かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

どうせ無理だろう、出来ないだろう、子どもだから、あの子だからって。「否定」する観点で子どもを見ることは、子どもを自己表現から遠ざける

梅雨はどこに行ったのか……まあ、それにしても、今日は月がきれいだ、と思っている「ハピペン」です。

行きに読んでいる本『アドラー博士が教える「話を聞ける子」が育つ魔法のひと言』かを読んで書きたくなったことを書く。

 

結局、子どもにも考えを伝えるチャンスを与えるってことが大切なんだな、って思う。そりゃ社会的な正解はすでにあるよ。そんなこと言ったら、どいつもこいつもの考えも既出だ。だけど、意見を言わせてもらって、生きているだろう。

子どもも同じこと。大人たちの環境にとって当たり前だからって、分からないことを悪く言うのはなしだ。

道理に適わないことは、そりゃ言うかもしれない。けど、1キャッチボールで、問題を解決するわけじゃないから、なんでも対話すればいい。

今日、納得できなきゃ、明日もすればいい。そうやって、子どもは自己表現の芽を伸ばしていくのだと思う。

 

昨日、読んだ項目は

  1. 自分から外で遊びたくなる誘導法
  2. 子どもの困った行動には「Iメッセージ」が効果的
    (よく使う)
  3. 「相手の気持ちを考えろ」と諭すより、心に響く伝え方
  4. わからない子には「わかるレベル」の話に言い換える
    (よく使う)

自分から外で遊びたくなる誘導法

これは、中でもちょっと無茶じゃないかなって気もしたのだけれども、そう思ったものこそ使えるのかもしれない。機会があったら試してみよう。

たとえば、「野球中継」を見ている子に、「いつまでもテレビを見てるんじゃないの!」っていう感じじゃなくて、「野球が好きならキャッチボールやろうか?」というような感じ。

子どもってそんなもんだろうか。「いや、そういうわけじゃないんだよ」ってのが子どもな気もするが……。

ここからは、ちょっと横道に逸れる

横道

書いてあったことに対して思ったことを書くだけのコーナー。

今も昔も体を動かすのが好きなようです。
P113

けれど、遊ぶ友達がいないのだそう。

バタンキューと寝てしまうような体験は一人ではできない
P113

サマーキャンプの話で、自由にさせてゲームも好きなだけやれってしたとしても、大体3日くらいで、外に出てトンボを追いかけはじめる、みたいなことを聞いたことがあります。

何人かいて、誰かが外で楽しそうにしている。そういうモデルって大切なのかもしれないですね。天照作戦で。そう思うと「先生の楽しそうさ」も重要で、アンケートでこのクラスでよかった理由に「授業中に先生が楽しそう」って書いている子がいた。

あと、テレビの中で演じられている存在、野球選手やサッカー選手に自分を投影しているのではないか、ということが書かれている。

この視点も面白い。

今の子が好きなものって思うと、低学年だとマリオ、ドラえもんクレヨンしんちゃんなどがある。彼らは、これに何かしらを投影している可能性がある。それは、あり得るかもしれないと思った。

マリオは、動きが面白いんだろうか。

ドラえもんは、ドラえもんのように頼りにされたいとか、のび太みたいに助けてくれる存在がほしいとかがあるかも。

クレヨンしんちゃんだと、奔放なのに大切にされて、結局、許容される様なんか羨ましいんじゃないだろうか。

他にもYoutuberがある。何を投影しているのだろう?と考えると。「ありのまま」なんてどうだろう、って思った。アナ雪でも流行った「ありのまま」だ。

Youtuberの人は、「自分らしくありのまま」のような価値観を大切にしている節がある。

子どもたちはそれに憧れるのかあ、とちょっと虚しくなる。

それは、反対に「ありのまま」いられないってことなのかもしれない。たとえ、ありのままでいたとしても、それをあんなにたくさんの人に見てもらったり、リアクションをもらったりできないのかもしれない。友達に「今日遊べる?」と聞かなければならない時代になったのだ。

ただ、Youtuberの人の言う「ありのまま」と、子どもたちの日常をただ切り取る「ありのまま」は違うということは、教えなければならないと感じた。

「ありのまま」のコード違いがあるはずである。

Youtuberの人は、「ありのまま」という意味で、ただ寝起きして食事してなんて動画を挙げているわけではない。(中にはいるかもしれないが)。

「ありのまま」って、何の意図もなくいるってことではないことは注意したい。

子どもの困った行動には「Iメッセージ」が効果的

これは、もう鉄板だと思います。アサーション的でもありますね。

「あなたはそう思ったんだね。でも、私はそう思わないなあ。」というようなニュアンスです。

これも「トーン」が大事です。「Iメッセージを使えばよし」って感じで、結構きつく言っている人がいます。それは、もはや押し付けていてIがYOU化していると思うんですよね。

どんなことでも、思うのはありです。その表出ミスは、公として注意する必要がありますが、ただ厳しく指摘してしまうと、

「言ってはいけません」と叱ると、思ったことを言うこと自体を禁止されたと、子どもは考えます。
P116

んな、極端な、と思われるかもしれませんが、0ではないと思います。

そうじゃないと分かっていても、心のどこかでそういうセーブがかかりはじめる部分はあると思うのです。それは、それで言っていいかの迷いっているのかもしれませんが。

大切な考え方として「一旦受け入れる」ってのが肝です。

子どもなりに理由がありもするので、ここでも、こちらが、よく聞くことが大切です。

そもそも、ただお母さんに相手をしてもらいたがっている場合ってのも考えられる。

「相手の気持ちを考えろ」と諭すより、心に響く伝え方

「どんなふうに言ったら相手はうれしがるかなあ」
P124

と言ってみる。

子どもが「死ね」などと悪い言葉を吐いた際に、「相手の気持ちを考えろ」と叱っても、子どもに残るのは、反省ではなく、叱られたという事実だけ。

これは、以前にも言った、子どもは気持ちのいいことしかしないというのが働いて、何かしら理由があってそれを行っているはずです。

それを、ダメだ、と言っても。じゃあ、オレの気持ちはどうなるんだ、となるわけです。

そこで、相手が喜ぶ言い方を考えようと提案をする。

親や教師がすべきことは、子ども同士が仲良く、楽しく過ごすためにはどういうコミュニケーションをするのがいいのかと考えることです。
それによって、子どもを取り巻く環境が平和になれば、いじめや不登校の問題も、なくなるにちがいありません。
P125 

良い言葉だなあ、と思います。環境次第ってのがいいです。その子が悪いってならない考え方が本当によい。

ある教師は、子ども同士の関係の悪さに悩んだとき、お互いの「いいところ探し」をして上手に切り抜けたといいます。
P125

これも、いいですよね。認知療法のような感じがします。

相手に対する認識を変えれば、そのための観点を変えてしまえば、そういう目で相手を見られる可能性が増えます。

良いところを探すということは、その人を良いという前提で見ることになるわけですから、誰かを嫌いになる準備をはじめていることに気づいたときは、良いところを見つけた方がいいですね。

