かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

エピソード記述「ありがとうって言える子」

背景

新学期、2週目。本格的に学校生活がはじまり、給食もスタートした。今年度も支援級の子を見ている。二年生の男の子。とにかく、思ったことを大きい声で口にしてしまう。刺激がないと黙っていられない。いかなる場面でも声の大きさから失礼な雰囲気になってしまうことが少なくない。たった3日で私の印象はそういう思いになっていた。

 

エピソード

今日、彼は給食当番だった。周りの流れに乗ってやり遂げる。仕事が終わると席に座っていた。私は給食当番がどのタイミングで自分の給食を取りに行くのか分からなかったためなんとなく見ていたら、クラスの子が彼に給食を運んできた。私は「ありがとう」と小さい声で言った。すると、彼も大きい声で「ありがとー!!」と言った。そして、もう一度後ろを振り返って持ってきてくれた子に「ありがとー!!」と興奮した様子で言った。私はこの子は「ありがとう」が言える子なんだな、と思った。

 

省察

私が心の何処かにもっていたもの

今回私が「ありがとう」と言ったのは、自然な癖のようなものだと思うのだけれど、何処かで彼は「ありがとうを言わないかもしれない」という子どもを疑う姿勢があったのではないか、と思った。

 

私がもつ価値観

昨年まで、本当に人間関係が苦しい子をもった、その子が生きていくために「感謝と謝罪だけはできる子にしよう」と思った。今回であった子が「ありがとう」を言えるのは、とても嬉しいこと。

 

大きい声への評価

彼は意図をもって他害をする感じではない。ただ、刺激を求めてちょっかいや大声を出すようにみえる。その子の大声を私は学校生活という枠組みで何処かに疎んじていたわけだけれど、大きい声で「ありがとう」を言えることは、価値の低くないことだと思う。そうやって学校的にNGな「大きい声」の良さも見ないことにしないで、彼を見つめていけるといいよな、と思った。

 

以上。

 

 

 

よいしょっと「エピソード記述」について

「もうちょっと」から「よいしょっと」じゃ前後関係感じなくない?と思っている「ハピペン」です。でも、字数の韻が良かったから採用。

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引き続き「エピソード記述」について。こちらの本から『エピソード記述入門―実践と質的研究のために』書いていく。

取り上げたいエピソードの抽出

第3章の第2節では、実際の鯨岡先生のゼミの人のエピソード記述の具体を例に、エピソード記述の構成について踏み込んでいっています。

「図」にしたい部分がどこなのか(中略)一つのエピソードとして長すぎる感じが否めません。

(P179)

やっぱり、物事を伝えたいときに、「長すぎ」はダメなんですねー。ダメなんですね……。ダメなんです。「うん。私はダメな子……。」

 

 

 

気を取り直す、オレ!!

〈背景〉の部分も、診察室を克明に描写する必要があるわけではなく、あるとすれば、「雑然さを少し残したこの狭い空間がなぜかほっとするような場でもある」というところが浮き立つように描けば、細部は省略してもよいはずです。

(P179)

なるほど。「主観が大事!」って思いました。 

事象に密着したメタ観察にはなりきれていませんでした。

(P179) 

「〇〇は良い」といった主張をするためにエピソードを刈り取るのではなく、「事象が内包する意味は何か」を見ようとすることが大切ってことです。

 

「実況中継」 の感じが残っています。自分がどこにもっとも感じ入ったのか、どこを取り上げたいのかがまだ全体の中から浮き立ってきません。

(P182)

 やっぱり「主観」が大切。それも「自分が」という生半可じゃない強い「自覚」が必要になる。なぜ、そこが浮かんで「図」となって、思い出されるのか、考えたくなるのか、その「意味」をピュアに問う必要がある。

 

また、「何が正しいか」の証明のための記述というよりは、自分を通した「真の事実」を見取るような印象を受けます。

「主観」を取っ払ったものは、現象としては事実なのだけれども、現象だけの事実は存在しなくて、そこには「自分が100%関与している」わけです。

現象としての事実ではなく「私が感じるあるがままの事実」という客観性が「エピソード記述」の醍醐味なのだと思います。

 

