の思う〈価値観〉の錯覚」、「親の言葉」につくられていた部分が、私のもつ〈ライフスタイル〉の一部です。

アドラーは〈正常なライフスタイル〉の態度の大切さをよく言っています。そこに近づいていかないと社会で生き辛いと。

 

つまり、たとえば、親は子どもを守ろうとして、いろいろな励ましや視点を与えて、その子が潰れないようにすると思います。そこまではいいです。

ただ、潰れそうだから、一般論を伝えないで保護するというのは、間違った保護かもしれません。

何日かして落ち着いたときなどに、「ある〈価値観〉」の大切さは伝えなければなりません。その上で選択させ、その選択には賞賛を与え、少し休んだら、その<価値観>のために、何が出来るかを共に考えることが大事だと思います。

 

そして、その伝えるべき〈価値観〉は、子どもによって違うでしょう。

「集団の楽しさ」を伝える必要がある子どももいれば、「一人で頑張る大切さ」を伝えなければならない子どももいます。

「人から習う大切さ」は生きていく上で必須なスキル。むしろ人間の醍醐味ですらあると思いますが、反対に「自分で創意工夫をする重要性」を伝える必要がある子どももいるでしょう。

ただし、「ある<価値観>」に偏りがあり、社会に必要な力からずれていくと、結果的に生き辛いことがあります(当たり前ですが)。

 

今の私は、生きていて楽しいと思うし、そんなには辛くありません。

それは、いざというときに奇跡的に、私を支える客観的な正常な〈価値観〉に出会い、それを糧に「行動できているから」だと思います。

 

未来で子どもに「損のない〈価値観〉を与えてあげる」ってことを考えてかかわらなきゃと思った「ハピペン」でした。(その〈価値観〉はなんだろうかをまた書かないとですね。おそらく〈共通価値〉なわけだけど。)

2016年のノートに書いてあった記録から3つ

最近「ホワイトビール」にはまっている「ハピペン」です。ビールとおいしい柑橘系のジュースが混ざったような味がとっても美味しいなと思っています。

 

今日は、午前は自分の考えを図解にまとめて、午後はノートの記録を見ながら2016年を4月から振り返っていました(年末の振り返りはどうやったんだよっていうね)。

 

その振り返りから3つご紹介。

自分自身に気づくということを大切にした

「横浜プログラム」の結果から「友だちに大切にされていると思う」と「友だちの役に立っていると思う」が、「自尊感情が低い」という謎な状態から、デニスの本を読んで「自己認知が弱い」という考えに行きついた。

 

そこで、U-SSTを使って自己認知を促したり、「北原りゅうじ」さんの本や、「日本の給料&職業図鑑」を置いた。(一番下にリンクしておきます)

 

自分が分かってくると、目に見えて落ち着いていったように思う。もちろんこれだけやればいいのではなくて、日々のかかわりや、スクールカウンセラーさんや、各ご家庭の子ども理解によるものという方が大きい。

 

いいんです。何も、学校だけで子どもを育てている気にならなくても、ただ、あくまでこういうこともしたってことですな。

学級の居心地を良くする

そのためにやったのが「プラスのストローク」を具体的に示す

ストロークとは

「私はあなたの存在を認めています」という態度や言葉のやりとり。

この具体とは、

「手をつなぐ、なでる、抱きしめる」

「励ます、ほめる、なぐさめる」

「うなずく、ほほえむ、見つめる」

などです。

 

これを、「くじ」にして引いて、引いた子どもにみんなでそれをやるっていうのを2学期中、合間を見つけてはやっていました。

 

わざわざやろうってなると、拒否すると思うのですが、くじを引いて嫌がりながらも、くじで引いたんだからと、プラスのストロークを与えられるということを子どもたちはたくさん受けました。
もちろん本当に嫌がる子には強制しません。嫌がる子がいたらまだそういう風土で、安心しきれていないって考え方もできます。

 

私は、この充電で、支援級を安全基地として、自信をもって安心して挑戦できる姿を期待していました。

3学期になれば勝手にエンジンがかかりはじめると思ったので、それを持続できるように支えられるように、下積みをつくっておくようなイメージ。

まあまあねらい通りに、今の子どもたちは2学期までに見せなかった成長したと思える姿を示してくれています。

 

ノートに書いてあって目に止まった言葉

「しないといけない」→「してはいけない」まずこれ!

