かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「朝の時間」(と余談:キャンプファイヤー)

朝活って言葉がいっとき流行っていたよな……「ハピペン」です。別にまだ死語になっているわけではないと思うけど。

 

朝早起きしてなんかやると起こるいいことについて。

 

朝にやりたいことができると「やらなきゃっ」てことができて仕事にいける。その分、日中に「そーいえばあれやりたかった。あっそうだこれもだ。」と気を張っている容量が減ると実感。

 

結果、疲れが減る。

 

なんて健康的なのだろう。

 

仕事が終わって、家に帰ると疲れている。そう感じなくても脳は疲弊している。

そうすると、日中に「そーいえばあれやりたかった。あっそうだこれもだ。」と思っていたことが、結局できない。できにくい。

 

そうすると、次の日に持ち越さざるを得ない。ストレス。

 

そして、出来ないという気持ちを重ねてしまう。悪循環。

 

それよりも、朝の新鮮な気持ちでとりあえず臨む。終われば気持ちいい!もし出来なくても、また夜に時間があったらできるかも!っていうワクワクを抱けるのもいい!

 

これは、精神衛生上かなり良い。

 

早起きによって、何も進まない毎日から、少し進む毎日に変えることができる。

 

あとは、余談なのだけれど、5月。宿泊の行事がある学校も多いことだろう。

キャンプファイヤーの応援に行った。その道中でしかできない、同僚とのトークもあるし、結構好き。

キャンプファイヤーでの子どもは、普段と違って、全身全力で、仲間との時間を楽しんでいるように見えた(あんなに跳ねて笑うんだあの子は、と)。そういう姿を非日常だけではなく、少しでも学校でねらっていって表出させられるといいなあと思う。

 

本質で過ごさせ、本質を育てたいところだ。

 

今年は、はじめ山賊役で子どもたちの前に出た。

「火の神様なんかいるかー!!」みたいな煽りをアドリブでやっていたのだけど、そのときに「校長?そんなの関係ねーだろー!あーっはっはっはーー!!」みたいなことを言ってしまい。

いやね、全くもって心にもないことをね。うん。そう。全く心にもないことを大声で言ってしまってね。冷や汗をかいたなあ……。あーあ。

「教員の孤立」

全速力で走ると、どこかしらが吊りそうになる「ハピペン」です。一瞬しか全力を出せない。長時間出すには、入念な準備運動が必要……なんてね(いや、なんてねじゃない!)。

 

さて、少しだけ、いろいろね、脱線したくて、ゆるくなりたくて、買い貯まっちゃった、AERAを見ています。

 

17.5.15号 

AERA5/15号

AERA5/15号

 

 

樹木希林さんの話も面白かったのだけれど、そのちょっと先に「教師のストレスと孤独が生徒に向かう」なんて書かれちゃってたまらない。

 

その中で、弁護士ドットコムの田上嘉一弁護士のおっしゃっていることにホントやれやれって感じ。

「担任教師は一国一城の主のようなもの。さまざまな権限を持つため、勘違いして悪用する人も出てくる。どの教師も自分のクラスを守るのに精いっぱいで、互いに助け合う余裕もない。
自分がうまく指導できないと認めると評価が下がる*1から、周囲には相談しにくく、孤立はいっそう深まる。
P32

 

この辺りの、助け合わないからこそ余裕がないというところに気づいて、どうアプローチできるかって重要だよなあと思う。

 

まず、殻から出るか、殻から出さないといけない。 

 

この本がヒントになる。

自分の小さな「箱」から脱出する方法

自分の小さな「箱」から脱出する方法

  • 作者: アービンジャーインスティチュート,金森重樹,冨永星
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2006/10/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • 購入: 156人 クリック: 3,495回
  • この商品を含むブログ (421件) を見る
 

 みんなが、殻からでて価値観を共有し合って、納得解を得られるといい。

 

そういうファシリテーター的なポジションに職員室の中で誰がなるかってのが問題かもしれない。

 

もはや、リーダーは、役割と言われていて、誰でもやろうっていう時代に、そんなファシリテーターは素質とかってよりは、役割にすぎなくて、誰でも輪番でやれば、変な軋轢も生まれないんじゃないかって思う。

 

みんなが、順番に中心になって、みんなについて話す。

 

なんだか、クラスでもやっているようなことな気がするけれど、それが職員室で出来ていないっていう面白さがある。

 

だから、時間と余裕がなんですってば、って言われるだろうけれども。

 