取り上げたエピソードをどう見るか

ここでは、エピソードが浮かび上がった後、それをどう見つめるかを一つ考えてみます。

従来の研究との接続はもちろん大事な研究の作業なのですが、その枠組みに引きずられると、事象の意味が一面的にしか見えなくなります。(中略)それ以外に他の見方はないのかと問い続けること、これがエピソード記述の方法論にとって大事な視点である(後略)

(P201)

 小文字のtheoryから大文字のTheoryに接続することについて書かれていると思いました。しかし、それに引きずられて、自分がそのエピソードに注目しようとした価値や動機のような「主体」がなくなってしまっては、本末転倒ということでしょう。

そうしたエラーやつまずきをなくすための方法論に「リアリスティックアプローチ」があるのだと思います。

 

「自分の立ち位置」が定まらないとエピソードが書けない?

第3章の第5節も面白いです。『自分の立ち位置が定まらないからエピソードが書けない』ということについて、書かれています。

これは、「ハピペン」が一番気になっているところです。自分の価値観や自分が何者であろうとしているかが(随時更新されるものだとして、その基準となるような価値観が)見えきっていないために、戸惑い迷い頭の中がこんがらがるのだろう、と*1

 

ここの『教師を貫く様々な価値観』の項が秀逸。

(前略)相手を主体として受け止めながら共にそこにいる、共にその場を生きるという面と、それだけでなく、その日の生活の流れや課題をこなしていく上で「させる」「求める」という構えをもってしまう面との二面が常にあって、しかもこの二面が「あちらを立てればこちらが立たず」の関係にある(後略) 。

(P202)

 その通りだと思います。ちなみに「ハピペン」はどちらかというと、前者寄り。

「共にそこにいる、共にその場を生きる」こういうの好きです。だから、本居宣長の教育観や性善説に「いいね!」って思いがある。

「その時代その子どもに必要なことは、その時代を生きる子どもたちが一番よく分かっている」という考えで答えに近づくことも少なくない。「分からなかったら子どもに聞く」ってやつで。まあその話は置いておいて……。

 

少し長い引用になりますが

 中でも教育の仕事は、目標を立て、その目標の実現に向かって努力する(教師が努力する、子どもに努力させる)という大きな枠組みがあり、一人の教師はこの枠組みからはずれることはまずできません。他方で教師は、「子どものありのままを受け止め」、子どもと共にそこにある(being with)ことを求められます。

しかも、その大きな教育の枠組みの内部には、やり方に関してあれこれの立場があります。また、後者の「共にそこにある」ことに関しても、どのように「共にそこにある」のかに関してあれこれの立場があります

その複雑な渦の中に巻き込まれ、その中で自分なりの動きをしたくてもできない面と、それでも自分が一個の主体として働きたい部分とがあって、それも自分の内部でせめぎあいます

 おそらく、そのような実践環境があるからこそ、多くの教師はマニュアルを求め、自分のすべきことを外側から決めてもらうことを求める動きを強めているのでしょう(たとえ自分の主体性を半ば犠牲にしても)。

ですから、善意の教師であっても、一つの職場の中ですっきりした気持ちで日々の教育実践に携わることができる人は、ほとんどいないといってもよい残念な状況にあるのだと思います。

(P202~203) 

 ここに書かれている内容は、まさしく自分のことを言われていると思いました。私は新卒で学校現場に入ったわけではないので、外部からの人間として少しでも早く学校の風潮に慣れたいという思いを強く持って学校で過ごしました。

しかし、学校現場へ入ろうと思った理由の中には「何かがなってないから子どもたちは不幸にになっている」という動機もありました。

私は、学校を尊重しつつ、自分の考えを殺しきることもしたくないという、まさに「内部のせめぎあい」がありました。

そして、立場が決まらず、実践を重ね子どもの姿を明確に伝えようとしても、自分の言葉と借り物の言葉が入り混じって、複雑な表現*2になってしまっていたのだろうな、と考えました。

 

どう改善するかですが、「読み手を意識してエピソードを描こうと努める」という項目があります。

ほとんど独白に近い、自分の実践日記のような書き方になっていて、読み手に読んでもらうという姿勢がうかがわれないことに気づきます。エピソード記述としては、そこが一番問題だというべきかもしれません。