学校の日常は目まぐるしくて、疲れていると「出来ていないことばかり目につく」し、「こうしなさい」「ああしなさい」がどんどん増えていきます。

そんな中、そのストレスからか今度は「してはいけないこと」が出てくるしまつです。

賛否両論あると思いますが、分かりやいと思うのでこう言ってしまいますが、まず「してはいけない」ことが出てこない状態を0とします。

そうしたときに、「してはいけないこと」をまず減らしていく。どうしても特性で起こってしまう場合は別なのですが、できる限りのアイデアを尽くして、「してはいけないこと」の表出がなくなるようにする。その環境ができてから、「しないといけないこと」も入れていくということです。

「しないといけないこと」を無理に入れるのは、大人の都合な場合もあります。面目上というか、教育機関で、親への建前もあり……それはそれとして、そういうのが重なって、指導が溢れるときが危険です。

「してはいけないこと」が減って0に近づいて、環境が整ってから「したほうがいいこと」を入れれば値がプラスになる可能性は高いと思います。

この流れの中には、「誉めるサイクル」しかないと思います。

「してほしいこと」をしないと怒りたくなるかもしれませんが、行動が消失して、ねらいが絞れているので大人がやっぱり焦りにくいかな、と思います。

 

小さいうちに「社会楽しい×自分楽しい=地球楽しい」へ

これは、すごい自分らしい表現で好きだなって思いました。

子どもは、地球に期待して生まれてきているはずだよな、って思うのです。本当は、無思考でしょうからおとぎ話になってしまいますが、でも、生まれるって、人は本来生まれること楽しみにして生まれてきていると思うのです。

それを、子どものときの成長過程で、奪ったり、覆したりしてはいけないよなあ、と思っています。

そりゃ「生き辛くて、生きるのつまらなくて、頑張りたくなくるわ」っていう指導をしたって何のためにもならないのです。

「あなたがいることへの喜び」で社会からその子を祝福・賞賛しなけりゃ、社会で生きたくなるわけがありません。

そして、それは、自分を抑えて変わったり、無理していたり、その子の姿を殺した姿が社会に合っているから得られるものではなくて、自分を知っていって(メタ認知ってやつだ)、成りたい自分、良いところのある自分、成長できる自分を知っていって、「自分で生まれてきて良かった」って思えなきゃしょうがないって話です。

そうして「地球が楽しい」って信じられれば、4年で小数・分数のかけ算・わり算が出てきても、地球を信じて頑張ってみようって思えるに違いないってわけさ(そのはったりをかましてどうすんだってね。)。

さあ、「何のために」を考えなくては。

 

〈使った本〉

クラスで育てるソーシャルスキル

クラスで育てるソーシャルスキル

 

 

人間力の鍛え方―幸せな大人になるために

人間力の鍛え方―幸せな大人になるために

 

 

アイデンティティの作り方―なりたい自分になるために

アイデンティティの作り方―なりたい自分になるために

 

 

マージナルマン―反抗期を迎えたすべての人に

マージナルマン―反抗期を迎えたすべての人に

 

 

日本の給料&職業図鑑 Plus

日本の給料&職業図鑑 Plus

 

 

トラブル時の大人の価値観の違い

忘れんぼマスターでやばい「ハピペン」です。職員室に用があって、職員室に戻るころには何をしに来たのかが分からなくなることがあります。っていうかありすぎて本当に困っています。

 

さて、価値観の優先順位は、人それぞれ。
本当にそうですよね。

 

「ダイヤモンドランキング」なんてやらせると、おそらくその時考えていることや、感じていること、それこそその時その時の気分でも下手すれば優先順位は変わる。

 