それは、学校として子どもを育む方へ向かうことが出来ていないからかもしれない。

誰かを否定するレースを始めているのは一体誰か、ということだ。

 

自分のやり方が正しいかは、置いておいて、価値観を共有し合う。その価値観に見合いそうなやり方を取り入れ合う。それだけの話なのだ。

 

これが学校教育っぽいっていうのを、伝承することが大切なのではなくて、それも今時なだけって言われるかもしれないし、それじゃ学校が壊れるって言われるのかもしれないのだけれど、やっぱり先行き不透明だから、学校ってみんなでつくった方が、子どもが育つんじゃないかなって思う。

 

たぶん、みんな想像している未来の観点ってバラバラだと思うから。

 

集合知で行った方が、結局、職員も子どもも生き生きするんじゃないかな……。

 

一生懸命一年契約で子どもを育てても、次の年になってその子がボロクソに頭ごなしに否定されたり、注意されたりしていると、ホント自分が何をしてんだかよく分からないし、虚無感を覚えるし、そうなると、結局、自分のことは良いって思っていてほしいみたいな悦にいってキモくなるしで、なんもいいことがない。

 

みんないい先生だし、みんないい子どもたちなんだから、それをよりよくしない?ってだけの話なのだけど、それが難しいってのが面白い。

 

「みんなの学校」も手法だったり、理念だったり、いろいろ批判も良さもあるけれども、あの学校の良いところは、みんなが語り合って、私たちの学校を目指そうとしているところなんだよね。

 

正解かどうかってよりは、それこそすごいのは、あそこに参画しているという一人ひとりの姿勢の話。

 

最後に樹木希林さんのインタビューからも抜粋しておこう。

 

面白いわよねぇ、世の中って。「老後がどう」「死はどう」って、頭の中でこねくりまわす世界よりもはるかに大きくて。予想外の連続よね。楽しむのではなくて、面白がることよ。楽しむというのは客観的でしょう。中に入って面白がるの。面白がらなきゃ、やってけないもの、この世の中。
P14

 

職員室にある混沌。

まあ、 その状況すら、面白がれたら◎ってわけだ。

*1:ここにある「評価」は、実際の他者からの評価よりも、最終的に自己評価が下がることが問題だと思う。

「『他律』の『自律化』から自分を理解して律しながら、自分らしく自分の力を発揮して『自立』へ向かうこと」

もうすっかり暑いですねって感じな「ハピペン」です。6月って学級経営において結構肝心って言われますね。子どもたちも自分を出して来ているように感じます。より多く調子にのってみたり、いちいち先生を呼んでみたりが増えた気がする。その中に4月から細々と一生懸命やっているように感じる子もいたりして面白い。

私が、思うのは「いいから、まず自分たちで解決しようとしてみて」ってこと。話し合ってこじれたら来てよ、と。なんとかするから。何でも先生に来ないでってよく思います。私は警察官でも裁判官でもないので。危険は守るけどね。

注目されたさも、自分たちで満たし合ってほしいわ。メリハリ、ふざけと楽しいは違う、自律心使ってみな、我慢力、今は無理してごらん、とかよく言っています。

さて、流れに反して読んだ本で一番心に残った部分を記録して今日を終えようと思います。

この本『教育の原理とは何か〔改訂版〕: 日本の教育理念を問う』。ちょと意図した内容とは違ったのだけれど、目次で気になったところだけは読みたくて、読んでいます。

「人格の完成」ってところで何よ?みたいなことが、書かれていて楽しい。

今日一番気になったところは、

要は、人格の完成を目指す際に他律的な教育ではなく自律的な教育が必要であるとするならば、そのためにはまず教育者である教師の自律性が担保されねばならない。
そして次に生徒たちを自律へと至らしめる教育的方法を教師が理解しておかねば人格者を目指す自律的教育は他律による見かけ上の「よい子」を作るだけの誤った方向へ行ってしまうだろう。

P34(下線は「ハピペン」) 

 結局のところ向かう先は「自立」と「自律」だ。

「自立」は独り立ちのことで、発達段階に応じて自分の身の回りのことが自分でできる「自立」と自分で働いて食い扶持を得る「経済的自立」がある。

「自律」は「自己の生き方を考え、主体的な判断の下に行動する」ような意思にかかわるものだ。

日々の指導で忘れたくないな、と思うのは「『他律』の『自律化』から自分を理解して律しながら、自分らしく自分の力を発揮して『自立』へ向かうこと」だろう、と考える。

先日、指導において、大切にしていることを3つ挙げさせてもらった。

  1. 子どもを否定しないこと
  2. 分からなかったら子どもに聞くこと
  3. 子どもは気持ちの悪いことはしない

ただし「お願い、説得、交渉、相談」はあり。(交換条件はあまりよくない。)

