かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「刺激」によって活動できないのは誰のせいか

今日も晴れてよかった「ハピペン」です。外遊びをしなくて、とお悩みの保護者の方もいるが……今のところ遊べてる毎日!!

 「感覚の違い」によってスムーズに活動できないのは、誰のせいだろうか?

「子どものせい」だろうか?

いや、それはないはず。「教師のせい」。

ただ、それも言い過ぎで、別に誰のせいでもなくて「でも、みんなで活動するにはどうする?」って問いがあればいいだけなように思う。

 

支援したのにできないと「ちゃんとやりなさい」が出てきてしまう教師もいるだろう。

「いや、ワン支援で当てられたら苦労しないわ!」って話だ。

 

そんな中、もはや、私には、発達障害の子にどうやって関わるかが染みついている可能性がある。(大胆に言ってしまおう!)

どうするとストレスなく指示が入るか。よくある文言を私バージョンにするとどんな風にするといいか、が分かっているのだと感じる。

 

その子どもへの入力が違っていれば「子どもの行動は変わる」。至極当然のことである。

それで、実際良い姿が見られるのだから。

 

まず、大切なのは注意しないことだと思う。(もちろんいくらでも例外はある。危険なときなど。)

幼保って素晴らしくて、子どもたちは大概存分に注意されまくってここまで来ている。

だから気づかせるだけでよい。一般的には注意でも指導は入る。しかし、そう簡単に行かない子がいる。そういう子には注意より選ばせる。そして、出来た時に喜んで強化した方が良い。

 

「刺激」について少し語ると、

・どんな「刺激」が好きか

・どんな「刺激」が嫌いか

の見立てが重要である。

 

「刺激」の構造は、たとえば「多少」「強弱」「長短」などがある。

 

SSTをやるにしても、たとえば「色」の刺激について考えることがある。見せる絵はカラーか白黒か。刺激が多いと落ち着かない子には「白黒」がよいと考えられる。特に視覚優位な場合、カラーでは刺激が強くなると考えられる。

 

大きい音で一番「快」の刺激が「怒鳴り声」や「叱責」であることをイメージしてほしい。

大きい声で注意すると笑う子がいたことがある。それに「笑うんじゃありません!」と注意すればさらなるご褒美になる。子どもはどんどんより怒られることを探してしでかすに違いない。

 

「多い刺激は嫌」だが、「強い刺激は好き」ということもある。

今日、算数の答え合わせを聞きながらプリントをやる姿を見る場面があった。いつも1、2分で出来る計算が一向に進まない。

これが発達障害なのだと思う。「ある刺激下では、多くの子が力を発揮できる場でも、発達障害の子は感覚の調整ができず、力を発揮できない」ということだ。

分からない教師は、自分の態度や環境に働きかけず何も変えないまま「早くやりなさい!なんでいつも出来ることができないの?やる気がないの?」とか言いかねない場面だ。

面白いのはいつも後回しにする文章題は先にやったところだ。

恐らく「ある刺激下では使いやすい脳が違う」ということだと思う。

ファスト&スローにあった話が関係すると思う。*1

 

発達障害の子を見る入り口や前提の一つに刺激があると思う。二次障害で心に抱えているものが少なく人を信頼できたり大切にできたりする子であれば、問題はほぼ「刺激」だけである。

要は「適切な支援さえすればよりよい行動を選べる子」ということだ。知的な面はさておき、黄道面については、大きく改善が可能なはずである。(5分後の給食が待たずに自殺しようとした子も今では中学2年生だ。)

 

考え方としては「刺激」を「値」としてみて見るといいと思う。たとえば問題行動があって、その問題行動で得られる「刺激の値」はなんなのか?

ざわつきや注目なら「よい行動をしたときに教師がそれ以上の刺激を与えるだけ」である。

そして「刺激の値」に合わせて指導を重ね、行動を一般化し、習慣化するだけである。

 

恐らくその「どんな刺激を求めているか」の的中率が高くなったということなのだと思う。

子どもが「なぜそれをするのか?」面白いのは「誰かを不幸にしたいから」ではなく「自分が幸せになりたいから」"ある行動"は起こるということである。

そうしたときの注意で、誰かに迷惑がかかっているとか、相手の気持ちを考えなさい、が虚無なことは言うまでもない。

 

あと、「好きな刺激」が「お母さんに褒められること」な子どもは実に指導が入りやすい。

 

保護者の方の力に感謝だと思いながら今日も働いたように思う。

*1:印刷をかすれさせて読みにくくすると、集中して読みスローが働くため誤答が減ったというような話

傘が……ある!!

「リフレクション」ってすげーなって今日この頃な「ハピペン」です。

 

いやー雨のつもりじゃなかったなー今日は。だって、夜中って聞いたんだよ今朝は……。

 

あ、はい、すみません迂闊で……。

 

今日は帰りに傘を借りました。

職員室で言ってみると、校長先生が、さーっと来て置き傘を貸してくれた。

 

って、いやいやいや、良さそうな傘で、壊さないか、失くさないかの方が心配になるよ!!