わからない子には「わかるレベル」の話に言い換える 

これは、めちゃそのままです。

たとえば、幼児や1年生に「反省しなさい!」って叱って、「はい!」と返事をしたとしても、たぶん分かっていないですよね。

その辺りを、わかる言葉に変えて伝えるということです。

そうできなければ、具体的に教えていく必要がある。

たとえば「仲良くする」っていうことを教えたければ、そのときそのときに「こういうのが仲が良いっていうんだよ」と教える。そうすることで、その子なりの言葉のコード(語彙)を豊かにしていく。そのためには、フィードバックや振り返り、「今、どんな気持ち?」と聞くことなどが有効だと思っています。

親の豊かな言葉の表現力とともに、子どもの聞く力は育っていくのです。
P130

とあります。いいですねえ。

他にこの項に

嘘もなんでもダメとしてしまうと「空想の世界で遊ぶこと」ができなくなってしまう、ということも書かれています。

 

ここからは、

【第3章:子どもの素直な心をひらく「親子関係」のつくり方】

  1. 「いい関係」が「いい聞き方」をつくる
  2. 「タテの関係」より「ヨコの関係」で子どものやる気は育つ
    (今後、必要になりそうな視点)

「いい関係」が「いい聞き方」をつくる

この考えって当たり前だけれども、面白いなあ、と思っていて「話を聞かない」ということが起こっているときに、見直すべきは「伝え方ではない可能性がある」ってことだなあ、と。

クラスの子にいくら「ちゃんと聞く!」って叫んでも、クラス内の子ども同士で関係がなかったら、聞けないってことですよね。

反対に、「関係が深い人たちへの話」と「関係が薄い人たちへの話」って、伝え方が変わってくるっていう話にもなる。

ここで、いい関係をつくるために、大人が聞けないときは、聞けない理由を素直に伝えたらいい、といったことが書かれています。

「ごめんね。お母さん、ちょっと困ったことがあって、今はそれを解決しなければいけないの。あなたの話は、少しあとにしてくれないかしら」
と正直に言ったほうがいいと思います。
P136

すごいお母さんですね。

この「メタ力」があるかっていうのが、課題なように思います。

自分を分からないがために、他人を追いやってしまうことってあると思うんですね。

「タテの関係」より「ヨコの関係」で子どものやる気は育つ

端的に言うと、「やってあげる」は、タテの関係です。

アドラーで言うところの「課題の分離」を土足でズカズカと越えたときに「指導」は起こると考えられます。

「課題の分離」として、その子に起こっていることは、その子の課題としていたら、「指導」はせず、放っておくと思うのです。

しかし、学校はそうはいかない。なので、どう介入するかが鍵になってきます。そうしたときは、課題を共有すればいいだけなのです。「貢献感」によって。

「貢献感」が先行した場合、ただその子の課題に土足で入るってことは起こりません。そうした場合、「聞く」ということが起こるはずです。

親自身が子どもに「聞く」必要があるのです。何か手助けしてあげたいときは、子どもに、「してほしいかい?」と聞いてみてください。
P139

すると、助けられたいかどうかは、その子の課題になります。その子が頼めれば、土足感なく介入できます。この「聞く」は、私もよく使っています。ヘルプスキルを育てるということが大切なので、自分で危機を感知してほしいという思いもあってですが。

アドラー心理学では、たとえ相手が子どもであっても、互いに尊敬し、信頼するという「横の関係」を重視します。
P139

あくまで、重視であって、「縦の関係」を一切なくせってことではないので、注意したいです。

お互いに対等な「横の関係」ができてこそ、お母さんの言葉が心に響き、自分から「やろう」「次はこうしよう」とやる気になれるのです。
(中略)
子どもは、お母さんの意見をよく聞き、それを受けて、自分がどうしてほしいのかを考えます。
自分の頭で考え、はっきり自分の意思を表明できるように成長していけるのです。
P140

学級経営において「縦糸と横糸」というのはよく言われること。

子どもたちが安心して横糸を張るためにも、縦糸が重要になる(教師と子どもの上下関係、しつけ、ルールなど)。

その先に、自己表現できる子どもを育てるための「横の関係」がある。それを子ども同士の中にもつくっていくことをどこでも誰にでも実現していきたい。

まず、教師とのかかわりで、自分の考えを気兼ねなく示させる。その心地よさのモデルがあって、一般化できるはずだ、と考える。だとすれば、やっぱり、「対話のない否定」は苦しいだろうな、と思う。

「正しい行い方」と「ルール」をきちんと「ネタバレ」すること

プール清掃など、イレギュラーがある今日この頃の「ハピペン」です。仕方ないそういうサイクルもある。このイレギュラーのときのタスクをどうするかが、分からない。体調が思いっきり左右されちゃうなあ……。

 

行きに読んでいる本から。『アドラー博士が教える「話を聞ける子」が育つ魔法のひと言』より。

同じ過ちを繰り返さないこと

この姿勢大切ですね。先日の学びの会での話でも、単純化するとこのことだったなあと思う。

難しいのは、自分がどんな失敗をしていて、どんな改善を選んでいるかを俯瞰して記憶できているかだ。しかし、記憶には限界があるため、記録に頼ることになる。

記録を頼りに記憶も呼び覚ませるようにすること。

その工夫が、昨今は、ライフハックになっていたわけだ、と今更になって気づく。

 

さて、同じ過ちを繰り返さないこと。「失敗学」という言葉もあるくらいで、失敗ってホントに大事だ。『最新図解 失敗学』(こんなの超気になるなあ。)

けれども、みんな「武士」状態で、「恥」ぬように生きている。潔さ万歳状態。

転んだら、笑われる。(いや、そこは大丈夫だろって思う)

面白い失敗もある、失敗の笑いってある。だけど、自分で自分を疎んじたくなるほどの笑いはよくない。フォロー、大船に乗った気持ち。いろいろな、支えで、失敗を乗り越えられるとよい。

 

同じ過ちを繰り返さないための、単純な仕組みは、前回の「どうするか」に似ていて、「次からどうすればいいか」を考えることに尽きる。

そして、それを次の機会に、再現できるか、それを見守って気づかせて自分でできるようにしていくのが、大人の役割だと思う。

いかに失敗が悪いかを注意するのではなくて、次に失敗しないにはどうするかを指導する。至極当たり前のことが出来ていないことが多い。

出来ていたとしても、チャンスは一回なことも多い。これは本当に罪だなあって思う。

これも「当たり前のことだから」というのが働いていると思うのだけれど、そうすると、本当に子どもは生き辛いだろうなって思う。

「何回失敗したら気が済むの!?」(失敗させているのは誰かという話だ。指導ミスだろって……。)

 

反省させても効果はない!?