私は、ここに「他律」の提示の仕方のヒントが隠れていると思うし、自律的教育へのヒントもあるように思う。

怒ると、怒られないために律するようになる。それは、避けたい。

心地よいから律するのである。そのためには、心地よさを感じているときに、言葉かけをするなどして、振り返る、気づかせる、メタ認知させることが有効だと考える。

私は、快晴の天気の良さに積極的に気付かせるようにしている。何気なさこそ至高で嗜好。下手すると笑った後もただ笑って終わりじゃなくて、少ししてから、わざわざ「さっきの面白かったね」と言うくらい。そうやって、恩に着せるわけじゃないけれど、生きる喜びを押し売りするわけじゃないけれど、「"ここ"にいること」を肯定的に捉えさせている。(コンプリメントを与えるってことに近いかな。言祝ぐってイメージもある。)

そうした日常の中で、「お願い、説得、交渉、相談」などによって経験した、教師が良いと感じているルールを子どもたちは体験して、「自分で自分から」と「自律」的に選択できるようになるといい。もちろん、その子が価値を感じられなければ、それは、選ばない権利もある。

ただ、学校は公で活動事に目的があるため、従ってもらうこともある。有無を言わさず経験することが優先されることもある。

それでも、なるべく、命令と否定なしでいける限りは行きたい。

今の子どもたちには、安心のある「快」を感じる集団経験の方が有用だと考えるからだ。不安や不満、抑圧は、承認欲求を満たす方へ動いてしまいがちだと思う。

本質的な自分でかかわるのではなく、周りから賞賛を得られる自分を選んでしまうということだ。これは、思い切り「他律」的な自分になってしまっていると言っていいだろう。

自分で最高の自分を選べるように、その選べる自分を信じられるように。

失敗したっていいんだからこそ、自分の本筋で、自分を選んで、好き放題学校を楽しんでほしいのだ。周りに翻弄されて注目を得るための好き放題出来ていない自分じゃなくてね。

そうして、自分たちで自分たちを作れるんだって思ってほしい。自分たちの感じ方考え方で、最高は作れるってことを知ってほしい。

「なんだ、ただ誰の存在も否定しなきゃいいだけなんじゃん」って。

子どもたちには、否定されたことからはじまっているゲームから抜け出せるような、人とのかかわり方を身に付けさせたいわけだ。

ブリーフセラピーの考えが好き!!

正直ブリーフセラピーだけでどんな子でも救い得るんじゃないかって思っているところもある「ハピペン」です。

ブリーフセラピーとは

短期療法(ブリーフセラピー;Brief Therapy)は、ミルトン・エリクソンの影響を受けた理論・技法を有し、比較的短期間で問題の解決をみる心理療法の一派を総称して短期療法という。

短期療法 - Wikipedia

スクールカウンセラーの人が7年くらい前に研修をしてくれて、それ以来気にしている考え方です。学校で先生や家族のようにたくさんは会えない子どもにどうやって良い変化を生むか、と考えたときに辿り着いたのがブリーフセラピーだと言っていました。

そして、私は、教師も一人ひとりの子と関わる長さで考えると多いわけではないと思い、教室でも生かせると思って取り入れています。というか、基本的にこの見方でしか子どもの指導をしていない気すらします。

ブリーフセラピーのエッセンス

ブリーフセラピーの考え方

  1. 原因探しをせず、例外(問題の中ですでに解決している部分)を探す(SFA
  2. これまでとは何か違う事をする(Do Something Different)
  3. うまくいっていることを続ける(Do More)

私はこの3つが根本理念と思っています。

また「問題志向ではなく、解決志向」ということも大切な部分です。

なぜ問題が起きるか?ではなく、どうすれば上手くいくか?を考えるのです。

原因探しをせず、例外を探す

たとえば、なのですが、不登校の子がいるとします。そこで、一年で一日も来ないのですか?といった質問などがされると思うのですが、ここでは、一年の中で一日だけ登校した日があったとします。

