かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

トラブル時の大人の価値観の違い

忘れんぼマスターでやばい「ハピペン」です。職員室に用があって、職員室に戻るころには何をしに来たのかが分からなくなることがあります。っていうかありすぎて本当に困っています。

 

さて、価値観の優先順位は、人それぞれ。
本当にそうですよね。

 

「ダイヤモンドランキング」なんてやらせると、おそらくその時考えていることや、感じていること、それこそその時その時の気分でも下手すれば優先順位は変わる。

 

その価値観のそれぞれの違うっぷりを紹介したい。特に子ども同士のトラブルによる大人の価値観についてです。

 

ケース1「誰が悪いか」

もうこれは、本当に学校では追究しない方がいいです。

教師は、裁判官でも警察でも弁護士でもないですよね。

問えるのは「何が悪いか考えさせること」です。

「誰が悪いか」という大事にするならば、外部機関を頼りたいです。

この構えがあると、冷静に、大人たちで力を合わせて子どもを育てることができません。

子どもたちに必要なことはいちいち誰が悪いかをはっきりさせて、徹底的に悪と見なしたり、悪い存在だからと言って分断することではないと思います。

しかし、「誰が悪いか」を考える大人がいる場では、子どもたちはトラブルの度に分断されていきます。

ある意味では、大人同士が価値観によっていかに分断されないかが、子どもも分断されないかにつながります。

教師が客観性をもって、一般的な立場でものを言っていると捉えてくれている場合は大丈夫ですが、価値観の多様化から教師は一個人として見られることが多いと思います。あの先生はこう、この先生はああ、な時代なのです。

大人みんなで子どもが育つ環境をつくっているという意識がないと、良し悪しを付けて、分断して終わりです。

 

ケース2「うちの子だけが悪いのか」

これは、ケース1「誰が悪いのか」の変形です。

子どもが否定されることが自分の否定だと感じる大人の場合はより「誰が悪いのか」が強まります。

「誰が悪いのか」に被害的な意識が強まり、攻撃を防ぐために「うちの子だけが悪いのか」と変形します。

そして、「うちの子は悪くない」という主張をはじめます。

私たちは、誰が悪いか、どの程度悪いかはさておき、子どもたちの関係が分断しないこと、安心できるものにするために動く必要があります。

誰がどの程度悪いから責任がある・ないといった話ではないのです。

事実でよくないと思うところは謝る・謝り合う。

ケガや場合によっては子どもだけで謝ったのでは、済まないこともあります。

そこでは、すかさず、大人が出てくるべきです。

大人が言って・行って話をするべきです。

自分が否定されるのが怖い大人は、相手先への電話も躊躇します。

けれど、相手の親からすれば一番怖いのは、たとえばケガをさせてしまったとしても、詫びる気持ちがないのかもしれないということです。

そういう親が子どもを育てていることに恐怖や怒りを感じるのです。

明日からも同じ場で過ごすというのに。

また、同じ目に合ったら嫌だということを、相手の立場に立てない、子ども観に恐怖を抱くのです。

実際は「うちの子だけが悪いのか」は、さておき、「悪いこと」をした事実があるのなら、それは、「誰が悪いか」は置いておいて、「どの程度非があるのか」は置いておいて、謝るべきことを謝ることが正しいと思います。

 

ケース3「先にやった方が悪い」

ケース2「うちの子だけが悪いのか」を主張するためにセットで使われることの多い価値観です。

「最終的に自分の子どもがケガをさせてしまった」としても「きっかけを作ったのは誰か?」が問いとなり、「起こした悪さを軽減しようとする大人」がいます。

しかし、どんどんさかのぼってどちらが悪いかを考えることは不毛です。

その時間軸の裁きは主観でしかないのです。

その人はそう思っても、あるストーリーはそのもっと前から続いていて、ある日いよいよ爆発しただけかもしれないのです。

そのため、どこまでさかのぼっていいのかは、誰にも分かりませんし、決められるものでもありません。場合によって立場が弱くならざるを得ない立場の人じゃない方の人が、主導権を握って責めることでしょう。

言いすぎてしまったら、結局は宇宙が生まれたのが悪いってなって話になります。前に曜日をつくったやつを許さないと言って怒っていた子どもがいたけれど、そういうレベルで「先にやった方が悪い」は、不毛な言い分だと私は思っています。