 

でも、ちょっとだけ嬉しい。

「傘がない」から感じた、「傘がある」ってこと。井上陽水ではない心持ち。

 

物事や出来事は捉えようによって変わる。

一昨日、本をやたらに買いすぎているかもしれない、と「購入履歴の金額を見て凹んだ」。

その日は、何年ぶりかの友だちと食事をしてその時に「自分の幼さによる失敗を話題にされて嫌な気持ちになった」しかも、その日は「終電を逃して14km歩いた」。

次の日の「職場のピクニックで思うように楽しめない」。

 

「ああ、もう、ダメダメだなあ」って思いながら今朝は通勤した。

それでも「リフレクション」をして「リフレーミング」してみる。

「購入金額を見て凹んだ」→「それだけ学ぼうとしてるってことじゃん!」

「自分の幼さによる失敗について話題にされて嫌な気持ちになった」→「それを嫌だって思えるように成長したってことだよ!」

「終電逃して14km歩いた」→「それで始めたこと、それで体験できたことがあるからよし!」

「職場のピクニックで思うように楽しめない」→「次また楽しめたらいいよ!勝手に辛がってるだけ!」

 

そう!そうに違いない!

そして、帰り際に「傘がない」と思っていたのに「傘がある」って事実を感じた。

 

やっぱり、見えてないだけで、その物事や出来事に「傘はある」ってことだ。それは、「傘を見出すかどうか」「見出そうとするかどうか」なんだと思う。

「傘がない」と思って臆するのではなくて、「傘がない」からこそ、「傘がある」可能性を見つめればいいだけなんだ。

 

「忘れ物」と「記憶」について

ブックオフで本を漁る「ハピペン」です。このブックオフへ行く途中に、「忘れ物の指導と将来の忘れっぽさは相関があるか?」という話になった。

 

将来のために、「精神論で!」忘れ物はなくさせた方がいいのか?

 

うーん?どうだろう?

その精神というところの脳の発達が将来の忘れ物に影響するのだろうか……。

 

忘れ物の指導は「なんのために」行われるのだろうか?

履修すべき授業が受けられないためっていうのは大きな理由だと思う。けれど、「忘れ物をしない力」を付ける、としたら、それって存在するのだろうか?

 

たとえば小学校であれば「中学では誰も助けてくれないんだぞ!」って言葉が放たれることもある。

 

誰も助けてくれないから、忘れ物は「しちゃいけない」のだろうか。

私は「そう思っててもしちゃうから忘れ物なんじゃないか?」と思う。

(それこそ、私が、その「忘れ物しない筋」みたいのを学童期に鍛えられない存在だったからそう思うのだろうか。私はどうしても「つい」忘れる。)

 

ただ、人間いつでも忘れ物をするわけではない。偶然か、何かの因果か、忘れ物をしないときもある。

そして、そういう日があるからこそ「精神論」にもっていかれるのだが……。

 

前に「荷物を揃える時間が関係する」と聞いたことがある。忘れ物をする人は、「朝揃えることが多い」らしい。

そうなると、精神論で、「するな!」ってよりは「前日に揃えて!」って指導言の方がマシなわけだ。

 

そして、本題。

ブックオフで、記憶について書かれている本を見た。

それには、記憶するには

「繰り返す」

「印象に残す」

「関連付ける」

が大切だと書かれていた。

 

「精神論」の「するな!」的な怒りは、「印象に残す」を使った指導なのだろう、と思う。

人間にはポジティブよりは、ネガティブな記憶は残りやすいとよく言われる。だから、「忘れ物をすること」と「怒られる」を組み合わせて、忘れ物を防ごうというわけだ。

 

ただ、怒られ体験と忘れ物をしないようにする意識が結びついているかを、冷静に分析する必要はあるだろう。

「怒られた印象は残るが忘れ物はする」という現象が起こっていることも少なくないだろう。

この指導法でいくなら「忘れ物をしてしまった印象」を「怒られた印象」が越えるような怒り方はしてはいけないということだ。

 

また怒ってくれる相手がいなくなったら、たちまち忘れ物をしてしまうのではないか、という懸念もある。

 

実は、忘れ物を防ぐには、その子に合った「仕組みづくり」の方が重要なのではないか、と考えている。

 

発達に凹凸があるかの中には、漢字を「ある大きさより大きく書くと覚えられる子がいる」と聞いたことがある。

小さいと覚えられないが大きいと覚えられるのだ。

人は大きい文字だと印象に残る。ただ、それだけの話だ。

ならば、忘れ物をしやすい子への「仕組み」の一つに、「もちものを大きく書け」というのがエントリーする。

そんな風に、「繰り返し」「印象に残す」「関連付ける」を組み合わせて忘れ物をなくしていき、自分に合った「忘れ物をしにくくなる方法」を見つけてあげた方が、将来の役に立つのになあ、と思った。

 

この辺りが「周囲の人は、まるでそうとは思えないようなこと」を「ある教師が支配する学級にとっては真っ当なこと」にできてしまうという教師個人の主観や価値観による教育システムの怖いところだ。

自分を一般化するのはいい。だけれども、自分を一般化して子どもを責めるのはやめてほしい。

できないのは、少なくとも「子どもだけのせいではない」っていつも思う。

「大丈夫って思って……」

今日は「休み!」な「ハピペン」です。プライベートでやらなきゃならないことを土日以外でどうやるのかさっぱり分かりません。

引っ越し、諸々のお祝い事、日用品以外の買い物など。アマゾンに住んでたら逆にamazonいらないんだろうな、なんてことを思いついてしまった。

 