反省させると犯罪者になります (新潮新書)』こんな過激な本もある。

この本は、借りてパラパラ見させてもらったのだけれど、反省していかに相手に対して悪かったかを考えても、罪を犯してしまった側の罪を犯すに至った心の状態はケアされず、最終的に犯罪へ向かってしまう、または再犯してしまうといった話だった。

まず、自分の心と向き合わせること。その辛い心模様に向き合う大人が必要だといったことが書かれていた(すみません。確か。)

そして、この感覚はその通りだと思う。

よく反省させられるあの子

私はT2で、交流級に入ることが多いのだが、T2で入ると、俯瞰して教室を見れていることが多い。そうすると、一連の流れで、よく注意される子がどうして、注意されるようなことを起こすのかが、よく分かる。不可抗力で、刺激に踊らされて逸脱行動を起こしていることが多い。

  • 先にちょっかいを出されて、やり返すか。
  • 楽しそうだと思って参加してやりすぎるか。
  • 参加したものの、引き際を間違えるか。
  • 参加したものの、加減が違って嫌がられるか。

そうした子は、一人では問題を起こせないことに注意したい。誰かトリガーがいて、起こっている。まあ、人間関係の課題なんでしょって言われるとそこまでだが、全体を育てる目が必要ってことが言いたい。

最終的には「僕じゃなーーいーーー」って号泣しているシーンも見たことがある。

そうした見方の感覚については、これでもいいし、

通常学級のユニバーサルデザイン プランZero (授業のUD Books)

通常学級のユニバーサルデザイン プランZero (授業のUD Books)

 

これでもいいし、

 こういうのでもいい。

困った児童への言葉かけと指導

困った児童への言葉かけと指導

 

 話が少し逸れた。

 

反省じゃなくて「ネタバレ」へ

反省させ、謝らせてだと、次の日、また「いつも言ってるでしょ!」「何度言ったら分かるの!」と効果を挙げられないことがある。

この正体は単純に「正解を知らない」ってことだ。

子どもはとりあえず、あやまれば、お母さんが黙ってくれると思って、「ごめんさなさい」を繰り返しています。
(中略)
「ごめんなさい」と反省しているように見えますが、単なる習慣になってしまっています。それは、この場合もまた、子どもが過ちを正すためのいい方法を知らないからです。
P97

そして、その先、私たちは「もう教えました!」とか「前に言ったよね?だからいつもちゃんと聞いてなさいって言ってるでしょ!」とかにも気を付けたいです。

私たちの教え方、その入力は、その子にとってそんなに本当に「パーフェクトだったのか?」ってことです。

どこまでもどこまでも、その子の人生のために指導してあげたらいじゃないか、と思うのです。

私たちはどこか、「自分でダメさに気づいて、私たちが思う正解に辿り着くこと」を学びとしているところがあるように思うのです。ネタバレなしで、正しい振る舞いを導きだすことが素晴らしいみたいな。

でも、そしたら、もう教科書いらないなって。もはや「教える」っていらないなって思います。

教える。それもその子に合った教え方で教える。そこにある関係の中で最善と思われるベストの入力で教える。それで「(今のところのその環境での)正解を知る→次の機会に気づく→行動を選択し、自分を訂正できる」ことが学びなのではないか、と思います。

そういう意味では、学級の中で友達の良さを見つけまくって、その環境における正解を共有しまくった方がいいですね。悪いところさがしばかり起こりますから。

ケリー・マクゴニカルは、『スタンフォードの心理学講義 人生がうまくいくシンプルなルール』の中で、人の心は、一つの否定をケアするのに20の賞賛を要するといったことを言っています。

いつも名指しで注意されるあの子は、概算で帳尻が合ってなくないか、検討してあげてほしいです。

声のトーンに気を付けて

さらに、先へと進もう。実際、ここまで分かっている人も少なくはない。

今度は、その「ネタバレ」をどう伝えるかが、鍵だ。

昨日、言ったように「笑顔で言う」ことが望ましい。

注意したくなるような状況に直面したとき、やっぱりイライラはすることがある。

そのとき、その怒りをあらわにしたトーンで正しい振る舞いを言ってしまうと、効果は半減する。半減より減るかもしれない。

「イスに座ります!!」これを怒鳴って言うと、めちゃシュール。哲学的すら感じる。

怒って伝えている時点で、自分の気持ちを解消しようという動機が感じられる。

アドラーは怒りは道具だと言っている。人を従わせるために、あえて意識的に「怒る」ということを使っているということだ。

「人を従わせるために怒る」という回路はどうして出来てしまうのか、仕方がないことなように思うが、怒るべきことと、怒らずに子どもを導いた方がいいことを分けた方がいいと思っている。

子どもは、笑顔で優しく言っても聞くというのが、自分が実感していることだ。

(もちろんハイテンションで盛り上がってざわついている中で優しく言っても聞こえないだろう。聞こえなければ入力されたと言えない。どう入力するかが鍵だ。授業中にカッターを出したり、3Hにランドセルが机の上に乗っている子が4人いたり、全員が授業中に自由に話していたり、散らかり放題だったりするクラスで、板書4つで静かにきちんと座らせたのを見たことがある。入力の成功。脅しは一切ない。多少時間はかかったが、そこに「子どものため」という思いやりを私は見た。)

 

ルールは明示し、同意を得る

前に見ていた子でことあるごとに「先に言えよ!」と激高している子がいた。

修正液が手について「それ手につくと落ちにくいよ」と伝えたらズドーン!

どこまで、先に言っておけばいいのか、もはやエンターテイメント化していたくらいだ。(それを楽しめるようになったら、一人前かもしれない。)

ただ、なぜ、それで激高するのかと言えば、暗黙知が分かりにくいからだ。

子どもたちの中には暗黙知が分からない子はいくらでもいるだろう。

たとえば、男性の小便器が入口から入って手前から3つ並んでいて、一番手前を使っている人がいたら、次の人は、一番奥を使うべきだ、とか。(一つ離れられるところが空いているのに、隣に来るのは、「ん?」ってなるのが一般的なのだ。)

この暗黙知が分からずに後出しをされるってことは、世界は自分の知らないルールで動いていて、急に裁かれるという感覚に近いだろう。

ときには、それで怒られたり、嫌な目に合ったりするわけだ。激高して当然である。

「なんで先に言ってくれなかったんだ!」という絶望感はよく分かる。

それほど、この世界に対して不安だったってことだ。それでもこの子は生きる意欲のある子だった。楽しみたいタイプだった。だからこそ、いつどこでルールが来るか不安で仕方なかったのだ。幸せでいたかったから。(ちなみに今では、すっかり交流で友だち付き合いをして毎日をエンジョイしている。)

(長くなったが)なので、ルールは明示すると良い。

私は、暴力や友達に迷惑のかかるような逸脱行動に「タイムアウト」を使っていたのだが、それを個々に伝えていて、全体で共有してなかったことに、この本を読んでいて思い出して、早速、ルールを明示した。そして、子どもたちの同意も得た。

そのルールが破られたときには、感情的に何かを起こすのではなく、ただルールに則って、冷静にルールが適用されるだけだ。

今のところ、それで問題行動が消去できなかったことはない。学校で集団に適応するためには必要な視点だと思う。ここには、プライベートとパブリックのメリハリを持たせるという視点もある。「ここ学校だぜ?」を発動する、わがままだけをする場所ではないよ、と。

大切なポイントは、ルールを作ったら、断固として守ることである。

ルールを示してから、最低でも一か月程度は、例外を認めずに適用する必要がある。

だから、そんなに大変なルールにしない方が良い。活動が中断されない程度のペナルティーのがよいだろう。

私の場合は「教室の構造化されたスペースに10秒入る」だ。

 

あと

やる気にさせるには、「まだ~」より「もう~」を使う。
P108

というちょっとした言葉遣いも書かれていた。

「まだ終わらないの?」より「もう終わった?」の方が否定でないということだった。

 

 

「過剰介入した人生」って、誰の人生なんだろう?

