かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「なんでやねん!」って便利だなあ。

夜中に熱を測ったら41.5度って出てめっちゃビビった「ハピペン」です。いや、死ぬわ!そりゃないっしょ!!それなのに頭が結構軽いのが逆に不安すぎて、どんな病気だ!?って思うわ!!体温計大丈夫かあ……?

 

さて、ふと、横になりながら動画を見ていて、「なんでやねん」って、いいなあって思った話。

 

こっちの感情も伝えつつ、理由を聞く相手寄りな問いを投げているのが便利で、優しいな、と。

 

関東にこれと並ぶ「つっこみ」ってあるだろうか。

関東で有名なつっこみは、確か「さまぁ〜ずの三村」の「○○かよ!」で、これは関東つっこみって聞いたことがある。

あと「なんすか!?」とか「いや、意味わかんないから!」とかが多いような気がする。

 

「なんでやねん」は、「なんで」の部分が優しいからいい。なのにそれが「つっこみ」と思えるところにwin-winの関係があるような気がする。

 

めんどくさがってやらない人に「ふざけんな!ちゃんとやれ!」ってより「なんでやねん!」って言った方が「理由」を聞いていていい。

 

パニックの子に「どうしたの?」って聞くぐらいいいと思う。

 

「なんでやねん」の「ねん」は大阪特有の言い回しで、「なのだ」と同じ役割らしい。

「なんでなのだ?」って言い方は、あまり聞いたことがないけれど、まあ、もはや「なんでやねん」は、ほとんど「なんで?」って意味で、そこに悪口の意味がぜーんぜんないからいい。

 

怒りそうになるとき「なんでやねん!」って叫んでも、なんかギリ優しい感じがする。相手を思っちゃってるところが微かに感じられるところがいい。

 

今度、話聞かんなー、静かにせんなー、ちょっとうるさいだろーってときは、「なんでやねんっ!!」って言ってみたいけど……関東だから「なんでっ!!」ってちょっと大きい声でいってみようかなって考えた。

先生という名のつく人

朝から皮膚科の「ハピペン」です。

 

年齢が重なると、身体で気になったことがあったら、すぐ医者に行った方がいいですね。

 

「先生」の解決力

お医者さんに行くと、いーっつも思うのが、「即具体的な解決を出せる」凄さです。

 

皮膚科であれば、外側にあるものだから、というのもあるかもしれませんが、15分もしないうちに、長い間悩んでいたことへの解決策の示唆をくれて、安心につながります。

 

THE先生って感じがします。

 

そして、その先生は、より専門的なところ、ということで、紹介も提案してくれました。

そして、紹介状をもらって、適した設備があるところへ行ってみることにしました。

患者が「よりよくなるため」な感じがとてもしました。

 

21世紀に求められる「人を結びつける力」

世界が相互依存を深めるほど、我々は、生活や仕事、市民活動において他者同士を結びつける力をもつ協働の実践者や組織作りにたけた人を頼るようになってくる。

(21世紀の学習者と教育の4つの次元:P3)

21世紀の学習者と教育の4つの次元: 知識,スキル,人間性,そしてメタ学習

21世紀の学習者と教育の4つの次元: 知識,スキル,人間性,そしてメタ学習

 

 

これからの力ある人は、人をつなげられる人なのだろう、と思いました。

その実際を町のお医者さんから感じ取ることができたように思います。

町のお医者さんは、要はその地域の窓口の役割を果たしているわけですね。

そこに、「多様なつながり」があれば、人はそこに行きさえすれば、よりよい解決ができる新たな場所を紹介してもらえる可能性があるわけです。

 

現在、求められているのは、スペシャリストでもゼネラリストでもないと言われます。

どんな人が求められるかと言えば

「多能な人」(バーサタイリスト)です。しかし、現実に「多能な人」が存在するのは簡単なことではありません。

 

ならば、複数人で「多能な集団」になろう、というのが昨今ですね。

それをお医者さんに行って、実際に体感しました。

 

あれ?学校の「先生」は?

