かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

【支援級と交流級の連携】ベストはないが追うことはやめない。

無意識の自尊感情って……結果、形而上学的なブラックボックスいきかよ……な「ハピペン」です。

 

それはさておき、本分(特別支援)の話をしよう。

 

結局「【支援級】と【交流級】の連携について」理想を考えて挙げてみる。

 

理想的な連携

  1. 目標の共有
  2. 全員で全員を見る(いつでも教室に来てくださいって受け入れ態勢)
  3. 事前にこれをやるということを教えてくれること(もしくは、教室に行ったら何をするのか分かるくらい板書に手がかりがあること)

おそらく、どこだってこれが必要なことは、分かっている。しかし、各々の支援観に人生観や人間観、教育観が大きく影響しており、ぶつかる。特別支援は教育の原点と言われるように、ここのポリシーはなかなか固く、寄合にくい(自分も含めてね)。

だから、どっちから言いに行くか、聞きに行くかってところに、システムがいるし、ファシリテートもいるし、誰が舵取りなのか、決裁者なのかというようなものが分かりやすいといい。

 

システムは、週に1度、10分程度、現目標、来週やること、今週の様子をシェアするのでどうだろう(これ、試験的にやってみたいな)。

 

管理職が支援への理解が乏しいとこの辺りは詰むと思っている。あと支援コーディネーターというようなポジションの人が学校に大きく作用しているといいが、そうでない場合も詰み気味。

交流と支援が直接交渉するんでもいいけれど、間を入れた方が良い。表立って要求が出てくるころには、お互い相当耐え抜いた後なこともあるからだ。

じゃあ、定期的に話し合う場を設ければいいのにと思うかもしれない。しかし、それも支援級の舵取り次第で、検討違いなことを話す時間になって終わってしまうこともある。検討違いなことってのは、いかに忙しいかとか、いかに頑張っているかとか、できない理由を事細かに説明する時間などだ。

これらは

  • そもそもの目標が定かではないこと
  • 子どもの実態から発信する目標にそもそも眼中がないこと
  • 忙しそうに見えること

という独りよがりな理由たちによってうまくいかない。

 

面白いのは、「支援に対して理解のある人」や「聴く耳を持っている人」には、自然と話せていて、向こうも話しかけてくれて、連携が気楽にできるケースもある。

 

もう一つの裏前提として、当たり前に「交流のクラスが回っている・安定している」という条件もある。

支援へ意見が挙がってくる場合、そもそもの交流学級の運営に懸念事項がある場合がある。

 

文科省の「特別支援教育の在り方に関する特別委員会」でも、「知的障害のある子の交流の価値」「荒れているクラスにもインクルーシブする価値」などが話合われていた。

それもケースバイケースだと思う。

とにかく、子ども発信であるといいなと思う。

 

別に忍耐力を付けるのではないから、交流級に「来させる」「いさせる」、交流級で「やらせる」といったことに価値はないと思っている。

その子がそこにいたいか。そして、その子がそこにいることによる双方への価値。それがあるから交流をしている。場にせよ、内容にせよ、そこにあると思われる価値を優先して、快く交流の子を受け入れてくれるといい。

交流の子とはハードルの違いや、交流でやったりやらなかったりを、ずるいとか、楽をしているとか、そういう見え方は100%間違いだと思う。

そう思われないために「嫌だと思う交流も苦しんでやらなければならないと思う」という謎の考えを言われることがあるが、だったらそういう辛いことでも安心してやれる学級経営をしておいてくれと思ってしまう。

なんとなくきれいに華麗に問題点がすり替わって、子どものせいにされる。

「今、本当に困っているのは誰なんですか?」って問いを思い切り投げつけたい。

「知る」が生まれて、「育ち合い」が生まれてくるには、どんな環境が必要かを考えたい。

将来的に関わりうるのは、同じクラスにいる彼らなのだ。

結びつきが強まれば、大人の心配が減る。

だからこそ、まず大人が「その子のために」を考えられるようにしたい。

自分の授業の体裁を護ってできない子とできる子をつくるために授業を組み立てるのではないだろうから。

 

こんな交流級だったらいいのに

交流級では「みんな」を大切にする。できる・できないより、クラスの安心の優先順位が高い。もちろん時と場合による。しかし、そこが揺るがない。だから、教師がある子のできなさを全体の前でなじることをしない。そうできないクラスのチームワークに口を出すことはあるかもしれない。だが、決して個人のせいにはしないのだ。そして、失敗に寛容で、全員が成長中の大チャンスの中にいるのだということをことあるごとに伝えている。

 

関係ができたその先に「その子のためになっているか」というフレームが生まれる。その子が交流で活動するためのサポートやフォローが本当にその子を大切にしていることになっているか子どもたち同士で判断できるクラス。本当はその子が「できること」には手を出さない方が優しい場合がある。「できることはやってあげないで」という言葉が生まれても面白い。それも、時と場合によっては、手伝う。いつもできることも一人ではきつい日もあるのだ。

交流がやることを支援の担任に伝えてくれると嬉しいなあ。伺わせていただくってフレームではそもそも交流しにくい環境なのだと思う。

ただ、これは難しいのかもしれない。なんで、こちらが別学級の子まで見なきゃいけないんだ?というのが筋なのかもしれない。

でも、本当は、その子が入ってくるメリットはあるはずだ。それでしか育たないもの。

そもそも的にいることに意味がある。

  • フィクションではない社会性や人間関係の体験
  • 学級の目的が変わる。前提として、できにくい子がいるのだから、できるが目標にはならない。
  • 「その子のために」思考。

一緒に暮らすとはそういうことだ。学校は、同じことをやっているものの、まるで共に過ごしていないような感じがするところもある。そんなに関わっていないからだ。

未来の希望が30人以上集まっているのに、日々のコミュニケーションが少ないなんて、なんてもったいないのだろうか。

 

そして、請求は重要である。交流級に来ているけれど、見切れないとき。それは、実力不足とかではなく、ピュアに増しているのだから、支援級の大人が付き添うことなどを要求してくれていい。

むしろそうした懸念を溜めておかないでほしい。

 

全員で全員を見る。そういう意識が校長主導のもと蔓延していてほしい。

担任している子に無責任になるって意味ではなくて、学校の子ども全員に責任を感じて接しようってことなだけなんだけどなあ。

 

いることに敏感にならないで、いないことに敏感になってくれるクラスだったら本当にいいのに。

 

「その子のために」。大人も子どももそう思えるチームづくりを。

 

授業が子どもたちのためにではなく、先生のためになっていやしないか。

教師が子どもたちをコントロールしきれない、と思えば確実につまずく。

重要なのは、子どもたち同士の力を発揮し合って支えあえるチームづくり。それは職員室も一緒。

もう一つヒントは「その子の力を活かせているか」を問うこと。

「それじゃ社会で通用しない」って話じゃなくて「その子がその子のもつ力を発揮できているか」そういう目でクラスを見たら違わないか!!と。