かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「校内研」が面白かった!?

夜はまだ冷えるなーと思っている「ハピペン」です。

校内研は教科統一?各々選ぶ?

今日は校内研の全体会がありました。

授業者がいて、授業を見てみんなであーだこーだする時間です。

下手すると粛々と建前で過ぎることもある全体会ではあると思います。

しかし、本校の校内研は学びが自分に向く校内研だったので面白かったです。

学校全体で「指導の系統を明らかにしていこう」という訳ではないので、個の学びに返していくことが可能なのだと思います。

これは、善し悪しがあるだろうけど、たとえば、教科も決まっていないからこそ、それぞれの個から木が伸びていき、そこに出来た果実を周りにいる同僚も受け取っていくような印象を受けました。

国語をやった人からは、そこからつながる国語を自分の学年でもイメージすることにつながります。全校で国語を研究していなくてもそれは可能なのです。

 

振り返り方

4人程度でグループをつくって振り返りをしました。

まず「3つの視点」で授業を振り返りました。それぞれの「視点」における「キーワード」を書いて、その理由と根拠を記入する。私は「◯◯と感じたから」という感覚しか書けなかったが。これが5分くらい。

次に、グループの人と「シェア」したいものを一つ選んで発表する。聞きながらどんなこと話しているかメモし、その後に発表されたことについて感じたことや考えたことなどを記入する。そして、その気づきや考えを発表者に返す。これをグループの人数分繰り返す。

そして、全員の発表が終わったら、キーワードをもとに画用紙等に一枚にまとめる。(ここが、提案授業に対してではなく、そこでの学びをシェアするための「まとめ」なところが面白い。結果的に「授業」にも返るのだと思うし。)

そして、それを壁に掲示してみんなで見て回り、全体にシェアして振り返りは終わる。

 

アドバイザーさんの講義

アドバイザーさんの講義が、教員あるある的な虚をつかれるような話で楽しかった。

まず「異動してきた人、学校教育目標言えますか?」からはじまった。カリキュラムマネジメントが叫ばれる今、私は少し意識しているつもりだったが、まさにつもりにすぎず、いざ聞かれると出てこなかった。さらに、「学習指導要領の学年の教科の目標と内容って意識してますか?」とも言われた。言葉を失うような……。

そしてこれからの授業づくりは「子どもが主役の授業づくり」ということも繰り返し話しているらしい。はっきりそう言ってもらえる後ろ盾があるのは、やりやすいような気がした。また「聴く話すがしっかりできることは必ず学ぶ力につながる」ということも話していた。

あと、「社会に開かれた学校」の開き方の具体も話していた。この内容も私の好きな感覚だった。教員の目標を外から来た人が見やすいところに貼り出せと言っていました。無記名でいいから、こういうことを頑張ろうとしてる教員がいる学校ってどうですか?って提案をして開いていくということだった。素晴らしいと思った。

 

この中の何を実現していこうとなって、学校がどう「よりよく」なっていくのか、自分にはまだ分からないのだけれども、ちょっとウキウキ、楽しみが増えたなあ、と思った。

 

あと、今日は例の批判を受けることにつながる子の頑張りを介助員さんが喜ばれていた。

やっぱり、育ってる子どもを信じようって、頑張ろうって思えたかな。

「批判」ってそれやめない?

あーうざったいって気分な「ハピペン」です。

今日はあえてね、あえて口悪く書いちゃうから。

 

必要なことはね、いつだって他人をリスペクトだよ。

 

「去年はこれで出来てたのに」

「◯◯くんはもっとできると思うよ」

 

「あーはいはい」

それ一番いらないからね。

言い方のニュアンスで何を伝えたいか、サポートしようとしてるのか、批判したいのかよく分かるわ。

 

そして、その自慢気に示すワンアクションで指示が通るのは信頼関係が出来てるからだからね、それは行動を選んでるんじゃなくて、ただの反射だろう。

 

同じ動作して同じように動くわけないじゃん。

本人だってその内実は分かってねーよ!そしたら、出来るじゃんいつも!

だったら、その子を得意なあんたをいちいち呼んでやろうか?って話だわ。

 

その行動が一般化してないんだから、指導が注意にすぎなくて、指導じゃなかった証拠じゃないか?