 

ケース4「やられたらやり返せ」

子どもが好きすぎて心配だからこそ「やられたらやり返せ」 、自分の子さえ無事ならいいという考えの大人もいます。

気持ちは分からなくないのですが、これも子ども同士の関係を分断することにつながります。

負けない存在になったとして、その子は集団の中でどんな存在になっていくのでしょうか。

私は、大人が解決できない問題はないと思っています。

当然、ある大人では解決できないこと、というのはあると思いますが、複数の大人に言えば、解決を必ず導き出せると思っています。

なので、学校では「やり返さないで、先生に言う」などと指導しますが、それはなかなか入りにくいものです。

特に、そういった場合、相手の子も意地悪で、しつこさだったり、ちょっかいが多かったりということもあります。

本当にね、大人同士がつながって話せれば乗り越えられることもあるのでしょうが、なかなか難しい。

 

ケース5「悪いやつは悪い」

これは「うちの子だけが悪いのか」と「先にやった方が」などの価値観の変形で「うちの子は悪くない」から「悪いやつは悪い」へと移り、相手は悪いやつなのだから痛い目に合って当然という価値観です。

大人になってやれば、過剰防衛と枠組みができるのでしょうが、日常生活を送っている人は、また子ども同士の場合は、理屈を並べたもの勝ちだと勘違いしている大人がいるっちゃいます。

その子どもも悪い奴はこらしめていいという理屈でいることがあります。

悪い奴は叩いていい。そうじゃないよ、というと「なんで」と返って来る子も少なくありません。親が叩いて指導している場合は尚更そうです。

何があっても暴力はいけないんだよ、という当然の言葉かけが欠かせません。

「誰も悪くない」という視点で、失敗は起こりうる。

振り返って、謝って、許せるか。

ここに人間の成長があると思います。何日かけてもいいし、ずっと許さなくてもいいと思います。

それでも、謝りたいかが、大事だし、どうしても壊れてしまった関係は壊れてしまうしかないのかもしれません。

そうしたときこそ、大人の出番で、大人だけは謝ったり許したりしてつながっておくことです。

親同士がつながっていたら、子どもはいずれ許すと思います。

この世にいる人々は誰もがかけがえがないとして、そうしたら、誰とだってつながりがあっていいのです。

つながりがない方がよい人間なんていないって前提で大人は子どもを見つめていきたいです。

 

注意の視点

私は、大人になってやったら「社会的制裁」を受けることについては、きつく指導しています。

大人にはその見立てが必要だと思います。いつでもそれを引っ張り出してきて、きつく注意するということではないですが、やっぱり社会がゆるさないことはなしです。

そう考えると、先にやったとかも取り合えず置いておいて、してしまったことについて振り返ることを優先できると思います。

ことの大きさ、重さ、先か後か、どっちが悪いか、どっちが悪くないかではなく、お互いがお互いと自分を見つめ、「何が悪かったか」を考えればいいのです。

ケガをさせてしまっていたら、大人が出るしかありません。

ケガをしてたら、子ども同士だけで謝って済むかっていうのはかなり微妙です。

 

ケースに共通するもの

これらのケースに共通するのは、「自分の子を守りたい」ということです。

しかし、大きく問わなければならないのは、「それで本当に自分の子を守れているのか」ということです。

そして「自分の子の何を守れているのか」ということです。

そこを踏まえながら、話し合っていくしかないのですが、冷静に見るとどのケースもそれぞれのケースから見ると、都合のいいように解釈したいだけとしか言いようがないところがあります。

 

片や、やり返しているのに「先にやった方が」と言ってみたり、

片や、やり返さずに「やられたらやり返せ」と言ってみたり、なのです。

問題の本質はそこではないということが、浮かび上がってこないでしょうか。

 

子どもに必要なことは分断ではないと思うのです。

衝突の先にしか、強い結びつきはありません。

人間は結びつき直せるんだっていう感覚と、結びつきを再構築できる力を小学校ではつけさせたいです。

「いじめ」はまた別の話ですが。 

社会に合った価値観で、子どもを冷静に見つめ、子どもがつながって、お互いを知って理解してあげて、未来のために結びつきをサポートする大人たちで在りたい。

そう思うためのエントリーでした。