学校の先生にもお医者さんみたいな視点が必要ではないか、と思います。

 

⑴解決のための知識

まず「知識」です。

子どもの実態を視診、問診(触診はあまりないかな)を通して、判断して、応じる。

そうして自らの力で解決するための知識やデータベースをできる限り多く蓄えること。

 

⑵人を結びつける力

これだけ多様化が進む中で、「担任が担任が」とならなくてもいいのかもしれない、と思いました。

21世紀に求められるように、人を結びつける。教員同士でその子にあった大人を結びつけてしまってもいいように思うのです(「みんなの学校」的な発想です)。

そのためには、教員同士がお互いをよく知る必要があります。自身の専門性を磨き、周囲に分かりやすくアピールするというのも必要。

 

ところで、上の引用にも出てきた、「相互依存」という言葉。アドラー心理学でも出てくる言葉です。

アドラーは最も崇高な人間関係を、「自立」した人々による「相互依存」関係と言っています。

 

教師は、つい「自分の力を示そうとすること」が少なくないように思います。

それが、「自信」がなく「承認欲求」などに翻弄されて「自立」していないから起こるものでないといいな、と考えました。

 

私たちは教師として「自信」をもって「自立」し「相互依存」する。

そして、子どもも大人も含めた校内の人間関係をより円滑によりよくすることを目指してもいいんじゃないか、って話。

 

「昨日と今日の疲れ方の違い」

今日は「小論文」の講習な「ハピペン」です。

 

「疲れたは、疲れた。でも、あれ?昨日と疲れが違うわ!?」

 

今日のは「アウトプット」の時間があったからかな?

内容や使われる言葉で「知っていることが多かった」からかな。

 

昨日と今日の「同じ」と「違い」を書いていく

《同じこと》

【最寄駅】「神保町」

《違うこと》

【天気】
昨日:「晴れ」
今日:「雨」

【建物の場所】
昨日:「駅から徒歩5分で12F」
今日:「駅から徒歩10分で4F」

【内容】
昨日:
150分講演(内10分休憩、5分程度のアウトプット)
昼休憩
240分実践報告とトークショー(内10分休憩、5分程度のアウトプット)

今日:
90分講義・60分アウトプット
昼休憩
90分講義・60分アウトプット

 

昨日が長すぎるのか!!

疲れの差は何処から来るだろうか。

【時間】
昨日の方が1時間多かった(始まりが30分早くて、終わりが30分遅い)。

【聞いている量】
昨日:390分
今日:180分

【体調】
昨日:修了式・納め会後。
今日:昨日の講演後・ちょっと居酒屋後。

【人数】
昨日:100人から150人。
今日:8人くらい。

 

効果的な学びについて考えたくなる日程でした。どちらも貴重で有用なのだけれど、とにかく疲労感が全然違う。

著名だとかすごいなあって話は昨日だった。でも、楽しいのは今日だなあ。

 

共につくるとか、参加とか、活動とかが、楽しさを生むのかな。

それも生半可じゃなくて、今日で言えば「3:2」だ。

自分の感覚で言えば「5分の2」は主体的な活動がいいのかもしれない。

 

学習効果が高い「講演」や「ワークショップ」のプログラムのセオリーがあったら是非聞いてみて生かしたい。

「あなたが"より"重視するのは?」<基礎学力の保障>と<コミュニケーション力の育成>

脳の最適化がしたい「ハピペン」です。ブログを見てくださっている方は分かるでしょうが、頭の疲れが全体的に取れない。スッキリしない……。ブログを書くことで多少のモヤモヤは解消されているけれども。

 

今日は、講演会に行ってきました。

 

最前線の悩みと現場の悩みはだいぶ一致してきているのだろう、という印象。

 

その間にある何かによって、ひん曲がることはあるみたいですが……。

 

国レベルのフロントランナー的な明日の見えなさ。

現場レベルの百者百様の実態に対するどんな力を付けるべきかの見えにくさ。

これらは、同じ根っこから生えているように思う。

 

表題の二つ。

「基礎学力の保障」

「コミュニケーション力の育成」

が大きな両輪。

 

この両輪のバランス。実態に合わせて何を剪定し、何を育むかが問われる。

 

「どちらを"より"重視すればよい」という絶対解はない。

実態に合わせて未来に必要だと考えられる「身に付けさせたい力」があるだけ。

 