つまり、これだけは伝えたいというものが書き手に煮詰まっていない、こう書けば読み手はどう読むだろうかという読み手の視点がないことが、裏返せば、そこでの自分の立ち位置がはっきりしていないことに通じているのです。

これまでも繰り返し述べてきたように、当日の記録とエピソード記述は違います。

エピソード記述は、読み手に読んでもらおうとして、そのエピソードが生まれた日の記録を描き直すことで出来上がってくるものです。

描き直すには一つの視点が必要です。つまり、自分の実践を評価する視点、自分の関与を吟味する視点です。その視点をもつことが一つの立ち位置をもつことに繋がるといっているのです。

(P207~208) 

 「あ、はーい……。」って感じです。

改めて、反省が浮かびますが、ここに書かれている考えをもとに「リアリスティックアプローチ」を実践していってみようと思っています。

 

そのエピソードを「何につなげるのか?」

「何につなげるのか?」この問いが、エピソードを描く意味だと言えるかもしれません。そのエピソード記述は、ただの思い出日記ではなくて、そこから見えた「考え」を次なる実践に生かすために描かれるものだということです。

そのエピソードを描く意味が明確になっているならば、自然とエピソードは浮かび上がるし、読み手を意識した記述にもなってくるだろうということです。

人の生の断面を描いて、そこで現場の問題を一緒に考えていきましょうというごく素朴な姿勢があれば、そして現場での実践を気持ちよく進めていくことができていれば、エピソードは描けるものなのに、というのが私の率直な感想です。

(P208) 

 単純な言葉になるが、「寄り添って共に生き、その人の人生に参加すること」そこからエピソードは浮かんでくるってことでしょう。「『本気さ』のようなもの」、「その子の人生に責任をもつ意志」、「知らない人生を知るということ」。これらが、「次につながるエピソード」として、「客観的な主観」になり得るということです。

 

最後に

エピソード記述を一言で表すと、

そこで取り上げられる場面は、その人固有の目を通して捉えられたものでありながら、誰にとってもそのように捉えられるものであるかのように提示されている(後略)

(P253) 

主観と客観のバランス」が重要なことを忘れないように。

 

注意点として、

一見したところでは確かに事実の提示であるようにみえるものが、実はその人の一面的な見方にすぎないということは往々にしてあり得ます。(中略)しかも常に「再吟味」の姿勢、つまり「これでよいのか」を問う姿勢をもって臨む(後略)

(P253~254) 

 「エピソード記述に正解や終わりはない」ということを忘れずに。

 

そして、冒頭に書かれていることだが、

「エピソード記述」は「関与」と「観察」である。エピソード記述を通して、「出来事のあるがまま」に迫ること。「関与の質」に迫ることを意識して、実践を省察していく。

 

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*1:それはそれで、いい「葛藤」や「リフレクション」をしているのかもしれないが……。

*2:こんなかっこいい言い方をしなくても、何が言いたいのか分からない文章、ただ文章力がないってだけってのもある

もうちょっと「エピソード記述」

朝は電車で本を読めている「ハピペン」です!これが今回の異動で一番嬉しいことかもしれない。朝の15分程度なのだけれど、確実に本を読み進めることができる!すごいぜ!

 

ってわけで引き続き「エピソード記述」について、こちらの本『エピソード記述入門―実践と質的研究のために』から気になったところを抜粋する。

 

第3章(P167)からは『エピソードが描けないという悩みの出所』についてが書かれいる。

 

ここの章が、「エピソード記述」を行うための「人間性」のような、一歩踏み込んだことが書かれていて、哲学的で私は好き。

前回にも『関与することで精一杯である』という理由などが書かれていると紹介した。

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次に『何が問題なのかが見えない』という理由が書かれている。

何が問題なのかが見えてこない、そのためにエピソードが拾えないというのも、(中略)しばしば抱える悩みの一つです。ほとんどの場合、それは関与観察に臨む人がどういう価値観に立ってその場に臨めばよいかが分からないところから来ているようです。

(P171 下線は「ハピペン」)

その通り!と思いました。要は「どの価値観か」に立てていないから、「関与することで精一杯」で、現象を落ち着いて捉えることができていないってことなのだ、という頭の中でごちゃごちゃとしていたことが、明文化されていると感じました。