ちょっとだけ、生活が崩れて眠い「ハピペン」です。寝るのが遅いのがちょっと問題。

通勤中に読んでいる本について記録する。
(大事なところが多くてたくさん書いてしまいました。)

 

「過剰介入」の境界線ってどの辺りにあるだろう?

介入するほど、その子の人生がよくなるとしたら介入を増やした方がいいのだろうか。

ただ、その介入しまくった人生って、誰の人生なのだろうか。その子が納得さえしていれば、介入し放題でいいんだろうか。

"自分の"人生を自分で生きるためのバランスってあるんだろうか。

 行きに読んでいる本から。『アドラー博士が教える「話を聞ける子」が育つ魔法のひと言

妨げるだけでいい

「危ない!走っちゃダメ!」
 ↓
(言葉でコントロールせずに)手を握って、さっとその場を離れる
P64

小さい子には、言葉よりも行動の方が有効だと書かれいています。

危険な場所では手をしっかり握ってあげればいいのです。
P64

公園では手を放すときもあっていいのでしょうが、町中の道路で手を放す必要ってあまりないのですよね。

よく道路を走っている幼稚園児ぐらいの子に、「先に行かない!」「待ちなさい!」と言っている姿を見ますが。

家族のルールとして、家で約束して話をしたら変わらないかな、といつも思っています。

そうしたときに、

「何やってるの!車に轢かれて死にたいの?」

などと、心配のあまり、子どもを脅かすようなことを言うと、子どもは親の想像以上に怖がります。
(中略)
そして、恐怖心は、子どもの成長に大きな害を与えかねません。
では、どうすればいいのかというと、基本は「にっこり笑って、ばっさり」です。「そっちは危ないからやめようね。はいこっちね!」
と手をつかんであげればすむことなのです。
P65

笑顔で抑止」は有効です。私が1年目のときに定年を迎えた先生もよく言っていました。そして、それが上手で驚きました。

怖いから諦める。怖さで諦めさせるような指導は、良い効果は少ないようです。

 

この、行動で指導することは、「ペアレントトレーニング」の「タイムアウト」の考え方にも似ています。

軽度発達障害フォーラム ペアレントトレーニング

 

私は、簡易版として、教室にビニールテープで枠組みをつくり、「思いやりスペース」と呼び、友達が嫌がること、それが口頭で注意しても治まらないときに、警告した後、思いやりスペースに子どもを運びます。

・深呼吸

・10数える

を促します。

そこで、止まって10秒数えたら、無条件でもとの場に戻れます。

またやれば、また「思いやりスペース」に運ばれます。

「何が悪いか、どうして悪いか」は、思いやりスペースに行くのを嫌がったときに話すことがあります。ただ、大抵何が悪いか分かっているので、自主的に行動が減っていきます。

教師は、感情に訴えかけて思考させ行動を改善しようとすることが多いと思いますが、それでもやってしまうのが子どもです。

しかし、それが、周りの子に危害を加えるような場合は早急にやめてもらう必要があります。即効性があって、持続性がある変化を起こすには、諭しているだけでは難しい場合があります。

 

こちらの「妨げるだけでいい」という話にも強く共感しました。

自分が自分の主人公! (たの研 内沢達のHP)

お時間のあるときに見てみてください。

 

「約束」よ「お願いね」は"裏命令"の言葉

〇〇した方がいいと思うよ 」。これは、私の使う言葉で、超頻度が高いです。

「〇〇しなさい!」は、ほとんど使いません。

善悪の判断ってほとんど幼児の段階で注意されまくって知っていると、私は思っています。ただ、その判断を常に自分の意思で発揮できない。自律しきっていないのが子どもです。

だとすると、その判断を呼び起こすだけで子どもは相応しい行動を取ることができるはずです。気づかせさえすればいいってことです。

それにも関わらず、教師は、アイツは分かっていないという前提で、強めに注意することがあるでしょう。そうすると、子どもはその辺りを見透かして、あえて悪い方を選ぶことがあるように思います。

選択権を委ねる。それが周りの子に危害を加えない限りは試させる。そして、失敗をフィードバックし、よりよくなるにはどうするか対話して考え合うという流れが、行動改善にも、子どもの感情にとっても有効なように思います。

そして、気づきの再現性を高めていくにはどうすればいいか考えていく。

子どもと約束するときは、あくまで話し合ったうえでするのが原則です。
P70

超大事だと思います。

 「布団とりこんでおいてくれる?お願いしていいかな」
P71

こんな風に、「否定形」から「疑問形」にしていく。それで、もし「疑問形」で子どもが望ましい行動を取れないとしたら、それは、その集団に所属しているという感覚が薄く、「貢献感」が抱けていないと考えた方がいいです。お願いを聞いてくれないことを脅す、語気を強めるなどして強制しようとするとますます所属から遠のきます。

所属は「させるもの」ではなく「するもの」です。

じゃあ、どうすれば所属したいと思えるかは、「コンプリメント」や「意見が言えること」などが関係してくるでしょう。

 

「なぜ?」と問うより、「どうするか考えさせる」

 「なぜ?」や「どうしてそんなことしたの?」これは、問題志向です。警察や裁判官みたいです。動機が刑期に関係するから重要でしょうが、教師もよく「なぜ」を聞きます。わざとか、わざとでないか、もしくは、相手も悪くないか、誰が一番悪いかを知りたいのです。けれど、子どもはその辺りはよく分からないことが多い。

「どうすることか考えさせる」は、解決志向です。子どもがどうすればいいのか、理解していくための話し合いにつながります。

わざとの場合「そういうことはしてはいけません!次からは絶対しないように!」などと指導して終えることがあります。けれど「子どもは気持ちのいいことしかしない」というのがあります。

なぜ、わざとそうしたのか?それは気持ちがいいからです。そのときの教師の指導がその気持ちいいを越えられるかが鍵になってきます。

そして、もう一度起こった場合、さらなる教師の指導で子どもにとっての気持ち悪さを高め、わざとやったことの子どもの気持ちよさを越えるしかなくなってきます。

最終的にスーパーサイヤ人がどんどん出てくるような、感情のインフレが起きます。

教師は疲れると思います。それが仕事だと思っている人もいるみたいですが、教えるが抜けてない?ってよく思います。

下手すると先生ってのは、「もうしちゃいけない」ってことしか教えてくれないときがあります。

どう、それを越えるかが、「どうするか考えさせる」ことです。もし、出てこなければ選択肢でいいです。子どもが「わざとした気持ちいいこと」から別の「気持ちいいやり方」に移行させればいいだけなのです。