今日も、やっぱり「経験」って大事だなって話。

 

子どもたちがイスでノッキングすることがたまにあると思います。これは、頭を打ったら大変だから厳重注意ですよね。

 

それでもする子はする。理由は様々。一番は、その刺激が「快」だからです。*1

 

そして、ある日、「ガタンッ!」となって、頭を打つける子が現れる。

けど、自分で手をつけたから軽くだった。その後も普通に過ごしていた。

そこで出てくるのが「大丈夫だと思ったので……」

 

放課後。偶然の連絡で「家で意識が変で救急搬送されて、今病院なんです」ってことが発覚する。

 

職員室で話しても、「大丈夫だと思って、保健室にも行かせませんでした。」と話している。電話口でも「大丈夫だと思って……本当に申し訳ございません」って言ってる。

 

その後「ひたすら謝ります!」って強く言ってる。

いや、そういう問題じゃないから。

 

想像力の欠除?命の重みが分からない?そういうことなんだろうか?

 

私は前にも「大丈夫だと思って系」のケースを見たことがある。

ブランコから落ちて顔を打った子がいた。同僚が保護者に連絡をし「大丈夫と思う」と話した瞬間、親はキレた。保護者は「看護師」だった。

その後も同僚は、だって 「大丈夫じゃんねぇ?」みたいなことを言ってた。(結局、すぐに病院に連れて行ったけど)

これが起こった要因は、反対に同僚に経験があったからかもしれない。これぐらいなら「大丈夫だ」とこれまでの経験から判断された。しかし、これは素人の推測だからプロの看護師がキレるのはよく分かる。この同僚は具合の悪い子が誰よりも早く分かった。そこだけは本当にすごいと思っていた。子どもを見てはいるし、判断力は実際あった。

 

ただ「大丈夫かどうか」は、決して教師が決めるわけではない。当たり前だが、だったら、保健室はいらない。

 

「ひたすら謝ります!」とその姿勢はいいんだけど、一体何を?と思う。万が一、意識の異常が「下校中に起こったら」ということはイメージしているだろうか。発見されず、帰ってこないという連絡から判明したらどうなるだろうか。

それが起こらない根拠をもって「大丈夫だと思った」のだろうか。追及されたら、想像出来なかったで済ますのだろうか。

恐らく、謝ることが山ほどあって多すぎるんじゃないだろうか。

 

そして、私が一番怖いのは、命の重みすら尺度は「教師の主観」なところだ。この辺りの尺度については、とにかく先輩たちの知恵を借りた方がいい。前任校で強く「その通りだな!」って思ったのが「首以上のことはどんなに小さなことでも管理職に集めて」ということだ。

組織の一人として、重要なことは「思った」で済ませてはいけない。

これは、上や養護教諭との兼ね合いもあるだろうから、どうしろってのは、なんとも言えないが……。

せめて、自分は「首より上は必ず保護者に伝える」ってことを胸に刻み込んだ方がいい。

 

預かるってそういうことだから。若い人は「風邪ぐらい」も思いがちなところがあると思う。自分もそういうところはあった。けれど、保護者の方が自分の子どもについては想像力が豊かである。

具合が悪い子を「やる気がない!」と怒ら出す人もいる始末で、そこだけは、愛情優先で敏感になった方がいい、と話したことがある。

 

ただ、これも「経験」があるから。前の同僚が、「具合の悪い子」を素早く発見することに愛情を感じたこと。その同僚が「大丈夫だと思う」と言って保護者に怒鳴られたこと。

そういう重みと自分の軽率さを「経験」で知っているから慎重になれるところだ。

 

いつかの私たちもたぶん「大丈夫だと思う」と無根拠に言っていると思う。

今の若い人たちも、当然に私たちも、それで実際に「大丈夫だった誰か」によって首の皮をつないでもらって、救われているだけなのである。

 

先輩な人たちは、その外しちゃいけないことを豊富に若手に伝えた方がいい。そして、たぶん私もまだまだ、知らないことがあるんだろうと思う。*2

 

「大丈夫だと思って……」大丈夫だったからって、無改善は許されないし、許さないと心に刻んで。

*1:私もやってたから、私にもその気があるのだなあと思う。ブログ見りゃ一目瞭然だろうけど。

*2:裁判の判例集や、事故報告集なんかを見ると特にそう思う

会わなければ分からないことは「ある」

 昨日は電車を乗り間違えてスカイツリーまで行っちゃった「ハピペン」です。

 

「ふたせん」さんに会えました!