 

そしてさらに、

これはもう少し踏み込んでみてみると、単に自分が一つの価値観をもてないというよりも、人と接するときの今の自分の気持ちを下敷きにして、そこでの周囲の人たちの生き様を見て考えるという、ごく当たり前のことを当たり前にすることが分からない。要するに、自分で自分を認めることができない、つまり今の自分に自信がないということに行き着くということのようなのです。

(P171 下線は「ハピペン」)

(鯨岡さんは、ちょっと語り口が『加藤諦三』さんにも似てるような気がしてきた。それは、置いておいて……。)

グサッ!と来ますね。

瞬間的に浮かぶのは「心そこに在らざれば、見れども見えず、聞けども聞けず」の言葉です。

「そう何もかも、何もかも『私の心がなかった』のがすべての根源。大変申し訳ございません。」って気持ちです。

 

「いや、見ようとしてるし!頑張ってるもん!」って、可愛い顔をして言いたくなるけれど、実際にエピソードが拾えてねーんだったら、そうなんだろうよっ!ってもう一人の自分が可愛い顔した僕を蹴る。

 

「どーも、しやせんしたっ!!きりっ!」ってな感じで、こーんくらいぶち壊れたくなるほど、ダッメージなお言葉でしたっ。(別にそーんなに自信がないって感覚もないんだけどなあ……けど、奥底にそういうのがいるのかもしれないって思ってしまう……。)

 

要は、どこか「他人の顔色」を気にしちゃいないか?って話なんだろうな、って。

そりゃ、空気を読まなきゃ送れない社会生活もあるわけだけど、「いかに子どもを見られるから」って、それって「己の本心で見とんのか!?」って話で、「いやーだって公務員だよ?私情は挟みませんよ、旦那」って言いつつも、「己がない人間が人を育てられんのかい!?」って言われりゃ、「へへーい。そうっす。そうっすよ、おいらもちょうどそう思っていやしたところでやんす」状態。

 

さて、また来た価値観の二分化。うざったいのは、立ち位置を決めると、そうじゃない方の価値観で柔軟に否定してくる1・2・3・4番辺りの人なんじゃないかと思うのだけれど……。

 

ホリエモンも新書『すべての教育は「洗脳」である?21世紀の脱・学校論? (光文社新書)』の「あとがき」で、「やればいい!」って言ってたよ。「こういうのやりたい、どうですか?アドバイスくださいって言ってくる人がたくさんいるけど、僕は『やればいい!』って言っています。でも、やらない。その原因が学校による洗脳。」みたいなニュアンスを書かれていました。

 

そうだよ!上!「やればいい!」だよ。まあ、それで、なんかあってからじゃ遅いってのは分かるから十分な吟味は当然に必要だとしてね。

 

話が跳ぶんだがね。この回は、「エピソード記述」の話ってよりは、「価値観」についての一幕になってしまったよ。暗に古い人々への文句でしかなくてね。

 

なんとなくもうちょっと続く「エピソード記述」について……また、次回。

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重い子・軽い子

1週間終わったー!な「ハピペン」です!

 

ただ疲れすぎてはいない。上手く力も抜きつつ、自然体で出来たってことかもしれない。

 

常勝で上昇です。やってきたことは間違っていなかった!?国・算への支援がどハマりで、落ち着いて学習して子どもたちは、笑顔で帰って行きました。

来週も来たいと思ってくれていると嬉しい……。

 

はい。そんなんで今日思ったのは、学校って不思議だな、と。何に給料が出ているだろうか、ということです。

正直、疲れ具合は、子どもによって、そういう意味では子どもとの相性によって。決してあの子が大変ってことでなく。大変な「クラス」って表現もあるが。だからってその他諸々があったとしても「給料が上がる」わけではない。

人権的観点から、そりゃそうだろうけど。

 

給料は、疲労感やストレスへの対価ではないってことだ!(当たり前だ!)