そして、望ましい行動を表出した際には、賞賛を与えて、気持ちよさにプラスしてあげれば、望ましい行動が増える可能性が高まります。

「できたね」「よかったね」で、子どもの"聞く心"は育つ 

人を肯定する言葉を使おう。余計な小言を言うのはよそう。

テストが80点だった。「よかったね」にとどめておく。受け取って様子をみる。認めたのちに、「見直しておくといいかもね」くらいは言うかもしれない。

アドラー博士は、否定的な言葉を避けたほうが相手がよく聞いてくれると言っています。
P80

できたことを認める

ここはめちゃ大事な考え方です。

私は、大人ってすでに正解をもっていて、そこに達しているかを「よい・わるい」で評価している節があると思うのです。

ただ、それって、大人にとっては当たり前でも、子どもにとっては何日かステップが必要かもしれないんですよね。

だから、日々「これだけできているよ」というフィードバックの方が必要だと思うのです。

けれども、その指導内容が、「当たり前のことほど、当たり前のことができないということで糾弾しがち」です。

座る、あいさつする、手をあげてから話す、廊下を歩く、静かにする。これらのことは、大人にとっては当たり前のことかもしれませんが、子どもにとっては子どもの特性と全く逆のことをしているので、全然当たり前ではないのです。

子どもの発見を蔑ろにしてはいけません。

もし私たちも子どもを発見できているならば、その特性と真逆のことをもっと賞賛すべきだと思います。

特性に反するができていないことを、名指しで注意して揃うのを待つ前に、出来ている子を賞賛してあげてほしいです。

「今日は、3分できたね」「20人くらいできたね」「大変なことを頑張っているよね」など、なんでもいいので、できている頑張っている子を「すごいね」扱いしてほしいです。

もし、賞賛できないとしたら、それは、少しのステップを上っていることに気づけないということでもあります。

成長に気づくっていうのは、瞬間的なもので、一生にそのときしかないかもしれないもので、尊いものです。それが、大人次第で見逃されてしまったり、潰されてしまうというのは、本当に酷だと思います。

子どもには常に、「いいんだ。自分のベストを尽くせば大丈夫だ」と思わせておくことです。
P87

 これは、大事だと思います。能力の比較はしなくていいって感覚は大切だと思います。ただ、違いはあるという比較は重要です。ただ、できるできないの比較はあまりいらないかな、と。向いている向いていないとか、やり方の違いとか、気づくことで有用なことはいくらでも比較すべきだと思うのですが。

親は、過剰介入を慎むほうが伸びるものなのです。
P88

 「自分で自分から」の大切さを思う。

過剰介入については仮説にすぎないのかもしれないが、いつも自分に「この介入は過剰ではないか」と問うのは、子ども自身を伸ばすことにつながりそうである。

どこまで介入できるかは、学校の大きな課題でもあると思うし。

 

6/5(月)の分はここまでにしよう。

帰りに読んでいる本は、「武士道」の話に入ってなかなか親しみがなくて、ピンとこない。勉強したいと思っていたのだが、「武士道」は、身体を通して学ぶ必要があるってことだろうと強く感じる。

Never give up=?

月曜日が楽しみになってきた「ハピペン」です。やりたいことが、仕事がないとできないことになってくると、仕事に早くいきたくなる。

面白いのは、仕事を通して誰かにさらに与えられる可能性があることに気づけたことだ。

さて「Never give up」。「決して諦めるな」ということ。

「何を?」と。諦めると何がどうなるのか。よく見ると分かる。

「『give』を終わらせるな」ってことだ。

 

昨日は学びの会の日でした。

www.kesuke03.xyz

kengobonbei.hatenablog.com

 

そこで「give」の大切さが、やり取りの中で出てきた。

いろいろ考えさせられる話だった。

「『taker』が増えると会の濃度が下がる」という言葉があった。

そもそも「give&take」はよく聞くが「take&give」は聞かない。giveが先なところは超重要だったってことだ。

そして、この真理はどこにでも転移できる話だと思った。

職員室でも、教室でも、自分の中でも、誰との関係の中でも。

「つながり」の正体という気すらした。

3つのgive

giveの面白いのは主体的なところだと思う。

putではなく、giveなのだ。

私はputだったり、throwだったりすることが多かったように思う。

しかし、giveになると、温かさや加工が必要な感じがとてもする。

そして、3つのgiveが浮かんだ。

1.相手へのgive

基本中の基本。これぞgive。相手に与えようという意思をもって、相手に与えられたと感じさせるところまでいったgive。

2.giveのようでgiveでないgive

与えたつもりも、与えるつもりもない中で起きるgive。

ただし、私は、これはgiveであってgiveでないように思う。

また、putやthrowも、giveになることはあるけれど、giveとは言えないもの。

3.自分へのgive

(この段落は言葉化しきれておらず自信がないのですが)

最後は自分へのgiveだ。相手に「与える」ことを大切にして「与える」だけでは、「与えるつもり」になって終わりということがある。
「つもり」にならないためには、まず「自分に与えきらなければならない」と思った。

読書でも、人の話を聞くでも、体験するでも、その自分へのgiveが良くなければ、他者へのgiveも良いものにならない。それを良くできるかは、自分次第で、それが学び方の大切さなのだと思う。

ただ、考え方を変えるだけでも、学びの質は変わるような気がする。

たとえば、inputというと、ただ入れている感じがするが、自分へのgiveというと、労わっているような、感謝を込められるような、未来を信じているよというような感じがする。また、あの人のためのgive前提のInputだったとしても、その相手のためになりたいという自分に俯瞰して気づけていないと、真のgiveにはならないような気がする。そうでないとどこかに自分のtakeしたい気持ちが潜む。もちろん自分は常に心から0takeでいいなんてなかなか思えない。だけれども、maxgiveに向かいたい。
私は、真に純粋に与えるためには、自分へのgiveと相手へのgiveのつながりが大切だと思う。

きちんと自分へのgiveをすることで、自分は誰かにgiveすることができるようになる。自分にgiveして良かったものが、それいいねって周りにも伝播する。自分の思う「良い」とか「快」とかに関係することは大切なのだ。

繰り返しになるが「誰かのため」ありきだけでInputするのではなくて、「自分で自分自身に向かって本気でgiveしていく」。「やる」というよりは自分に「与える」という感覚が重要。

「目先の誘惑や思いつきだけでなく、自分が本当に与えられたいものを自分に与えられたときに、周囲へのgiveも起こせる可能性が高まりそうだ」。

自分への出来る限り相応しいgiveを

大切だと思うのは、

  • ちゃんと自分と向き合ってあげること。自分は今何が欲しいのか。それはなぜか。どうすれば与えられるのか。
  • そうして自分に与えたものを、他者にも与えてみること。
  • 他者は自分ではないのだから、他者に与える際は失敗もあるだろうということ。
  • でも、それに足したり引いたり何か加工すれば、giveできるものになるかもしれないということ。

Never give up=?