そしてこの「身に付けさせたい力」は、教師の観点によって変動してしまうところに、これからの時代の変化を想定した教育のややこしさがある。

 

「未来にとって何がいいか?」は、前例のない未来を生きていくことになるため想像するしかない。

その想像の「質の良し悪し」は、教師のイメージする未来に必要な「価値観」でしかない。

 

研究の発表も「質的データ」が主になる(別に悪いって話ではない)。

 

どのような質的変容を(見えない内的な変容も)、「イイネ!」って思うのかが、「実践内容の良し悪し」になるってことかな、って思う。

 

その「イイネ!」って「質」の「価値観」を、個人→学級→学年→ブロック→学校→地域のレベルで、共有していくことが望ましいとされる(チーム学校的な)。

 

これは、下手すると「我こそは正しい」となっていく。(「これだけは気をつけろ」と何度も言っていた。)

 

「基礎学力」と「コミュニケーション」について、どちらを重視するか挙手をしても会場では2:3だった。そこにいる人によって価値は変わるのだと感じる(やはり「絶対解」はない。)

 

この先「価値観の多様化」から一歩進んで「価値観の多様性を認める」が日本中の流行の言葉になってほしい。(これも全く反対に流行らないでほしいって人がいるのもたぶん事実。)

 

そんな中で、私たちは「どんな根拠」があるから「どんな価値観」でいき、それは「何のためなのか」、しっくり来るものを探して未来に備えるしかないってのが一つのアンサー。

 

大きな枠組みが、アンサーを一歩進めるヒントをくれる。

概ね予測できるところが「大ーーーきな枠組」ではある。

たとえば、AI、IoT、ロボティクスなどは発展する。そして、2100年が来る。「そのときに必要な力」をイメージをすること。

 

人間は、未知、イレギュラー、変数に遭遇した時、どんな力で応じるのか。

 

先人・先哲、読書、歴史から学ぶことが強く求められる。

 

これだけ不安を煽られ、それを越える希望や期待を生み出すために、産業革命時代の教育は、本格的に次の新しい時代の教育へと歩み出した。

 

「誰が正しいか」を訴えている場合ではなく、「誰もを生かす」を形にできたらいいな、って。

 

さあ、どうする……。

感謝が降り注ぐ日

お花いっぱいな「ハピペン」です。

 

修了式。今日でお別れの人もいるため、昨日は手紙をたくさん書いた。

 

反対に手紙をもらいもする。

手紙を書くってのは、当たり前のように行うことだが、簡単なことではない。

 

それだけのことをした、なんて思いは全然なくて、あったのは、「学校って楽しい」そう思わせたいだけだったような気がする。

 

たとえばお家の方は、その熱が嬉しい。(ニーズによるとは思うけど。)

 

幸せな子ども時代を過ごす子どもを一人でも多く増やしたい。

一人も置いていかない。

一人ひとりに合った見方をする。

 

そういう意味では子どもが好きとか、子どもに惚れ込んでいるとか、ってことかもしれない。

 

子どもが安心して未来を目指せることが、なんでかたまらなく嬉しい。なんでかは、分からない。

 

一つ思うのは、感謝されることに対して、感謝したくなるような、「ああ、よかった」って静かな思い。

 

"子ども"を見逃さなかっただけなんだけどね。

 

 

「ルール(ソーシャルスキル)」よりも「認知能力」

右目だけかゆい「ハピペン」です。実はほんのわずかだが、この最初はメタ認知だなあ、と思う。

 

クラスの中で、暴言・暴力・授業妨害がなかなか止まない子がいる。

その子に必要なのは「ルールを教える力(こちらよりの視点)」よりも「ルールを理解する力(相手よりの視点)」だって話をする。

再び「お楽しみ会」からのネタなのだけれど。

 

あるクラスの子(以下、Kくん)は、入学からずっと暴言・暴力が止まない。

 

つい2学期まで、話題に挙がっていた。

朝会なんかでも、背の順で真ん中辺りで、校長先生の話の最中にど真ん中で乱闘が起こったりしていた。

 

休み時間は、周りの遊びに入れてもらえず一人で遊んでいることもしばしば。

 

Kくんの3学期のお楽しみ会での姿。

 