 

そうやって、同僚を批難した圧力は、下手すれば、子どもに向くからね。

たとえば、静かにさせられないことを批難されれば、担任は強行策に出るしかなくなるかもしれないんだよね。「きつく怒鳴ればいいのか?」って。あんたらいつも怒鳴ってるけどさあ。

そのアドバイスが「もっと普通級みたいにかかわっていいと思うよ」って、「きつく怒鳴れって?」っていうか、だったらなんでそもそもこっちにいんのよ?と。

それに、「支援」に入ったからってみるみる良くなるってわけじゃないからね。そんな支援が特効薬になってたら誰でも支援に入るわ!

まあ、少なくとも、交流級の集団の中で怒鳴られる回数は減るから支援級の方がマシってのがあるだろうけどな!

 

「普通級的な指示」と「支援級的な指示」があるって話の時点でなんか変な気もするし。別にどこ行ったって子どもに伝わるように言うだけだわ!

 

ただ、私のこれすら「批判」なんだよね。その子には「普通級風」にかかわった方が力が付くのかもしれない。

 

けれど、この話も、その子が去年育っていて、「自分で自分から」出来るようになっていたら出てこない話なんだけどね。

 

でも、やっぱり私の指導観、指導法が悪いんだろうか?じゃあなぜ、その子は、私の前で正しい振る舞いができるのか。

 

これは、紛れもなく「行動が人に依拠している」からで、ある人の主観、たとえば「うるさい」に対して静かにする力があるだけってことだ。

これを「TPO」によって「自分を選べるようにすること」、「自分で自分から出来るようにする」指導に取り組んでいるだけなのだけれど……周りの人はすぐ黙らせられないと嫌みたい。

よそ者が、子どもを見ていて、良い姿だけを表出できないのが不安で仕方ない、と。それはなんのための不安なのだろう?その子のためかな?本当に?

 

あと、「去年は、普通級の子と同じように扱っていましたから!」

これもなんなのかよく分からない。だからなんだよ、って。合理的配慮的に、発達障害者支援法的にいいのか、その明言は。

 

新人の失敗を指摘するのって楽しいんだろうかね。

要は、お互いイーブンじゃん?

自分の指導こそ正しい根拠は自分の気持ち良さだよね?

 

今後に乞うご期待だね。

出来るようになるっていうのは大切なことだけど

昨日今日と寒くない!?と思っている「ハピペン」です。町には春めいた格好の人だらけだけど、みんな寒くないの???

 自分を遡ることが続く。自分は「何者」なのかよく分からない。昨年の夏以降、映画「何者」の軽快なCMばかり浮かぶ。最後にキレッキレにタイトル「何者」が言われるCM。

 それは「ここではないどこかへ」感があるからなのだろうか?

 そうして自分を遡る中で思うのは「自分の出来事はありがちで重くはないだろう」ということだ。

 ただ、たとえば父に対して「一緒にやりたかった」という思いが浮かぶ。

「一緒に」は子どもも好きな手立てだ。

 私は、子どもは「出来るようになればいい」と思っているので「無理矢理一人でやらせる」という手立ては取らないことが多い。

子どもは「やれる!」と思えば勝手に一人でやる。その大人の予測ミスというか、勝手な都合での「一人でやれ」が残す傷が気になるのだろうなあ。こういう時に「いないものとして扱われた感覚」が含まれるニュアンスって分かるだろうか。

たとえば、一人でやりたくないのに一人でやって出来たことを認められても子どもは嬉しくない。そもそも褒められるためにやってんじゃないしね。(一人でやれるような支援がある場合はまたちょっと子どもが抱く感覚は変わると思う。あと、一人でやることが価値づいていれば違うだろうけど。)

そして、子どもは「一人で」出来るようになりたいって最初から思うわけじゃないし、それは適切な依存が済めば自然と起こるものだと思っている。

私は、出来るようになったけど残る傷があるってことを蔑ろにしないようにしたい。

発達障害系の子たちも、たとえば、18歳までにアスペルガーADHDの子の社会性は、適切な療育を、受けていればある程度の水準までいく可能性が高いと「杉山登志郎」の本で見た。