ブログは「人」が書いている【ハピペンさんと会ってきた】 - 小学校教師ふたせんの朝3時からの共育現場〜育つ育てる育てられる〜

 

激しい情報社会と言われるものの、その激しさは一般ピーポーからは観測不能な頃。*1

情報は無料、体験が有料と言われる時代。やっぱり、「会わなければ分からないことはある」。

そして何よりそれが楽しくて「快」だからたまらない。

今回あえて木曜日にしていただいた。たぶん似たようなことを「ふたせん」さんも思っていたのではないかと思う。

 

平日のアフター5に電車で1Hかけて会ったとしても、「快」があるってことに挑戦したかった。

生の人間ってそれだけ魅力だし、「楽しい」ってことも感じたかった。

結果は、やっぱり挑戦して大正解でした。ほとんど「ふたせん」さんのおかげでしかないのだけれど。

 

会わなければ分からないこと。ってのは、教育活動で言うところの、体験しなければってことに近いと思う。

それをふたせんさんは「背景」と表現されていた。それこそ体験学習の前に子どもに感じ取ってもらわなきゃいけないことだな、と。

 

全然話が跳んじゃうのだけど、4年のゴミ処理について話すとき、自分が一番楽しいのは昔のゴミの集め方を考えさせているときだった。*2

 

ふたせんさんに会って一番感じる魅力は……語ろうと思ったけれど、これを会って楽しんだ方がいいってわけだ。

 

ブログのトップにあるように、大きいというか強くて寛大な「志」のある人と感じた。

安心感のある受け皿。

 

そして、いろいろな人に会っているからこそ、何を質問すれば楽しいかをよく分かっていて、

 

「なぜ学ぶ?」

「どんな実践を?」

素敵な質問だなあ、と思った。

 

あとは、「着実性」を感じた。これは、苦手とされているようなことをおっしゃってたので、そう感じるってことは、学びの成果なのだろうなあ。

 

あとは、とても「潔く」、己のもつ価値観のために「真っ直ぐ」。それが、分かりやすく示されているから安心するのかもしれない。

 

すべて、自分にはないもの。「ふたせん」さんは「人それぞれに良さがあって学ぶうちに隣の芝の青さも薄れる」と言っていた。今後も学ばせていただけたら嬉しいなって思う。

 

最後に、全部置いといてすごいのは、今日って「金曜」がやっぱりそんなには辛くないってことなんだ。朝もスッキリと目が覚めるし(スカイツリーまで行ってしまっても)、今日が楽しみになってる。

 

そういえば、私は、その「人間って楽しい」「生きるって楽しい」って前提を子どもに伝えたいだけだったことも思い返せた。

*1:肉眼で空を見上げても成層圏の境目が見えないように。

*2:でも、歴史は嫌い。本当は覚えるのが嫌いだったんだろうなあ。考えるのは好き。

エピソード記述「空気になってませんか」

背景

今年度より転籍の女の子。礼儀正しい。教師に認めてもらおうという気が強ように感じる。誰かが注意されると、その後に露骨に正しい振る舞い方をする。

 

エピソード

掃除の時間、頑張っている子をほめていく。その中で「私空気になってませんか」と女の子が言った。

 

省察

「ほめる」と「ほめられる」

その女の子をほめていなかったわけではない。しかし、コミュニケーションは相互作用的なもの。

「ほめられた」と相手が感じていなければ、それは「ほめ」にはならない。

ほめた気にならないで、教師もコミュニケーションに意識を払うことで乗り越えることができるかもしれない。

 

これまではどうだったか

「空気になっている」これは、これまでも言っていた言葉なのだろうか。

言えていたとしたらいいのだが、言えていなかったとしたら、その思いをこれまで飲み込んで生きていたということだ。

それを吐き出せる気兼ねない場であることが嬉しいと同時に、そんな言葉を言わなくても、誰が「いるね!」ってしなくても、自分の存在を自分で保持し肯定できる子に育っていってほしいと考えた。

【まとめ】『リフレクション』「リアリスティックアプローチ」・「ALACTモデル」など(「エピソード記述」「省察的実践」含む)――プロセス・流れ・時系列について

リフレクションについてまとめてみた。ハピペンです。

先にイメージがあった方がいいので、リフレクションのうち「エピソード記述」を紹介します。リフレクションってこんなもんでもいいのかというたたきにしてもらえたらと思います。

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参考:ハピペンのエピソード記述

www.happypenguin.net

 

このようなリフレクションから、もっと深いリフレクションを試みるための情報をまとめてみたのです。

前提

教育現場・学校では、子どもとのかかわりのすべてに「教育的価値」を意図したかかわりという前提がある。

教育現場では「教育的な根拠」と関係なく、無作法に好き勝手に思い込みやオリジナリティのみで子どもと過ごしていればいいわけではない

そして、前提となる「教育的価値」というのは、いわゆる「ねらい」である。

しかし、教育のほとんどは対人間によって行われ、コミュニケーションを介したものである。しかし、コミュニケーションは、相手によって常に内容が変化する。だから、こちらがどんなに「ねらい」を達成するために状況に応じてコミュニケーションをしたとしても、「ねらい」が達成できるかは全く分からない。

だから、我々が行った「かかわり、コミュニケーション、振る舞い」を「リフレクション(内省・省察)」することで、より「ねらい」に向かって「行為の枠組みを変える」ことができる可能性がある。そして、リフレクションがそれをもたらす可能性は高い。

短絡的に言ってしまえば、我々が「行為の枠組み」を変えることによって、より「人格の完成、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」「自己実現と社会参画」「自立と社会参加」に近づけるように、我々の「教育活動(かかわり・コミュニケーション・振る舞い)」を変えるってことだ*1