その価値観のそれぞれの違うっぷりを紹介したい。特に子ども同士のトラブルによる大人の価値観についてです。

 

ケース1「誰が悪いか」

もうこれは、本当に学校では追究しない方がいいです。

教師は、裁判官でも警察でも弁護士でもないですよね。

問えるのは「何が悪いか考えさせること」です。

「誰が悪いか」という大事にするならば、外部機関を頼りたいです。

この構えがあると、冷静に、大人たちで力を合わせて子どもを育てることができません。

子どもたちに必要なことはいちいち誰が悪いかをはっきりさせて、徹底的に悪と見なしたり、悪い存在だからと言って分断することではないと思います。

しかし、「誰が悪いか」を考える大人がいる場では、子どもたちはトラブルの度に分断されていきます。

ある意味では、大人同士が価値観によっていかに分断されないかが、子どもも分断されないかにつながります。

教師が客観性をもって、一般的な立場でものを言っていると捉えてくれている場合は大丈夫ですが、価値観の多様化から教師は一個人として見られることが多いと思います。あの先生はこう、この先生はああ、な時代なのです。

大人みんなで子どもが育つ環境をつくっているという意識がないと、良し悪しを付けて、分断して終わりです。

 

ケース2「うちの子だけが悪いのか」

これは、ケース1「誰が悪いのか」の変形です。

子どもが否定されることが自分の否定だと感じる大人の場合はより「誰が悪いのか」が強まります。

「誰が悪いのか」に被害的な意識が強まり、攻撃を防ぐために「うちの子だけが悪いのか」と変形します。

そして、「うちの子は悪くない」という主張をはじめます。

私たちは、誰が悪いか、どの程度悪いかはさておき、子どもたちの関係が分断しないこと、安心できるものにするために動く必要があります。

誰がどの程度悪いから責任がある・ないといった話ではないのです。

事実でよくないと思うところは謝る・謝り合う。

ケガや場合によっては子どもだけで謝ったのでは、済まないこともあります。

そこでは、すかさず、大人が出てくるべきです。

大人が言って・行って話をするべきです。

自分が否定されるのが怖い大人は、相手先への電話も躊躇します。

けれど、相手の親からすれば一番怖いのは、たとえばケガをさせてしまったとしても、詫びる気持ちがないのかもしれないということです。

そういう親が子どもを育てていることに恐怖や怒りを感じるのです。

明日からも同じ場で過ごすというのに。

また、同じ目に合ったら嫌だということを、相手の立場に立てない、子ども観に恐怖を抱くのです。

実際は「うちの子だけが悪いのか」は、さておき、「悪いこと」をした事実があるのなら、それは、「誰が悪いか」は置いておいて、「どの程度非があるのか」は置いておいて、謝るべきことを謝ることが正しいと思います。

 

ケース3「先にやった方が悪い」

ケース2「うちの子だけが悪いのか」を主張するためにセットで使われることの多い価値観です。

「最終的に自分の子どもがケガをさせてしまった」としても「きっかけを作ったのは誰か?」が問いとなり、「起こした悪さを軽減しようとする大人」がいます。

しかし、どんどんさかのぼってどちらが悪いかを考えることは不毛です。

その時間軸の裁きは主観でしかないのです。

その人はそう思っても、あるストーリーはそのもっと前から続いていて、ある日いよいよ爆発しただけかもしれないのです。

そのため、どこまでさかのぼっていいのかは、誰にも分かりませんし、決められるものでもありません。場合によって立場が弱くならざるを得ない立場の人じゃない方の人が、主導権を握って責めることでしょう。

言いすぎてしまったら、結局は宇宙が生まれたのが悪いってなって話になります。前に曜日をつくったやつを許さないと言って怒っていた子どもがいたけれど、そういうレベルで「先にやった方が悪い」は、不毛な言い分だと私は思っています。

 