「Never give up=life」

私は、そう考えた。

「決して諦めるな」

それは「自分にも他者にも『与える』」ということを。

そして、これぞ「学び」ということかもしれない。

そして、この「与え続ける」ってことが「自分の生を諦めない」ってこと。「生きる」ってことなんだと思った。

「私たちが、子どもたちに与えられたなら、彼らもまた与えられる人になっていく」ってことだ。

 

こんな本もあるのだなあ。

あたえる人があたえられる

あたえる人があたえられる

 
GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代 (単行本)

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日本科学未来館で一番楽しかった展示(日本科学未来館1)

休日どこかに行きたいけど、どこに行く?と言っている間に午前が過ぎてしまう「ハピペン」です。もうそんなの嫌だってことで、試行錯誤。

 

本日辿り着いたのは「日本科学未来館 (Miraikan)」です。

www.miraikan.jst.go.jp

 

 二人でLEGO®を使って、自分たちに潜むニーズを探ってみる。

f:id:penguin-kn:20170606062118j:plain

 ここから、何が読み取られるかというと、

  • 行ったことないところ、木、スカイツリーみたい、高さ
  • クリアな日、頭真っ白、たすくま、水辺、水色が好き
  • 別の色のところ、低いところ、かわいい、傘がある、通気性がいいところ、陸、黄色い子を育てたい(私のもつ良いもの)
  • 情報は置いておいて、外っぽい、花があるといい、水がありそうなところ、木、インスタがしたい??、切り抜きたい、心の写真、陸、影っぽいもの、きれいな海

以上から、「あっ!」となり、「日本科学未来館!」となりました。(レゴ関係あったのか?)企画展のために行ったことはあったのですが、いつか「常設展」を見たいという気持ちに辿り着き、出発!!

 

常設展には、科学に関する「ロボット、イノベーション、情報、アート、宇宙、生命、地球」などの様々なジャンルの展示があります。

科学といっても様々なジャンルがあり、それそれ展示の中で見たり、体験したりすることは、とても新鮮でした。

 

私が、一番興味をもって時間を費やしたのが、5F「生命」のエリアにある「ぼくとみんなとそしてきみ」でした。

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関連リンク:

ぼくとみんなとそしてきみ:人は1人では生きていけない――日本科学未来館の常設展示で感じたこと - ITmedia エンタープライズ

 

ここでは、

  • 人間の脳(心)にどんな働きがあるのか
  • そこにはどのような進化の跡があるか

などが、チンパンジーによる実験などをもとに解説されています。

チンパンジーはその瞬間の記憶を覚えることを得意としているそうです。

人間はその力を進化させるのではなくて、

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進化の道が違うから、生き方も違う。

そして、人間がもう一つ手に入れたものが、手助けの「自発性」だそうです。

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 チンパンジーの場合は、チンパンジーからの手助けがほとんどないそうです。

しかし、社会には多様な価値観をもった人々がいます。f:id:penguin-kn:20170617103318j:image改めて言葉化されて見ると、私たちの生活って至極単純な原理の中にいるのだなあ、と思わされます。

そこから、「社会性」、「みんなのためになる行動」につながる性質を身に付けていった。

f:id:penguin-kn:20170617103942j:image

でも好き勝手「自分のために」生きている人もいるよね?ってのは当然の疑問ですね。

どうすれば、「みんなのために」の行動が増えるか。

鍵は、「評判の伝わりやすさ」と「利益の大きさ」だそうです。f:id:penguin-kn:20170617103346j:image

 学校でも、「良い評判を拡散」して、そこに「利益」があれば、子どもたちは、自治的な快の集団を目指せる可能性が高いです。学校教育で与えられる子どもたちの利益の具体ってなかなか難しいのですが、私は「成長」に「利益」を感じられるようにさせられるといいなあと思います。

「自分の変化を楽しめること」を感じさせられたら、良い循環が生れそうだなあって思う。同時に、未来の社会生活につながる、その子がもてる生産性につながるような、意図した学びも与えていけたら完璧。

 

しかし、新しい仕組みがいる時代に来ているのも事実なのだなあ。f:id:penguin-kn:20170617105507j:image

 明治維新のレベルで過渡期だという表現もある昨今。子どもたちに何を残して、そして、どんな未来で私たちは一緒に生きていきたいのか。

人間として備わっているものを生かしながら、一人ひとりが考えながら対話をして、地球を盛り上げていけたらいいなあ。

こんな本も気になるぜ。

いっしょにいきるって、なに? (こども哲学)

いっしょにいきるって、なに? (こども哲学)

  • 作者: オスカー・ブルニフィエ,フレデリック・ベナグリア,重松清,西宮かおり
  • 出版社/メーカー: 朝日出版社
  • 発売日: 2006/09/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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「日本科学未来館1」ってことは「2」につづくよっ。

「ダメ」と叱らずにすむひと言

天気がいい朝が嬉しい「ハピペン」です。昨日に続いて今日も気持ちいい。眠気も少し吹き飛ぶわ。

昨日読んだところの記録を今日も書いていく。

聞く力とさまざまな能力

行きに読んでいる本から。

アドラー博士が教える「話を聞ける子」が育つ魔法のひと言

  1. 人の話に興味を持ちつづける「集中力」が身につく
    少しのガマンが大切で、興味を持ち続ける時間を延ばしていくこと。
    これは他者への期待につながる。新しい知識の獲得にも。
    そして、少しのガマンは「対話」をして解決する方へ。
  2. わがままではない、ホンモノの「自己主張」ができる。
    人は話を聞くとき、聞いた話と自分の知識をチェックして照らし合わせる。
    すると、自分の考えを修正したり、相手の話に納得できないから反論したりすることにつながる。
    話を聞き取れると、自分の頭で考えて、自分の意見を言える。自分の考えを主張できる。
    相手の話を聞かずに自分の言いたいことだけ主張するのは、単なるわがままであって、自己主張とは言えない。
  3. 新しい発見ができる
    相手の話から刺激を受けて一種のひらめきが起き、自分の知識をより深めることができる。
    無関心からの脱出にもつながるかもしれない。
  4. 反省して、視野が広げられる
    人の話を聞き取ることができる子どもは、反省し、自己修正しては、自分の世界を広げていくことができる。
    同じひと言でも、会話する相手との関係によって受け取り方はまったく違う。
    ベースになる親子関係を安心できる関係にすること。
  5. 想像力・創造力を発揮できる
    「なぜ、そうなるんだろう」「そのあとどうなるんだろう」という想像力を働かせたり、「どうしたらいいんだろう」「じゃあ、こうしよう」といった創造力を発揮させることができる。
    「わからないことがわかる」。こうした体験を通して、子どもは本当の意味での勉強をし、学ぶことに喜びを見い出すことができます。
  6. 相手の気持ちを受け止め、くみとれるようになる
    相手の人の気持ちや感情を捉えるという感情面を伸ばすことにもつながる。
    話の内容だけでなく、そのとき相手に流れている気持ちまでいっしょに聞く必要があるのです。
  7. 生きる力に欠かせない「本当の学力」が育つ
    道徳の時間の意見と現実との乖離。自分を俯瞰できていないこと。
    行き過ぎた能力主義は、学力テストから知的障害をはずすという事件や、「学力テストの結果がいい子は優れた人間で、悪い子は劣った人間だ」という二極的な考えを生み出す土壌にもなる。