じゃあ、「どうやって何を『リフレクション』すればいいの?」というのが、今回の【まとめ】。

ALACTモデル

大きな枠組みが「ALACTモデル」で、その項目ごとの具体的な視点や考え方がある。

ALACTモデルは、

  1. 行為
  2. 行為の振り返り
  3. 本質的な諸相への気付き
  4. 行為の選択肢の拡大
  5. 試行

 のステップでリフレクションが行われる。

それぞれのステップを説明していき、順に辿ればリフレクションができるようにしたい。

ステップ1 行為

これは、もう「して」という感じ(むしろ「していない」という状態はないかもしれない。何でも考えてみれば「している」と考えられるだろう)。

 

その後の「振り返り」で、思い出される「ある場面」における「見たこと・聞いたこと(観察)」と「どうかかわったか、コミュニケーションしたか、振る舞ったか(関与)」を通じた「感じたこと、気づいたこと、思ったこと(省察)」から「分かること(意味・価値)」が重要なのだと思う。

 

本当はこうした「行為」の最中に「観察」と「関与」があるのだと思う。
研究であれば、その手練れさは、必要だと思う。しかし、日々の実践的なリフレクションのためには、とりあえず「して(みて)」、そして後から振り返ってみようというのが妥当かと思う。

 

「行為」に関しては、こちらなりの主観から来る「ねらい」をもって「して」というしかない。

★「ステップ1」の「行為」では

・何を達成したかったのか?
・特に何に注意したかったのか?
・何を試してみたかったのか?

引用:http://www.nakahara-lab.net/2011/10/post_1802.html

が含まれている。

※「行為」への支援

「行為」をよりよいものにする支援として「有益な経験を見い出す支援」が考えられます。有益な経験(行為)を見いだすための思い浮かぶ限りの手助けによって、「行為」が豊かになるということです。


参考:http://files.eric.ed.gov/fulltext/ED266102.pdf P8

 

ステップ2 行為の振り返り

次に「行為」の振り返りを行います。

「行為」の「受容、共感、具体化」のための「8つの質問+1」が示されています。

8つの質問

《自分軸》
doing:自分は何をしていたのか?
tihinking:自分は何を考えていたのか?
feeling:自分はどんな感情をもっていたのか?
wanting:自分は何をしたいのか? 

《相手軸》
doing:相手は何をしていたのか?
tihinking:相手は何を考えていたのか?
feeling:相手はどんな感情をもっていたのか?
wanting:相手は何をしたいのか? 
参考:http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/11/post_2296.html
 

これを基に「行為」に含まれていた「内実のようなもの」(「内実=本当のところ」なので、「内実のようなもの=そのときに本当のところだと思ったもの」)を引き出します。

この8つの質問の中で、特に「感情」のズレや不一致が、意図的な思考の揺さぶりにつながり重要だそうです。

この日常の中に様々な行為がある中で、そのときに振り返る「行為(最初に思い浮かぶ出来事)」というのは、いくつもある事象の中の「ある行為」に特定されていると思います。

その「行為」が思い浮かぶ理由として、その行為が何かしらの「琴線」に触れているからその「行為」が想起されたと捉えることができます。
(他に、たくさん行為を書き出して選び抜く方法もあります。)

「エピソード記述」的には、「ある行為」を選んだということは、そこに「感動や違和感、自分の心が揺さぶられた」という可能性が高いのです。

重要)「ある行為」が浮かんで、選べるということは、そこにもう「メタ」な省察があると考えられます。「行為」を選んでから「省察」するのではなく、それが心のどこかで「省察」していてその価値に気づいているから「行為」を取り上げることができるということです。

+1

その「行為」の映像が読み手に伝わるような「背景」があることで、深い省察につながります。これは「エピソード記述」でも何度も言われていいます。

 

context:背景・状況・前後関係

それはどんな文脈で起こったのか、これからどんな文脈につながっていくのか。

ただの情景描写をする必要はないのですが、「客観的な事実」と「場所」と「どんな風に感じる雰囲気なのか」、などを背景に盛り込めるとよい。 

参考:社会科教育カリキュラム・デザインの理論と方法: コルトハーヘンのALACTと8+1の窓

 

そして、「その行為を選んだのはどうしてだろう?」と探っていくのが次の「3.本質的諸相への気づき」のステップです。

★「ステップ2」の「行為の振り返り」では

・具体的な出来事はどういうものだったのでしょうか?
・何がしたかったのか?
・何を思ったのか?
・どう感じたのか?
・生徒達は何をしたくて、何をしていて、何を思い、何を感じていたのだと思いますか?

引用:http://www.nakahara-lab.net/2011/10/post_1802.html

が含まれている。これに関しては、すでに上で紹介したものと同じですね。

※「行為の振り返り」への支援

「行為の振り返り」をよりよいものにするためには「受容、共感、誠実、具体性」などの支援が良いとされています。行為を振り返っている人に対して、また自分自身が行為の振り返りの中で「受容、共感、誠実、具体性」を意識することで、行為の振り返りの質が上がるということです。
参考:http://files.eric.ed.gov/fulltext/ED266102.pdf P8

ステップ3 本質的な諸相への気づき

ステップ3が一番の「肝」で重要!