ケース4「やられたらやり返せ」

子どもが好きすぎて心配だからこそ「やられたらやり返せ」 、自分の子さえ無事ならいいという考えの大人もいます。

気持ちは分からなくないのですが、これも子ども同士の関係を分断することにつながります。

負けない存在になったとして、その子は集団の中でどんな存在になっていくのでしょうか。

私は、大人が解決できない問題はないと思っています。

当然、ある大人では解決できないこと、というのはあると思いますが、複数の大人に言えば、解決を必ず導き出せると思っています。

なので、学校では「やり返さないで、先生に言う」などと指導しますが、それはなかなか入りにくいものです。

特に、そういった場合、相手の子も意地悪で、しつこさだったり、ちょっかいが多かったりということもあります。

本当にね、大人同士がつながって話せれば乗り越えられることもあるのでしょうが、なかなか難しい。

 

ケース5「悪いやつは悪い」

これは「うちの子だけが悪いのか」と「先にやった方が」などの価値観の変形で「うちの子は悪くない」から「悪いやつは悪い」へと移り、相手は悪いやつなのだから痛い目に合って当然という価値観です。

大人になってやれば、過剰防衛と枠組みができるのでしょうが、日常生活を送っている人は、また子ども同士の場合は、理屈を並べたもの勝ちだと勘違いしている大人がいるっちゃいます。

その子どもも悪い奴はこらしめていいという理屈でいることがあります。

悪い奴は叩いていい。そうじゃないよ、というと「なんで」と返って来る子も少なくありません。親が叩いて指導している場合は尚更そうです。

何があっても暴力はいけないんだよ、という当然の言葉かけが欠かせません。

「誰も悪くない」という視点で、失敗は起こりうる。

振り返って、謝って、許せるか。

ここに人間の成長があると思います。何日かけてもいいし、ずっと許さなくてもいいと思います。

それでも、謝りたいかが、大事だし、どうしても壊れてしまった関係は壊れてしまうしかないのかもしれません。

そうしたときこそ、大人の出番で、大人だけは謝ったり許したりしてつながっておくことです。

親同士がつながっていたら、子どもはいずれ許すと思います。

この世にいる人々は誰もがかけがえがないとして、そうしたら、誰とだってつながりがあっていいのです。

つながりがない方がよい人間なんていないって前提で大人は子どもを見つめていきたいです。

 

注意の視点

私は、大人になってやったら「社会的制裁」を受けることについては、きつく指導しています。

大人にはその見立てが必要だと思います。いつでもそれを引っ張り出してきて、きつく注意するということではないですが、やっぱり社会がゆるさないことはなしです。

そう考えると、先にやったとかも取り合えず置いておいて、してしまったことについて振り返ることを優先できると思います。

ことの大きさ、重さ、先か後か、どっちが悪いか、どっちが悪くないかではなく、お互いがお互いと自分を見つめ、「何が悪かったか」を考えればいいのです。

ケガをさせてしまっていたら、大人が出るしかありません。

ケガをしてたら、子ども同士だけで謝って済むかっていうのはかなり微妙です。

 

ケースに共通するもの

これらのケースに共通するのは、「自分の子を守りたい」ということです。

しかし、大きく問わなければならないのは、「それで本当に自分の子を守れているのか」ということです。

そして「自分の子の何を守れているのか」ということです。

そこを踏まえながら、話し合っていくしかないのですが、冷静に見るとどのケースもそれぞれのケースから見ると、都合のいいように解釈したいだけとしか言いようがないところがあります。

 

片や、やり返しているのに「先にやった方が」と言ってみたり、

片や、やり返さずに「やられたらやり返せ」と言ってみたり、なのです。

問題の本質はそこではないということが、浮かび上がってこないでしょうか。

 

子どもに必要なことは分断ではないと思うのです。

衝突の先にしか、強い結びつきはありません。

人間は結びつき直せるんだっていう感覚と、結びつきを再構築できる力を小学校ではつけさせたいです。

「いじめ」はまた別の話ですが。 

社会に合った価値観で、子どもを冷静に見つめ、子どもがつながって、お互いを知って理解してあげて、未来のために結びつきをサポートする大人たちで在りたい。

そう思うためのエントリーでした。