それよりかは、その成長過程で受けた指導による自尊感情の低下の二次障害の方がなかなか覆せず、立ち直れない人が少なくないとあった。

散々「とある子ども」を否定して育ててその子が出来るようになって能力を残したとしても、その指導法が傷も残し、そもそもの生きようとする気持ちを奪うことがある。

あの人に否定されたことは、この人に肯定されてもずっと残るってことをどうすれば拭えるのか。

なんとなく「どうやって直すのかわからないものを壊し続けるのはもうやめてください」という伝説のスピーチが浮かんだ帰り道。

誰も傷つかないで誰かを守る方法があるってことを教師は示したいね。

慣れ親しんだ社会と動物の間で

人は休むと回復するのはどうしてだろう?と思った「ハピペン」です。エネルギーがなかったのに回復するってなんか矛盾してませんか?自分のハード面についても全然知らなくても生きられるDNAに感謝ってとこだろうか。

 

そんなことを思うのは、今日は動物園に遠足だったからかもしれない。

 

展示のプールを下から見上げる。窓の右上でずっとクルクル回っているオットセイ。

「何がしたいんだコイツは……。」と思った。

ただひたすらに回転している。

たぶん「遊び」なんだと思う。

 

本当は人も別に生産性なんて気にせず、気持ち良さや心地よさに身を委ねて「やりたいことをやっていいはず」。

そんなことを思った。

 

私たちは「世間の目」みたいなものがあるからしていない、本当はしたいことがあるのかもしれない。

回りたいとか回りたいのかもしれない。

確かに、動物園の反対に、動物たちだけが自分を見ていても、なんの「恥」とか「世間」とかは感じないだろう。

食い殺されない範囲で自由な挙動で生きると思う。

 

人は「生産物」が評価される喜びがあるから、社会に参加しているのだろうか。(純粋にその評価が得られないと食べていけないってのもあるだろうけど。)

でも、そうすると、なんとなく社会ってつまらなくないかなあ、って思う。

良い評価が得られなくても、自分らしく参加できる社会だったらどうだろう?リラックスできて、私はなんとなく笑顔が増えるような気がする。

 

モラトリアム期間って言われるような、時間に制限があるところが苦しさかもしれない。脳科学的に若い脳で支えなければならない社会があるから、現代の教育制度なのかもしれないけれど。(そんなことないか、社会人の学び、生涯学習って話も散々されているものね。)

もしくは、セカンドチャンスっていうような、挑戦への制限があるところが問題なのかもしれない?

もし時間があったら、生産的でない時間を認められていたら。私はもう少し、虫や魚や動物を見たのかもしれないって思ったんだ。

実際、プライオリティはいつ如何なる時も発生するから、それよりも楽しい「子ども」に時間がいってしまうだけなのかもしれないのだけどね。

モフモフな鳥や、等身大のペンギンの像にかなりトキめいた日。

 

良さを見つめる

一年生を迎える会で「めあてを言うこと」「遊びがあること」が、とても良いと思った「ハピペン」です。

 

今年度「ハピペン」は市をまたいでの異動でした。心理的に多少の抵抗はあるものの、その抵抗を越えて「多様な価値観を受け入れられる人になりたい」という思いがあったので、反対にチャンスと思って他市に飛び込みました。

 

結果的に、今の所思うのは「うちはすごい!」っていうのが一番あぶないなあ、ってことです。

 

教育にベストも正解もないのだろうなと強く感じるのです。どちらかというとただ「思い」と「違い」があるだけという感じがします。

 

自分の中にある価値観だけにのまれないために必要なことは、目の前の事象の「良さを見つめる」ことです。

 

教育で言えば「良さのない教育」はないですし、「良さを見ようとすれば」自分の許容範囲はどんどん広がります。(当然法に触れちゃダメに決まっていますし、子どもの実態が合わさってくると「荒れ」もあるので、単純になんでもよいというわけではもちろんないですが)

 

最初に書いたように「良さを見出そうとすれば良さに気づくこと」ができます。ただし心理的な抵抗があると難しくなるかもしれません。

恐らくその正体は、前任校のやり方への慣れだったり、同僚の良さだったり、一言で言うと「愛着」かなと思いました。

 

ただ、大人が学校に対してもつ「愛着」は、実際的な教育の善し悪しと全く関係ないですよね。

 