その「行為」に何が含まれているかを解剖していくようなイメージです。掘れば堀っただけ、見つけ出せるものがある。そして、その掘るための道具が「己の人間性」というところが非常に面白い。

単に加齢とともに経験が豊かになればエピソードやメタ観察が書けるようになるというほど単純ではありません。(中略)若い人でも、人と丁寧に付き合う構えをもち、相手を主体として尊重しつつ、しかし自分も一人の主体であるということを相手に伝えていくようにしている人は、おそらくさまざまな人と関わる中で、いろいろな気づきを得、それを「豊かな背景」に溜め込んでいけるでしょう。(中略)そして、そのような人がエピソードを描けば、やはりなるほどと人に思わせるものが描けるのです。

エピソード記述入門―実践と質的研究のために P201

「エピソード記述」においては、立場が定まっていないとエピソードが描けないと書かれていました。ただし、その立場が自分で認識できていないだけで、振り返りたい「行為」を浮かべることができるように、すでにその芽は己の中にあると言えます。

その立場や価値観にどうすれば気づけるのかが非常に大切です。その価値観が「コア・クオリティ(クオリティ=質)」と言わているものだと考えられます。

そのサポートツールを「コルトハーヘン」さんは、ちゃんと用意されています。

それが「玉ねぎモデル」です。

玉ねぎモデル

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参考:http://www.ritsumei.ac.jp/kyoshoku/kankobutu/kiyou/202araki.pdf

上手くこの項目たちを行き来して、埋めていくことができたら、コア・クオリティに近づける可能性がある。

  • 環境:私は何に遭遇しているのか
  • 行為:私は何をしているのか
  • 能力:私にできることは何か
  • 信念:私は何を信じているのか
  • アイデンティティ:私は何者か
  • ミッション:私を駆り立てるもの
  • コア・クオリティ:核となる質(価値観)

ちなみに、「核となる善さ」にまで届いている「リフレクション」を「コア・リフレクション」というらしい。「コア・クオリティ」は「ポジティブ」なものが望ましいと「コルトハーヘン」さんは言っているとここに「http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/11/post_2296.html書かれていました。

「本質的な諸相への気づき」は「コア・リフレクション」であると良いということです。

 

一方で、「不一致」をもとに「価値観」に気づく道もあります。

  1. 「考えていること」と「感じていること」のギャップ
  2. 「自己イメージ」と「他者から見た自身のイメージ」とのギャップ
  3. 「自分として生きる中で体験して知っている自己」と「他者に表現して伝わる自己」とのギャップ
  4. 「していると言っていること」と「実際にしていること」とのギャップ
  5. 「今の自分」と「なりたい自分」とのギャップ
  6. 「言葉にしていること」と「言葉にしない行動」とのギャップ

参考:未来を創るリフレクションの力 F・コルトハーヘン氏のリフレクション学スペシャルワークショップに参加して - Learning journey - ラーニングジャーニー | MIKA KUMAHIRA

「大文字のTheory」と「小文字のtheory」

「3.本質的な諸相の気づき」の中で、「大文字のTheory(学術的知識)」と「小文字のtheory(実践知)」の結びつきを見つけることもより深い省察には必要になってきます。

「エピソード記述」で言及されていることに気をつけて、理論と実践を結び付けていきます。客観と主観のバランスを取るイメージです。主観的な省察なのだが、客観的な理論も踏まえているような。

「主体としての実践知」と「客体としての学術的知識」の結合部を探っていく(単に理論と実践でもある)。

(ちょっとこれは、はっきりとはまだ分からないのだけれど「人間科学の相対主義」と「自然科学の客観主義」を合わせて「構造構成主義」へ向かうといった感じだろうか。経験主義・系統主義、カントのような話かもしれない)

 

自分の行っていることが、学術的知識では何に何処に値するのか。これを考えられることで、エピソードに軸や土台ができ、意味や価値が増す。

その「意味」や「価値」の再現性を探ることが、「リフレクション」の役割の一つである。

 

ステップ3を基に、リフレクションをする前には掘り出されていなかった「意味」や「価値」に気づけたなら、それを手掛かりに「4.行為の選択肢の拡大」へと進む。

★「ステップ3」の「本質的諸相への気づき」では

・第二局面で答えたそれぞれの答えの相互関係性はどうですか?

・学校・文脈が全体としてそれにどのような影響を与えていますか?

・あなたにとって、それはそういう意味を持ちますか?

・問題は何でしょうか?

・ポジティブな発見はありますか?