1の「期待」や「新しい知識の獲得」は、生きることの楽しさにつながるのではないだろうか。あとこれらは、「他者意識」と「リアリティ」につながっているように思う。

「ダメ」と叱らずにすむひと言

「ダメ」という禁止用語で子どもから考える力を奪うもとになっていることが多い。
「いけません、いけません」という育て方をしていると、子どもを無気力にする恐れもあります。
P57 

 これは、強く共感する。学校が社会に対する無気力を育てる場というよりは、自分も参加できる力を育む場。それこそ参画する力をつけられる場としたい。だから、その参画が、なるべく嫌悪感が混じって行われない方がいいと思う。"参画させらる"って状態は違和感ってことだ。「それじゃ社会で認めないぞ!!」ってよりは「それでいいの?」と問うだけの違いなのだけれど。
その「長々と真剣に対話する時間がない」というのが病というのは、あり得ると思うけれども。

それなりに自分で考えて、自分の考えを持つ力は、抑圧さえなければあると思うんだよね。そう「ちいさな哲学者たち」を見て思ったんだなあ。

ちいさな哲学者たち [DVD]

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 「小さい子ができるから、お前もできる、やれ」ってことではなくてね。

「ダメ」で育てた先に、それが結局また他者への「ダメ」につながって、悪循環を起こしている気もする。

アランの『幸福論』にあるように。客が悪い態度でウェイターに接した結果、そのウェイターは家で奥さんを殴るかもしれないのだ。

「対案」はあり

ただ禁止するだけではなく、代わりに「こうしたらどう?」という対案を出してあげることが大切です。
P59 

 大人は、正解を自分が持っていることにしながら、子どもと会話をすることって少なくないんじゃないか、と思う。

子どもからアイデアが出たなら。「じゃあ、とりあえずそれでやってみようか」というのが大切だと思う。

問題は、その後失敗しても声をかけないで、なんとなく過ごせてしまうことだと思うのだけれど、様子を見ながら、「で、どうだった?今の気分はいい?」と聞いてみると、「できたけど、いまいち」みたいな反応が来ることもある。そして、また「さらに、よくするアイデアありそう?」と聞く。「あとで考える」と言うこともあると思う。それもよし、で一度は託す。そんな風に、子どもの行動や時間の使い方を信じながら見守るのが好き。

正解があるくせに、正解を示さない。そして、大人がもっている正解に辿り着くことだけを「考える」にしているきらいがあると思う。「考える」とそのときのその子なりの最善だ。もちろんそのための情報をどう得るかも大切で、その情報意欲のようなものも育まないとってのはある。

説教から逃げたくて「わかった」と言っているだけ

たとえば、「わかった、わかった」という返事をしていても

子どもは、お母さんの説教から逃げたくて「わかった」と言っているだけなのです。
P61

 これは、学校でもよくあると思う。うるさい先生のために黙っているだけ。聞かなければならないのは、うるさい先生の話だけではないってことが身に付かない。

うるさい存在がいれば、たとえば、

 兄弟ゲンカが起きたとき、お母さんがケンカそのものを止めようとすると、子どもはお母さんのいうことを聞いている「フリ」をするだけの結果になります。
P63

 ここに、家庭と学校にある構図を少し見た。

「フリ」=社会・学校 なのではないか、と思った。それに今は「家」も入ってくる。

それは、大人の多忙感から、インスタントに子どもに応じているからかもしれない。でも、それは昔からそうだったとも思う。なくなったのは「子どもの世界」ってことだ。

『街から消えた子どもの遊び』という本のあとがきがとても切ないのだけれど、写真が撮れなくなったといったようなことが書かれている。それは、規制とかではなくて、街で遊ぶ子どもがいなくなったからだ、と。

萩野矢慶記写真集―街から消えた子どもの遊び

萩野矢慶記写真集―街から消えた子どもの遊び

 

 子どもは「本当」でいられる場所がなくなっていく。すると「家」では、生き延びるためにいい子でいなければならないから、学校で「フリ」を開放して「本当」をやろうとする。

ただその本当は「本当の本当」ではなくて、上辺の短絡的な『ファスト&スロー』でいう「ファスト」のような、刹那的な「快」を目指してしまうから、荒れにつながりもするだろう。

大切なのは「フリ」と「本当」をつなげてあげることで、自分に自覚的にいられて、「誰かを攻撃しなくても人生は楽しい」ってことに気づかせられるような、「安心」していられる場を提供するってことなんだと思う。
この辺は「クラス会議」にヒントがあるような気がする。

「本当は、あの時、『フリ』じゃなくて、自分が自分を否定しないで、『本当』でありたかった」って傷をどうケアするか、ってのがあると思う。それに対して「これが社会だ」と学校が切り刻むと、学校と子どもは衝突する。いじめが起こる場合もあれば、不登校につながる場合もある。

だから

本当の意味で聞いてもらうには、ケンカをしないためにはどうしたらいいのかを考えさせる方向に持っていくことです。ケンカという形での解決方法しか知らなければ、子どもはそれを使うしかないのです。
つまり、子どもが「わかった」と言ってから勝負は始まると考えた方がよさそうです。 
P62 太線は「ハピペン」

 この項はたくさん書いてしまった。思い入れが強いってことなんだろうなあ、たぶん。

 

これだけは知っておきたい道徳理論

帰りに読んでいる本から。

教育の原理とは何か〔改訂版〕: 日本の教育理念を問う

  1. 他者危害則
    自由の濫用は、道徳的ではない。
    「相手が嫌がることをしない」。
    (個人的に1にこれがあるのがとてもいい。1は当たり前ってことで飛ばして2で指導しているとクラッシュ。)
  2. 黄金律
    「してもらいたいことをする」。
    「されたら嫌なことはしない」。
  3. 普遍化原則
    「みんながそれをすると心地よいか」。
    みんながそれをしないと不快ならば道徳的ではない。
  4. 動機説と結果説
    道徳的行為で大切なのは、動機か結果か。偽善は許されるか。
    心も伴っていなければ、本当の善とは言えないのか。
  5. 自律と他律
    誰かに言われてではないこと。自分の「快」のためでないこと。
    なぜ「他者に親切にするのか」。