過ごす中で「あれ?」って思うことは、当然違いとしてはあるのですが、結局「どれが正しい」っていうのは本当にないのだな、と肌で感じています。「思い」や「違い」があるだけなのです。

 

そうすると、ますます「誰も何も否定する必要はない」のだなと思えました。

 

ただ、みんなそこに在って、最善に近づこうと進んでいる。

 

いろいろな教育への態度を知り、良さを見つめる。すると、自分の教育も「あり」なのだと思えたり、自分にしかない良さがあるのだと感じたりする。

 

場所が変わっても自分の在り方が不変なところと、教育が「何のために」を大切にしてよりよく進もうと展開されている普遍を感じた日でした。

 

あの怒鳴る先生にも内実はある。その良さや背景を考えつつよりよさを目指せるといいな、と。(怒鳴るよさがあるかは、知らんけど)

 

外の世界にいくことで、異質を認めたときに己の異質さも認められるといった、承認欲求にのまれない仕組みを体験できたってことかもしれない。

「よくなりたい子」と「声の大きさ」

目が痒すぎる!「ハピペン」です!目を気にしすぎて、その仕草を子どもに真似される始末。電車の乗り換えの人たちがたくさん横を通るだけで目が痒いよー。

 

その真似をする子。今年一番近くにいる子。いつも教師に非難されている子。

声が大きいのが課題だったのだけれど、今日「声の大きさ表」をシンプルなものに変えた。

 

「5段階」から「3段階」

「かたつむり→ねずみ→ねこ→いぬ→らいおん」という謎の指標から「1→2→3」の数字表記に変えた。

私自身がらそうなのだけれど、動物の声の大きさ表では楽しくなりすぎて混乱する。大きさとかよりも、思うままに想像した声を表現したくなる。

動物の声の大きさ表を声の大きさだけに一般化するには、困難だと思う。面白いのはこれを全校で使っていて、全教師の「かたつむりの声観」や「ねこの声観」が一致しているのかどうかだ。

あの先生はこれで「いぬ」だったけど「らいおん」だって言われた、みたいなことが起こるんじゃないだろうか。

そしたら「いいじゃん3段階で」って思う。

 

ちょっと話が変わるが、その子は、特性を否定されて追い詰められたとき混乱する。

問答無用の叱責。お前の行動は明らかにおかしいという指摘。あなたはなってないという前提の指導。

これらは、すべて、人格の否定だと思える。

どうしてかと言えば、配慮や支援さえあればできるからだ。

現にその子は「new声の大きさ表」を見て声の使い分けが出来た。出来る能力があったが、指導法(声の大きさの示し方)が悪かっただけとしか言いようがない。朝の会でも発表してもらって高学年からも「上手!」と丸を貰えた。

その子に「よくなろうとする気持ち」があって、それを潰しているのは大人だろうと思う。「よくなりたくない子はいない」し、「よくなりたい子」に方法を提供しないでやっつけても仕方ない。

できることをできない状況にしてしまっているのは、その子ではないのだ。一般的な環境で正しい振る舞いを発揮できないから叱責されるとしたら、それはただの差別じゃないかって思う。

もちろん注意はいる。ただ、分かるようにやれって思う。「できてなさ」を知らしめても何にも理解さしられていないからできないままなのだ。その責任はどこにあるか。

正しく示せばやれる。そのポイントを見抜けるかどうか。

許される真っ当な理由は、周りの子にずるいと思われていじめに発展しないために見せしめにこちらも辛いけれど仕方なく叱っているという理由くらいだ。

ただ、そんなくどい理由で自分のしたい注意をするんだったら、いいから、黙っててほしい。

よくある光景なのだけど、給食で食べたいものだけを増やして食べたくないものを残す。その子は「それはお行儀が悪いから次からあなたは給食を増やしてはいけません!」ときつく言われていた。その子はなんらかの感覚刺激がある。歯磨きも好きじゃない。給食はいつも一品しか食べない。

そういう子に対して、好きなものを増やすことをお行儀がとか言ってんのは、一理はあるけれど、そういう考えもあることを説明するくらいが妥当で、結局捨てられていく給食を好きなものだけでも食べられて楽しめるならそれでいいんじゃないかなって。