引用:http://www.nakahara-lab.net/2011/10/post_1802.html

これらを通じた「ポジティブな発見」が大切なキーワードになると思います。

※「本質的な諸相への気づき」への支援

「本質的な諸相への気づき」を促すための支援として「受容、共感、誠実、具体性、対立の概括、『今、ここ』の利用、物事を明確にする支援」などがあります。

「今、ここの利用」というのが独特で分かりにくいです。私もはっきりとは分かっていないのですが、私は、自分が「今」感じること、自分が「今」思い浮かぶアイデア(目の前の人に尋ねるなど)、「今」使えるものを使うということだと捉えました。


参考:http://files.eric.ed.gov/fulltext/ED266102.pdf P8

 

ステップ4 行為の選択肢の拡大

ステップ4の手法はいろいろある。

誰かと「リフレクション」をシェアしたり、図解して分析したり、ただひたすらに考えたり。

 

概要が以下。

  1. 学習者(リフレクションしている人)を巻き込む
  2. 学習者が選択肢を形づくる
  3. 選択肢を十分に具体的なものにする
  4. 能力や勇気などの観点からみて、選択肢は、十分にリアリスティック(現実に適合している)か
  5. 行為が何につながるのかを吟味する
  6. 別の場所にも適用できるように、一般化する
  7. 学習者が複数の選択肢の中から選択する

引用:未来を創るリフレクションの力 F・コルトハーヘン氏のリフレクション学スペシャルワークショップに参加して - Learning journey - ラーニングジャーニー | MIKA KUMAHIRA

これらをどのようにやるかは、この先考えていきたいことの一つ。

(そもそも、まだまだ「エピソード記述」書いていないのだから)

★「ステップ4」の「行為の選択肢の拡大」では

・別の選択肢としてどのようなものが考えられますか?
・それぞれの選択肢の利点と欠点は?
・次回はどのようにしようと決心しましたか?

引用:http://www.nakahara-lab.net/2011/10/post_1802.html

これらの問いを通じて、リフレクションを深めたい。

※「行為の選択肢の拡大」への支援

「行為の選択肢の拡大」を促すための支援として「これまでのスキルの全て+解決策を発見、選択する支援」などがあります。「行為」と「行為から感じたこと」についてのカウンセリングというイメージです。
参考:http://files.eric.ed.gov/fulltext/ED266102.pdf P8

ステップ5 試行

ここは、ステップ1「行為」と同義になります。

これまでのステップ1~ステップ4を踏まえて、次なる「行為」へ向かうということです。

※「試行」への支援

「試行」を促すための支援として「学習プロセスを継続する支援」などがあります。
参考:http://files.eric.ed.gov/fulltext/ED266102.pdf P8

 

「伴走者、激励、勇気づけ、動機付け、リマインド」などなど、学習プロセスを継続する支援が「試行」を促すかと思います。

「メタ省察」

さらに一歩進んだ省察について。「メタ省察」という枠組みがある。

「メタ」とは「高次」という意味があるため、「省察」のさらに「高次」なものいうこと。要は、「リフレクション」に対する「リフレクション」ということだ。

・私は何を学びたかったのか?
・私はそのことをどのようにして学ぼうとしたのか?
・私はどのような学びの瞬間に気づいたのか?
・その瞬間、どのように学んだのか?
・何が学びを手助けしてくれて、何が学びの邪魔をしたのか?
・わたしの学び方にはどのような問題点や長所があるのか?
・私の学び方以外の方法として、どのようなものがありうるか?
・省察を終えたいま、これから先に直面するであろう学びの
・時期を乗り越えていくための方法として、どのようなものが思いつくのか?

引用:http://www.nakahara-lab.net/2011/10/post_1802.html

「リフレクション」を行う際に気をつけるべきこと

「リフレクション」は、あくまで「今後に生かす」ために行われるものだと考えられます。振り返りの重さから、自分のダメさなどに目が行ってしまって、身動きできなくなることも考えられます。

しかし、それは、あくまで「省察」によって自己を深めたからこそ見えてきたものです。

リフレクションしていく中で、「自分はなんでこんな自己中心的なのだ」と落ち込んでしまう人がいる。しかし、それはリフレクションの目指すところではない。
大切なのは、ある規範意識に照らしあわせた時に”醜い”思考や感情、欲求を持っていたとしても、最終的に自身が行動を選択できるという信念を持ち、行動の選択肢を増やしていくことである。その意味で、リフレクションには敢然性への契機が含まれているなあなんて思ったりもするのだが、その話はまたさておき、いたずらに自身を追い詰めることがリフレクションではないということも忘れないようにしたい。

引用:あるがままの記録: コルトハーヘンの「9つの質問」と陥りがちなリフレクションの罠

それこそ、その見えた「意味」や「価値」を基に、改善していけばいいのです。

 

リフレクションを「○○○」と言い換える 

 先日「授業づくりネットワーク」理事の石川晋さんの話を聞く機会がありました。

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その中で「リフレクション」っていうと何をしていいか分からないが、ある言葉に言い換えると分かりやすいかもしれないとおっしゃっていました。

 

以下の本にも書かれているそうですが(お前は見てないのか!まだその前の号を見ています)。

授業づくりネットワークNo.31―リフレクション大全 (授業づくりネットワーク No. 31)

授業づくりネットワークNo.31―リフレクション大全 (授業づくりネットワーク No. 31)

 

 

リフレクションは「見直し」とおっしゃっていました。確かに分かりやすいですね。

そう見直しなんですよね。

 

追記:2019/2/16

 

 

以上で、今のところの「リフレクション」の【まとめ】を終わります。

 

他のエピソード記述

 

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エピソード記述入門―実践と質的研究のために

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なぜエピソード記述なのか: 「接面」の心理学のために

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教師教育学:理論と実践をつなぐリアリスティック・アプローチ

教師教育学:理論と実践をつなぐリアリスティック・アプローチ

  • 作者: F.コルトハーヘン,Fred A.J. Korthagen,武田信子,今泉友里,鈴木悠太,山辺恵理子
  • 出版社/メーカー: 学文社
  • 発売日: 2012/02/20
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省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

 

 

 

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*1:エピソード記述の意義の一つのように「出来事のあるがままに近づく」という哲学的な意味ももちろんある。

「省察的実践」(リフレクションと関連して)

エピソード記述に慣れたい!「ハピペン」です!