 

いや、だって、「重い子」「軽い子」って表現の会話って少なくないと思うんだよ。(kgでなくてね。)

 

じゃあ、ところで、私たちの何にお金が払われているのだろう?と。

 

ぶっちゃけは、教育課程を修めていくことへの給与な気がするけども。

予算は、ある「枠」に対する人数で決まってくるよね。

ただ、やっぱり、今年の給料と昨年の給料が同じってのが(ベースアップはあるよ?)不思議でならない。どこに対して「同じ」なのだろう。

 

人数は正直減った。負担感も減った(あくまで感。オレの力量のせいってこと)。

なのに!って思って、「ああ」って気づいた。

 

私たちは「伸びしろ」に対価が支払われているのではないか、と。

あるゴールまで行ったらいくらではなく。

あることをやったらいくらでもなく。

一人ひとりをこれくらい伸ばしたらいくら。

この「これくらい」は誰に対しても共通な物差しにできるかな、と思った。

昨年までのあの子たちも「こーん」だけ伸ばした。

だから、今年の子たちも「こーん」だけ伸ばす。

その内容とか、負担感とかではなく。「こーん」だけ伸びているかが価値だから、給料は変わらない。

 

そうすると、大変さとかは置いといて「目の前の子を伸ばすこと」に価値をもってる自分がいるって思えた。

(もしかすると「こーん」だけ伸ばそうとしたっていう「伸ばそうとした」が限界な価値なのかもしれないけど。)

 

 

力不足感

たまに正夢を見る(気がしている)「ハピペン」です。正夢を、正しい夢と捉えて、デジャブみたいなのを感じたときには「この道が正しいのだ」と納得するようにしています。(中ニ病っぽいか)

 

入学式。6日ってのは珍しいかもしれない。

 

一年生みんなで入学式をすることができました。ただ、結構ヒヤヒヤだった。

支援の一年生の入学式は、正直賭けだ。どうすれば絶対ってのはない。

引き継ぎと保護者の方からの情報でできる限り安心して落ち着いて臨めるようにする。

それでも、人の数、緊張感、独特な雰囲気、きちんとした格好。「いつもと違う」だらけの場に、支援も負けそうになる。(ってか基本負けるだろうな。)

見通し、絵カード、好きなもの、落ち着くボディタッチ、言葉掛け、いろいろと用意するけれど、それぞれの質がどんなだとその子に入るのかは、十分には分かっていないので、経験による手探りと勘になる。

 

今回の自分なりの自分への点数は50点。

五年目だけど経験が足りないと思った。

もっと安心させる術があったのかもしれない、と力不足感がよぎる。

 

全員で入学式を迎え終えることができたのは良かったけれど。まあ、ちゃんとさせれば支援が素晴らしいって話でもないだろうけども。

その子らしく&場への適応のちょうど半々を過ごさせた感じだなあ、と思う。

 

「静かにする」「座る」が出来ればよしって思うけれど、これは誰にとっても簡単ではない。

 

どうすれば「自分も周りも気持ちよく過ごす力」を付けられるか。

じっくり見つめて、学校を楽しんでもらえるように頑張ろう!ってことで。

 

子どもとの出会い

好きなことは「いいね!って誉めること」な「ハピペン」です。

 

着任式ですね。何度か記事にされている話し過ぎない大切さ。でも、何か自分らしさ……なんて贅沢。

 

好きな動物は「ペンギン」。

好きなことは「いいね!」って誉めること。

朝あいさつしてくれたことに「いいね!」をしました。

 

ちょっと長いかな、と思ったのだけれど、2年生の男の子が、下駄箱で「自己紹介いいね!」と言ってくれたので、まあ今年はこの挨拶で良かったか、って感じ。

 

次に教室での対面。

みーんな、お利口さんたち。掃除もやる。やらせようとしても反抗的でない。

いいんだけど、私はあんまり好きでない雰囲気。(初めの印象をあえて素直に書いておこう!後で変わることを前提に……。)

大人の小さい版の未熟な存在って感じの子どもの扱いだと思った。

やらなきゃダメ。そんなんじゃ○年生じゃない。いけません。ちゃんとしなさい。

子どもの言葉を聞きたいところ。「やることはやる。」の指導も重要だけどね。

 