「してはいけません!(キリッ)」てのには、その子のためではなく、その子を嫌な気持ちにさせたいだけなんじゃないか、って悪意を感じた。(これだと私の見方が偏ってるだけって言われそうだけども。)

教師が、その子が出来る手立てを思いつかないストレスをその子にぶつけては、その子の問題行動はよりドツボにハマる。その自爆のエネルギーが全部子どもの否定にいくんだからすごい。ちゃんと"させる"ことでは、子どもは育たないだろう、って考え。

振り返って気持ち良さを尋ねているならちょっと別だけどね。

 

「否定のない教育」でもなく「誉めちぎる教育」でもなく

ある交流級のクラスの子の名前を全員覚えた「ハピペン」です!

今日あたりから、ふと今の学校を楽しめそうな自分に気づいた。ホントちょっとしたことなのだけれど、昨日くらいから話しかけてもらえることが増えたと感じる。ちょっと根暗でキモイけど「あっ、話かけてもらえた」って感じる。

今日もそうだった。実際は、私云々ではなく、周りもつかの間のゆとりができて、私を含む他者に目が向くようになっただけってのもあるだろう。

その一因に、子どもの名前を覚え始めたっていうのがあると思う。先生の楽しさってのは、子どもがいなかったら皆無なわけで、その学校の子どもを知っていれば知っているほど、職場は楽しいってわけだ。そうすると、やっぱり楽しいんだよ、学校ってのはさ。

 

っていうところで、一つ記事の紹介。

私は、「自尊感情」や「自己肯定感」というキーワードについて考えるのが好きです。これらを、どうやって育むのか。私は何度か「否定しない」ってことを言っていますが、こちらでは「〇める」ことが良い、と紹介されています。 

h-navi.jp

 その通りだなあ、と思いました。

学童のときに大切にしていたのが、「信じる、誉める、認める、仕掛ける」ということでした。

そのうちの「認める」。私はこれを大切にしているのだな、と改めて気づかされました。

 

私が子どもによく使うフレーズに「まあそういう日もある」「そりゃ大変だったねぇ」「いろんな日があっていい」「気持ちは分かるよ」と使っています。

(私は、物語シリーズの、忍野メメが「元気いいねえ、なんかいいことでもあったの?」ってイメージで使っているつもり。)

よく大人がしてしまうのはこれらの言葉の後に、「でも……」と言って違う解釈を付け足ることがあると思うのですが、私はそれをしません。受け取って終わり。

言い返さない」ってことが「認める」ための鍵かもしれません。

 

「認める」ってのは、目の前にある現象や人間、出来事、時間軸を、「あり」って思えることだと思います。

失敗も、間違いも、辛さも、悲しみも、全部「あり」にすることで、自分がありのままでいることを受け入れられて、少し強くなれるのではないでしょうか。

 

今日、ビーチボールが頭の後ろに当たって、「痛ーい」と泣いた女の子がいた。私は、「んなわけあるか」って思った。百歩譲って、不意に対する感覚が過敏だとして本当に痛いと感じてたとしても、事が事だ。

私は笑いながら「まあそういう日もある」と言った。「本当に辛ければ休むがいい」とも。

そうして、今を「あり」にできたとき、踏み出せる一歩もあると思う。「大丈夫?辛かったね。苦しかったね。無理しないで。」なんてことも言えるかもしれない。でも、そしたら「なんで私ってこんな最悪で不幸なんだろう」って思えるのではないだろうか。だったら「そういう日もある」で「そういう日もあっていいんだ」って知った方がいい。

 

世の中の大人の価値観が「ノーミス」「完璧主義」に拠っているところがあると思うんだ。いいよ、失敗して。いいよ、間違って。いいよ、そのまんまの今で。苦しければ苦しめばいいし、楽しければ楽しめばいいだけなんだから。

苦しいのは嫌なことであっても、悪いことじゃないってこと。

そして、私は全員の人生を「あり」にしたいんだ。

「刺激」によって活動できないのは誰のせいか

今日も晴れてよかった「ハピペン」です。外遊びをしなくて、とお悩みの保護者の方もいるが……今のところ遊べてる毎日!!

 「感覚の違い」によってスムーズに活動できないのは、誰のせいだろうか?

「子どものせい」だろうか?