 

なぜリフレクション(「内省」ないし「省察」)が必要なのか

社会の変化が激しくかつ速度も増している。中でも日本はフロントランナーで、先行き不透明中で、これまでに出くわしたことのない問題を解決していく力が求められるからである。

発端となる理論は「シングルループ学習・ダブルループ学習」と思う。

シングルループ学習・ダブルループ学習

シングルループ学習とは、すでに備えている考え方や行動の枠組みにしたがって問題解決を図っていくこと。ダブルループ学習とは、既存の枠組みを捨てて新しい考え方や行動の枠組みを取り込むことである。 1978年、アメリカの組織心理学者クリス・アージリスとドナルド・ショーンが『組織学習』において提唱した概念。 組織は、シングルループ学習だけでは環境に適応しながら生き残っていくことは難しい。過去の成功体験における固定観念を自らアンラーニングし、外部から新しい知識や枠組みをダブルループ学習し、それをまたシングルループ学習によって反復・強化していく。このサイクルを繰り返し継続できる組織だけが競争優位を保ち続けることができると言われている。

シングルループ学習・ダブルループ学習(しんぐるるーぷがくしゅう・だぶるるーぷがくしゅう)とは - コトバンク

 ダブルループ学習によって、新しい考え方や行動の枠組みを取り込む

その具体が、リアリスティックアプローチ。その中に、「エピソード記述」的なリフレクション、「省察的実践」的なリフレクションがあると考えた。

ドナルド・A・ショーンの本に「省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考」がある。

「リフレクション」と「リアリスティックアプローチ・省察的実践・エピソード記述」の関係

リフレクションという言葉自体は「内省」や「省察」以上の意味をもたない。「内省」や「省察」などの「行為の意味」や「行為の価値」を示したのが「エピソード記述」や「省察的実践」の概念なのだと思う。

そして、「エピソード記述」や「省察的実践」の具体的な方法論を示してくれているのが「リアリスティックアプローチ」だと捉えた。

 

「省察的実践」について

「省察的実践」に触れておく。

ショーンは「専門家」による「技術的合理性」によって、個としてのクライアントが犠牲になっている可能性について考えた。大局的なデータベースで、目の前のクライアントに起こっていることを分類してしまうことによる、見落としがあるのではないか、と言った感じだろうか。

ショーンは、技術的合理性モデルを理念型として掲げる専門家が、自分のもつ枠組みに厳密に従う実践を志向するあまり、クライアントの独自性を犠牲にしてしまうことがあると指摘していた(Schön 1983: 44)。技術的合理性モデルは、専門家自身の満足に寄与しても、クライアントの満足に寄与しない場合があるのである。
技術的合理性モデルは、ショーンの見出した専門職実践に対する先の問題「自らの枠組みに依拠しながらも、いかにして各事例の独自性に応じた問題解決を見出していくか」に答えられない。というよりは、その問題に出会わない。したがって答える必要がない。それに対し、この問題に直面するショーンの省察的実践論は、どうその問いへと答えようとするのか。

その問題に対するショーンの答えは省察的実践である。それは、問題状況に働きかけながら、その状況の独自性に応じて自ら依拠する枠組みを変容するプロセスを含んでいる。枠組みによって設定されていた問題は、その枠組みの変容に伴って設定し直される。

(P36)

http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/21830/3/三品陽平 博士論文.pdf

この「省察的実践」の考えが、「リアリスティックアプローチ」「エピソード記述」に含まれていると考えた。(どっちがどっちを含んでいるかの時系列は確認していませんが……。)

 

 「省察的実践」の一連の流れ

webで見つけたものを紹介するだけなのだけれども。

(6)省察的実践の一連の流れをまとめると次のようになるだろう。
・ふだん通りの実践をする。
・予期せぬ状況からの応答を受け取る(驚く)。
・問題状況を観察する(予想と現実のずれを捉える)。
・自分の記憶と経験のレパートリーや理論などと問題状況を結びつける(みなし)。
・状況変容に向けた行為を思いつく(望ましい状況に向けた行為の考案)。
・想像上で新たな行為を試してみる(想像上のリハーサル)。
・新たな行為を試みる(リハーサルにもとづき自らを問題状況に投射)。
・試みに対する状況からの応答を受け取る(状況からの語り返しの受容)。
・問題状況を観察する(予想と現実のずれを捉える)。
・試みの評価(試みの成否について検討)。
・新たな行為の考案(試みをさらに工夫して洗練)
ただし、すべての省察的実践がこのような手順を含んでいるわけではない。

(P41)

http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/21830/3/三品陽平 博士論文.pdf

ARACTモデルの抽象度が挙がったバージョンという感じがする。

 

これらを踏まえて、次の記事で「リフレクション」について、一旦、最終的な【まとめ】をしようと思う。