「おお、みんなの中で話し聞いて、文句を言わずにやってるじゃん!」って感じだった。

 

その後「しっぽとり」をする中で、「あいつ(Kくんとは別の子)ルール分かってねー」と言った子がいた。

タグラグビーのタグを二本つけて取り合っていたのだが、相手のは一本ずつしか取っちゃいけないというルールがあった。

それを間違えて二本取った子がいた。

 

このクラスには「オレが守っているルールを守れないやつはダメ」という風土があるってことかな、と思った。(「失敗禁止」まではいかないとは思うが。)

 

 さて、ルールが守れない子に働く要因は何か。

・周りのルールの説明がそもそも下手

・脳の特徴からセルフコントロールが苦手

・周りに責められる周囲からの二次障害でセルフコントロールができない。

・集中力に困難があってルールを聞いていない。

・ルールを理解する知的能力が不足している。

 

これらを責めるか、カバーするかは「教師の力量」による、っていうので合っているだろうか。

 

説明する力、ルールを理解する力を身に付けさせるのは誰か。

ルール破りを発見して文句を言う力をつけても仕方ない。

 

ちょっと横道に逸れるが

「バカ発見器はいらない」と昔言ったことがある。それをよりよくしないのなら構うな、と。

これが、「バカって言ったら自分がバカ」の謂れかな、と思っている。賢者は気づいたら改善しようとする。

 

その子の特徴・苦手に合わせて伝えられるようにする。また、受け取れるようにする。その力を付けることが当たり前な重要。

 

伝わらないことを相手のせいにしないし、受け取れないことを相手のせいにもしない。「分かる」という目的のために何ができるかが大切。

 

Kくんが、みんなと過ごせるようになったのに、「ルールを理解する力」が上がったのではないか?と考えた。

 

担任が秀逸な注意・指導の仕方をしたからというより、Kくんの認知能力が上がったのだ。

(周りの説明する力やルールを守れない子に文句を言う風土は見られたから、そう結論付けた。)

 

ルールを教え込むっていうより、その子の能力を上げた方がルールが入ることがある。(泣いていることに対して怒鳴ってもしょうがないっていうイメージ)

 

支援の子でも毎日泣き叫ぶ子がいた。

それでも、ひらがなを読めるようになったころから、落ち着いて過ごせることが増えていった子がいた。

 

「そんなの分かってるよ、それを認知させるのが支援でしょ!」って言われたら「はい」って言う。

数年前はじめてのドッジボールで首が取れた……!?わけないでしょ!

今日、数年前に受け持っていた子がドッチボールをする姿を見て「成長したなあ」って思った「ハピペン」です。

 

「今すぐ死ね!」

「学校を壊せ!」

「お前は頭がおかしい!」

と毎日言っていた子も、年月を経て通常級で過ごすようになり、友だちとドッチボールができるようになったようです。

 

入学して2ヶ月くらい経った6月、励まし続ける私の言葉にその気になり、その子は小学校で始めてドッジボールに参加しました。

 

「よし、いけいけー!」な私。

初参加の彼は見事、数秒後に顔面でボールを受けた。

「おっ!そう!それが社会生活だ!」と呑気な私と激高する子ども。

 

「ふざけるな!お前のせいだろうが!」

 

「いや、最終的に参加を決めたのは自分でしょうよ!まあ、分かるよ、大丈夫?」

 

「なんでなってないお前が分かるんだ!死ね!」

 

「いや、顔に当たって驚いたんでしょ?」

 

「そうだよ!首が取れたらどうするんだ!」

 

「(えっ……?)そ、そうだね!」

 

「死ぬかと思ったんだぞ!」

 

「(いやいやいや……)もしかして、顔にボール当たったの今日がはじめて?」

 

「そうだよ!当たり前だろうが!」

 

「(当たり前かは、知らんわ……!)あー、そりゃ、驚くよね、そうだよね……。こ、怖かったね!でも大丈夫だよ、首ついてるよ。実は人間は子ども同士のボールが当たったくらいなら首は取れないんだよ!」

 

「うるせー!」

と言いつつ、ちょっと安心した様子。

「(マジで首が取れると思ったんだろうなあ……。ほら、やっぱりビバ社会生活なんだよ!)」

 