いや、それはないはず。「教師のせい」。

ただ、それも言い過ぎで、別に誰のせいでもなくて「でも、みんなで活動するにはどうする?」って問いがあればいいだけなように思う。

 

支援したのにできないと「ちゃんとやりなさい」が出てきてしまう教師もいるだろう。

「いや、ワン支援で当てられたら苦労しないわ!」って話だ。

 

そんな中、もはや、私には、発達障害の子にどうやって関わるかが染みついている可能性がある。(大胆に言ってしまおう!)

どうするとストレスなく指示が入るか。よくある文言を私バージョンにするとどんな風にするといいか、が分かっているのだと感じる。

 

その子どもへの入力が違っていれば「子どもの行動は変わる」。至極当然のことである。

それで、実際良い姿が見られるのだから。

 

まず、大切なのは注意しないことだと思う。(もちろんいくらでも例外はある。危険なときなど。)

幼保って素晴らしくて、子どもたちは大概存分に注意されまくってここまで来ている。

だから気づかせるだけでよい。一般的には注意でも指導は入る。しかし、そう簡単に行かない子がいる。そういう子には注意より選ばせる。そして、出来た時に喜んで強化した方が良い。

 

「刺激」について少し語ると、

・どんな「刺激」が好きか

・どんな「刺激」が嫌いか

の見立てが重要である。

 

「刺激」の構造は、たとえば「多少」「強弱」「長短」などがある。

 

SSTをやるにしても、たとえば「色」の刺激について考えることがある。見せる絵はカラーか白黒か。刺激が多いと落ち着かない子には「白黒」がよいと考えられる。特に視覚優位な場合、カラーでは刺激が強くなると考えられる。

 

大きい音で一番「快」の刺激が「怒鳴り声」や「叱責」であることをイメージしてほしい。

大きい声で注意すると笑う子がいたことがある。それに「笑うんじゃありません!」と注意すればさらなるご褒美になる。子どもはどんどんより怒られることを探してしでかすに違いない。

 

「多い刺激は嫌」だが、「強い刺激は好き」ということもある。

今日、算数の答え合わせを聞きながらプリントをやる姿を見る場面があった。いつも1、2分で出来る計算が一向に進まない。

これが発達障害なのだと思う。「ある刺激下では、多くの子が力を発揮できる場でも、発達障害の子は感覚の調整ができず、力を発揮できない」ということだ。

分からない教師は、自分の態度や環境に働きかけず何も変えないまま「早くやりなさい!なんでいつも出来ることができないの?やる気がないの?」とか言いかねない場面だ。

面白いのはいつも後回しにする文章題は先にやったところだ。

恐らく「ある刺激下では使いやすい脳が違う」ということだと思う。

ファスト&スローにあった話が関係すると思う。*1

 

発達障害の子を見る入り口や前提の一つに刺激があると思う。二次障害で心に抱えているものが少なく人を信頼できたり大切にできたりする子であれば、問題はほぼ「刺激」だけである。

要は「適切な支援さえすればよりよい行動を選べる子」ということだ。知的な面はさておき、黄道面については、大きく改善が可能なはずである。(5分後の給食が待たずに自殺しようとした子も今では中学2年生だ。)

 

考え方としては「刺激」を「値」としてみて見るといいと思う。たとえば問題行動があって、その問題行動で得られる「刺激の値」はなんなのか?

ざわつきや注目なら「よい行動をしたときに教師がそれ以上の刺激を与えるだけ」である。

そして「刺激の値」に合わせて指導を重ね、行動を一般化し、習慣化するだけである。

 

恐らくその「どんな刺激を求めているか」の的中率が高くなったということなのだと思う。

子どもが「なぜそれをするのか?」面白いのは「誰かを不幸にしたいから」ではなく「自分が幸せになりたいから」"ある行動"は起こるということである。

そうしたときの注意で、誰かに迷惑がかかっているとか、相手の気持ちを考えなさい、が虚無なことは言うまでもない。

 

あと、「好きな刺激」が「お母さんに褒められること」な子どもは実に指導が入りやすい。

 

保護者の方の力に感謝だと思いながら今日も働いたように思う。

*1:印刷をかすれさせて読みにくくすると、集中して読みスローが働くため誤答が減ったというような話