かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「相手の気持ちを考える」

学校の中では「相手の気持ちを考えてごらん」という指導が少なくない。

 

相手が嫌がることをしないためにされる注意だと思う。

 

そのねらいは、内省させて気づきを経て更正させるためでしょう。

 

けれど、実際「相手の気持ちを考える」っていうのはどの程度できることなのか?

そして、それは教えられものなのか?と考えた。

 

「子どもに言った言葉は必ず親に返ってくる」という題名の本があるように、高学年にもなると子どもがこれまで言われた言葉を大人に返してくるようになります。

(知らない言葉は使えないですよね)

 

ある子が

「オレの気持ちが分かるか?」と怒って言っています。

 

私は

「分かる部分もあれば分からない部分もある」と言います。

 

「いつもお母さんは、相手の気持ちを考えなさいって言うけどお前は分からないのか?」と攻めてきます。

 

私が思うのは、彼にとって相手の気持ちを考えることは、大変で辛かったことなのだろうな、と思いました。

 

なぜなら、分かり得ないものを考えさせられている可能性があるわけです。

 

そして、私もその子と同じ立場に立たされたな、と感じました。

その子が他の相手の気持ちを考えたとき、これまでの経験したパターンから答えを出したと思います。いわば「勘」です。

 

私も今のその子の気持ちを寸分違わず当てられるかは、経験則からくる「勘」でしかありません。

 

私は図星をつける方だと自分ではおもっているのですが、高学年になると少しでもちがうとズラしてきます。

 

もし、低学年の間に大人を信頼できる対象と感じられるように仕上がっていれば、「相手の気持ちを考えなさい」でも通ると思います。

 

しかし、人間社会が嫌なものになっていて、大人は信頼できないとなっているとき、人間らしさに寄った「相手の気持ちを考えなさい」という指導だけだと苦しめてしまう可能性があります。

 

どういうことかというと、自分の行動の判断をいつも自分の感覚(「相手がどう思うか」の「勘」)で行わなければならない、ということです。

 

たとえば、暴力をしたとき、この指導に「みはいけない」と謝るために「相手の気持ちを考える」が混ざると「暴力」と「相手の気持ち」が関連すると思います。

 

この指導が入る子もいれば、入らない子もいるということです。

 

特に衝動性が高ければ、結局反射的にしてしまいますし、自分の感覚の次にある「相手の立場に立つ」は抑止の役に立たないと考えられます。

 

そうした場合、自分の行動規範の基準は、「相手の気持ち」ではなく、「自分」にあった方がいいのです。

 

「子どもを被害者にも加害者にもしない」という本に、法律や事実を教えることで抑止の判断材料の一つになる旨が書かれています。

 

その子がもたなければいけないのは、無限大の数いる、そのときそのときの他者の気持ちの考え方ではなく、所属する人間社会の法律という原則かもしれないと思いました。

 

私たちも結局、これまでの経験から表情や状況をもとに「勘(ある程度の一般則)」で具体的・抽象的な言葉を見つけて相手の気持ちを推し量っているだけですよね。

 

そして、それをもとに、できることや少しでも当てはまりそうな対応をするのでしょう。

 

字通り受け取っている子は、言葉と行動が一対一対応なこともあります。

相手の気持ちをどんな具体的・抽象的な言葉に当てはめて、自分がどんな行動をするかを考えるのは、簡単に促していいことではないな、と思うのです。

 

また、こういう気持ちになるからよくない、ということは教えられると思います。

 

だから、また当たり前のことですが「相手の気持ちを考えなさい」は、発達段階と子どもの実態に応じて使った方がいい指導なんだなって話。