私は、毎年、初日のちょっといつもと違うからこそ出来る彼らの姿を原風景として大切にしている。

初日ってのは、いい姿が多い。

そうできる。なのに、何かが(特に大人の指導のせいかもしれない)影響して出来なくなっていく。それには、心理的な作用もあるのだろうけど、そういうのは飛び越えて、「本当は出来る子」と捉えて、どうすればそれを大人が日常の中で引き出せるかを大切にしている。

 

話していて、みんないい子だと思った。

注意して自尊心を低めてはならないと思う。話を聞いてやれば、たちまちやれる子たちだと思う。

 

私はまだ少し咳をする。すると、すかさず胸を撫でてくれた子がいた。

「そんな子がいるのか!!」って驚いた。

その優しさを壊さない支援をしていく。

出来ないのをその子のせいにしちゃ絶対ダメだろうって思うわけさ。

 

あとは、あれだね、先生が好きって感じは、そこの先生たちが育んだものだってことも絶対に忘れちゃダメだね。

交流の困難さ

今日は職員会議だったり、お昼を何人かで食べに行ったりな「ハピペン」です。

 

ちょっとした配布物、日々の業務に必要な書類、教室整備をして一日が終わる。

開店準備完了。

 

そうして、あとは、子どもの出方を見ないとなんとも言えない。

 

さて、ただ、ただ、思うのは「交流との折り合い」はどこも難しいのだなという感じ。

 

教師のアイデアでいくと、「教師ごとの特別支援観」とぶつかる。

特に年度を跨いで転籍となれば、前担任も黙っていない。「いや、これはできると思うよ。」って話になる。

 

こちらとしては、こちらのまとまりでの活動を思うから、動きや流れのイメージも加味して活動を想像するのだが、スムーズにはいかない。

 

なぜなら「根拠」がどこにあるか分からないからだ。

 

正直昨日から思っているのは話し合いの中で、子どもの気持ちが語られないこと。誰の都合の転籍なんだろう……。

 

それに、特別支援学級において、「保護者」ないし、「本人」の意向は重要だ。

はっきり言って印籠状態。

その言質を取っていないのに、配慮を構想するのは、フライングになる可能性が低くない。

そりゃ、周りもつっこみを入れたくなるわけだ。

 

まあ、最悪なのは、言質を取っても「それを説得して変えるのが支援の仕事だろうよ」って人もいるから、まだマシだけど。

説得が仕事になると本当に辛い。いかに不可能で、よくなくて、ダメか、を示して保護者や本人を納得させるって、想像しただけでも仕事としてひどくないだろうか。

 

現状は、そこまでじゃないから、うまくフライングにならないように、印籠を手に入れて立ち回りたいところ。

 

本当はこちらがきちんと支援観を示せたらいいのだけれど、揺るぎない支援観を示すには、今年は人数的な戦力が少ないのと、ちょっと年齢が足りない気がする。仲間を増やせるかが鍵だけど、もうちょっと見渡せないとよく分からないなあ……。

 

ひとまずは、パートナーが働きやすいことを優先したい。だから、空回りしないように気をつけないと、だ!!

教室環境の整備

今日やったのは、教室環境の整備。

 

教室に入ると、目の前に巨大なプリンターと雑然と置かれた教師机2つ、胸くらいまでの黒い棚3つ、長机2つ。

教室に入って左奥へ。パーテーションの向こうには5つの机が並んで、パーテーションに張り付いた黒板には「進級おめでとう」の文字。

手前の教室の黒板は使われていない。ロッカーがある関係で後ろを使っているみたい。

ロッカーの上には使っていない本・ラジカセ。奥の床にはタイルで休憩スペースとブロックの引き出し。

机同士の距離もまあまあ近い。手を伸ばせばちょっかいが出せる距離。

ロッカー側の廊下側には使っていない長机が2つ。

 

「資源ありすぎじゃね!?」

それに、黒板は前のを使って、ロッカーも使おう!

 

全部隣のプレイルームという部屋に移動した。プレイルームが実質的に必要かは子どもを見てから決めてもおかしくない。そしたら、構築すればいいよ。

 

教室は長机1つ、教師机1つ、子どもの机5つに。

 

「安心できる、落ち着いて学習できる」を構築するために一生懸命になってみよう、と思う。

多少手探りもあるだろうけども。

支援担任としての自立の1日目。