思えば、彼のドッジボール人生は、あの時はじまったのだなあ、と振り返る。

よくあの時「生まれてはじめて」って直感したなあ、と自画自賛

共感を飛ばした受容と図星を突くことでパニックを収める力を強制的に鍛えられていった年……。

 

そんな子も、今では、わざと前に出て挑発してらあ。

 

ドッジボールをしてボールが顔に当たらなければ、子どもが投げたボールが顔に当たっても首が取れないということは分からない。」

 

当たり前のことが分からなくとも、イライラせず、それを楽しむ余裕は大事。

それが、その子を許容するってことのヒントだと思う。

 

お前の考えいていいよ、って。

受け取れるよ、大丈夫だよ、って。

 

まあ、慰めてやるからこっちこい、って。

そういう二人三脚だったなあ。

「正しい」や「相応しい」の先

最近「ひれ酒」にはまっている「ハピペン」です。ふぐのひれを入れて呑む温かいお酒です。匂いが独特で心を奪われました。(はじまりは、はまっている酒を紹介するコーナーって意識はない。)

 

6年生が巣立っていって、残る5年以下の子どもたち。

「掃除をするよー」って言うと、みんな掃除をする。

「座るよー」って言うと、みんな座る。

「ちゃんとするよー」って言うと、みんなちゃんとしようとする。

 

「あれー……(何もかもがスムーズすぎる)。」

 

おおっと!

次のステップが、今までと違いすぎて混乱するぜっ!!

 

この間までは、「意志」を育てていたような感じ。

いろいろな子がいる環境でも、自分なりに正しいを選択して動くこと。

その「モデル」が変わったから、スムーズさが少し上がっている。

たぶん彼らには「多様性を認める」がかなり身に付いていると思う。

どんな子が教室にいても生きていけるだろう、と思う。

 

さて、その先……どんな能力を付けるか?

子ども一人ひとりが社会に出るにあたって、一人ひとりが自分の力で生活できるようにしていくにあたって。

これまでは、社会生活のため、自分自身が生きていくために「正しい振る舞い」や「時と場合に合わせた相応しい振る舞い」を指導する視点が強かった。

 

じゃあ、「正しい振る舞い」「相応しい振る舞い」が出来るとしたら、あとはどんな能力が必要なんだろう。

 

当然挙がってくるのは「読み・書き・そろばん」的な知識の群。

ただ、彼らは定着に時間がかかると言えばかかるので、計画的に教えれば進めるって保障があるわけではない。それ以外には何があるだろう?

 

これまで「ソーシャルスキル」は、本当によくやってきた。それが身に付いてきているってことだから、それを生かした何かなのだと思うのだけれど……。

 

より「チームワークや集団を生かして何かをする」ってことができるかもしれない。

日々何かを「目指して」、軽い行事的なものに「向かって」、「みんなで役割分担をして進んでいく」というのが楽しいかもしれない。カリキュラムマネジメント的に何かできないだろうか。

 

合奏もできるだろうなあ。

日常生活を越えた学校生活を提供することが、成長につながる」だろうな、と思う。

 

「どんな力」を付けたいか、「どんな経験」をさせたいか、「どんな理想像」に向かっていくか。

 

これを検討しないとはじまらないなあ。

 

ロングの休み時間を狙った「支援級のイベント」みたいのはどうだろうか、来たい人は来てねって感じで、用意をしておいて。

要は、支援級の「オープンキャンパス」的な感じで、支援級を開放して過ごす企画。

これに向けて、準備をする中で「知識を身に付ける」「ルールやマナーについて考える」「話し合いをする」などの活動を計画する。

 

もう一つ視点が浮かんだのは「受け身」の立場ではなくなったということかもしれない。これまでは6年生に応じて、どう発信するかというのが、暗黙のルールになっていたように思う。

それがなくなった今、中心は変わって、5年以下の子たちが関わり合い、発信し合う側になったということだ。

 

どう主体的にかかわるか、そのために必要な技術、自分たちでできる工夫を出し合って実現していく力を身に付けられるとよい。

 

「何をするために」「どんな力」が必要なのか、少しでも話し合えるといいなあ。