たとえば、「流されない人間づくり」。自律的な人間形成。

それは、どこまで可能なものなのか。問いがナイーブになっていくが……。

こういうのを考えるは嫌いじゃない。

そして、こうやって網羅的にまとめられているのも大好き。

トータルで浮かんだのは、子どもに心を持たせるにはどうするか。

心がない子どもなんてそりゃいないのだけれども。
心=脳ってことでも当然、誰にでも心はある。

ただ、「心ない」という表現があって、これは、要は、脳が発達して「他者意識」をもてるってことだと思う。

ただ、そのためには「快い他者とのかかわりの体験」や「快くない他者との関係を改善できる体験」が必要だと思う。

この他人が存在している世界をどうしたら信用できるか。

素晴らしさを教える教育。生きる喜びを教える教育につながる話だと思う。

本当はつながりたかった。道徳に無関心になってしまって、子どもたちは無気力化しちいないか、が問い。

教育とは他律的な働きかけからはじまる

というわけで、二つの本を行きと帰りに分けて読んでいる「ハピペン」です。昨日、読んだ分から、考えたことを書きます。

「話が聞ける子」とは「黙っている子」ではなく、「対話ができる子」をいう

  • 子どもを聞く気にさせるのはIメッセージ

命令は、それに対して「はい・いいえ」でしか答えられず、対話にならない、といったことが書かれていた。それを、Iメッセージにすることで「私はこういう価値観」と置くようなイメージで、「でも、僕は違う」といったように「対話」をはじめることができる。

対等さ、それは、立場や役割の対等さではなくて、人間としての価値の優劣のない対等さ。

ちびまる子ちゃんの家やサザエさんの家を思い浮かべてもらえたらいい。子どもが親に気兼ねなく物申せる家庭。だけれども、立場や役割は対等ではない。それは、当たり前で、そうじゃないなら、教師はいらない。

自由に意見が言えることは、大切にしたい。それでも、教師が軸を持って、子どもたちがぶれてしまって生きにくくならないようにしてあげる。それが、教師の役割だろうと思う。

いけないのは、期待通りにしようとすることで、期待することではない。
P27

聞き方の指導って、一筋縄ではいかないよなあ、と当たり前のことを思っているのだけれども、この高校の子たちは、聞いていないような態度で聞いている。

教育の再生をもとめて―湊川でおこったこと (1977年)

教育の再生をもとめて―湊川でおこったこと (1977年)

 

この高校の話からは、誰だって学びたいんだって気持ちが分かる。それでも、周囲との体裁もあって、授業態度が悪くなってしまう子もいるわけだ。それくらい不安で、刹那的な承認欲求に吞み込まれて。それにもかかわらず、教師は態度についてだけを注意しつづける。その教師と生徒との齟齬が、生徒に大人を失望させてどんどん遠くへ追いやってしまうイメージ。

「お前は社会代表のオレの言葉が聞けないのだからダメだ!」

その、遠退いていないかの距離感覚へのアンテナって結構重要だと思う。そして、遠退いていても、それを生徒側の資質の所為にしちゃうと、もう本当ダメ。そういうのは見ていられない。それ教えるのが仕事だろって思っちゃう。

寝転がってでも話を聴いてればよし、で最終的に困るのは自分なのだから、そこは自律性に任せるって昔の寺子屋かなんかの話を読んだこともあった。(まあ、義務教育がそれじゃ無責任すぎるが。)

押しつぶさず、擦りつぶさず、子どもたちに聞くことによる学び、自分に他者が入ることで沸いてくる楽しさを感じさせられたらいいなあ。そして、追いやらないために、私は授業のUDにも関心をもったのだなあ。

「自分と結びつけて聞く」ってよく言うんだけど、それを、見える化して、フィードバックしてちゃんと感じさせてあげたいなあ。

教師が陥りやすい教育的陥穽

(陥穽って言葉使いやすそうだけれども、あまり見ませんよね。"比ゆ的に人をおとしいれるはかりごと"だそう。)

  • 生徒や保護者の多様な考えを尊重すべき
  • 価値の押しつけはよくない
  • 争いのない社会を築きましょう
  • 男女は平等
  • 教師と生徒は平等
  • やれば必ずできる、決してあきらめるな

心当たりのあるようなことがたくさん書かれていた。

たとえば、教育は、価値の押しつけ、他律的な働きかけから始まる。

大切なのはその都度の優先順位が、教師のその時その時の気分や感覚で変わらないことだろうと思った。一貫性。そして、独善的価値観にならないように、学習指導要領や学校教育目標がある。自己保身のために、自分のもっている価値を善しとするのではなく、子どもの未来のために必要な価値に気づかせていく。

 

この2冊読みは、めちゃ楽しい!

アドラー博士が教える「話を聞ける子」が育つ魔法のひと言

アドラー博士が教える「話を聞ける子」が育つ魔法のひと言

 
教育の原理とは何か〔改訂版〕: 日本の教育理念を問う

教育の原理とは何か〔改訂版〕: 日本の教育理念を問う

 

 

自分とは、自分と他者の複合体(って改めて思う)

背伸びに疲れたらかかとを降ろせばいいんだよ。「ハピペン」です。でも、今は、「元気に背伸びの運動ー!」って感じで。

 

思えば、誰かと話すおかげで、自分を構造的に見てもらえることを、体験しています。自分が体験したかったこと。これを手に入れられていることに、なんとなく後々気づいて、日々に感謝です。

 

二つの視点で本を読むっていう話を聞いただけでも、自分の生活は枠組みができて落ち着く。

  • 自分の考えと似ている本。
  • 自分の考えに近いけれども手を出していなかった本

こういう視点で、どこかしらで、見ているのだけれども、自分の判断って信用ならないもので、「でも、今は自分が読みたい本を読みたいから……」という感じでその場でお断りしてしまうと、もう、まず、その考えに出会うことはないね。(そう思って気づいたけど、判断って、何かを断ってんだね。)

そして、別のタイミングで、誰かにそれをすすめられると、「あっ、今の自分はそうした方がいいんだ……」と思って素直にやりはじめもする。

自分が面白い。そのときに自分を楽しいって思える感覚があった。他者の介入は本当に面白い。そして、その介入力に驚愕。

ハロー効果なのか、分からないけれども。
入力の違いやその時の感覚の違いでそうなる。
(こういう、人間の幅広い面白さを忘れないで、指導をしたいなっていつも思うなあ。今できなくても、次できるときがあって、そのとき表面上だけ強いてやらせるのとかって嫌だなあ、と。)

 

そして、通勤の行きと帰りで本を変えることにした。
(改めて、私は、一日に広範な情報を得られると楽しいって思うタイプの人だなあ、と思った。ただ情報社会の波にのまれているだけなような気もするけれども。情報が安心材料になっている時代なだけで、不安を恐れて情報飢餓しているだけ、みたいなね。)

行きは、これ

アドラー博士が教える「話を聞ける子」が育つ魔法のひと言

アドラー博士が教える「話を聞ける子」が育つ魔法のひと言

 

帰りは、これ

教育の原理とは何か〔改訂版〕: 日本の教育理念を問う

教育の原理とは何か〔改訂版〕: 日本の教育理念を問う

 

そして、少しずつ学びを記録していくことにしよう。