そうしたときに、その一日にどうして来られたのかを考えます。

ほとんどの日に来られない理由。つまり「問題志向」ではなくて、一日だけ来られた例外を「解決志向」で考えるのです。

私が聞いた話では、この子が一日だけ登校できた理由は、お母さんが旗振り当番だったからだったそうです。そしたら、毎日お母さん旗振りましょうよ!ってことで、その子は登校できるようになっていったそうです。

こんな風に、たった一日、たった一度を資源と捉えて、どうすればその状態をもう一度再生できるのかを考えて子どもに対して働きかけていきます。そのため、当たるまでは、なんでも試します。それが、②の「なにか違うことをする」ということです。

なにか違うことをする

「上手くいかなければなんでもいいから違うことをしろ」というのが重要です。

いつも同じ指導をして、結局一年中改善しないことってないですか?一年はさすがにないとしても、1週間2週間変わらないこともあると思います。

それは、自分のやり方が子どもにとって資源になっていないということに気づかなければなりません。教師が好きな方法というのも大切だと思うのですが、教師が好きな方法ではなく、その子に合った方法を選んであげることが、その子の成長に必要なのだと思います。

まあ、そんなうまくいくか!?って思うのが普通だと思いますが、けれども、案外うまくいくのがブリーフセラピーの面白いところ。

子どもは誰でもリソース(自分発の自分に使える資源)をもっていて、それを生かすだけで、適切な行動に導ける可能性があるのです。

繰り返しになりますが、教師って「私の教え方で、私が教えたいことを学ばなければならない」といったことが、よくよく起こっていると思うのです。

たとえば、7-7は、16-7よりは、早く解けなきゃいけないらしい。だって、0に決まっているからだそうだ。そんなの、子どもによるだろ、って感じ。その子どもの脳のつながりによって、数の感覚なんかそれぞれなんだから、その辺って慎重に子どもは確かめながら成長しているんだよね。2-2と7-7が本当に同じ0かは、いろいろイメージしながら確かな概念にしていくんだと思うんだ。

だから、私は、7-7が遅いことは、否定したくない。

そんな風に、教師の感覚を絶対的にするのではなく、教師側の感覚を変えて、子どもに有効な手立てを考えようというのがブリーフセラピーです。私はこの考え方は子どもにとって優しいとも思います。

教師は力的に弱い者を従える毎日で、権威的な立場にありすぎて、弱い者側の気持ちに立つ感覚を忘れていってしまうのではないか、と思うくらいです。

うまくいったことは続ける

そして、③うまく行ったことは続けます。これは、応用行動分析的だったり、行動科学的だったりするのかもしれませんが、行動を強化するためには、うまく行った方法を繰り返すことが大切です。

ブリーフセラピーではそんなに難しく考えずに、シンプルに「なんでうまくいったのに変える必要があるの?」っていうくらいなものなのですが、意外と教師は、自分が普通的だと思う注意でできるかを試します。そうではなくて、できる働きかけでできればいいのです。もちろん、時間とともに子どもの脳は発達するので、やがてその働きかけに対する反応は自然に変わります。

それで、またうまくいかなければ、②に戻るだけです。

九九をどう覚えるか

九九を覚えるのが苦手な6年生がいます。3の段以降ズタボロみたいな。絶対に覚えられるメソッドってあるのかもしれませんが、私は知りません。

今月に入って6の段までは定着してきたと思っていたのですが、7の段が壁でした。

その子は、「し」と「しち」と「いち」と「はち」がごっちゃになってしまって、その語感にあった数字をつい言ってしまいます。よくあるやつですが、「しちにじゅうに」「しちしにじゅうし」「しちろくごじゅうし」「しちしちしじゅうに」など(いや、「しちしち」で答えなんで下がるのよ、と)。

とりあえず、音読を繰り返して覚える根性では難しいのだろうなと思いました。だって、これまで、それやってんでしょ?っていう。

その子のリソースは、歌が好きってことです。だから、かけ算九九の歌を用意してあげたかったのですが、ちょっとできていません。それも最終手段としては思っています。

じゃあ、その他に、と思っていろいろ試してみる。

「7×2」については、私はあまり好きじゃないのですが「絵で印象づける」ことにしました。その子は銃が好きだったので(ついこの間まで剣派だとか言っていたのだが)、黒板に銃を4つ書かせた。「しちには、これね!」と。「銃4」。

「7×6」は、「逆作戦」。「6×7」は、ほぼミスをせずに言えるのです。

「7×7」は、前に自分で泣き虫だって話をしていたので、Aさんらしい九九かもしれない、といって印象付けて覚えました。

ほとんど②を使った例の話ですが、この間、今年度ではじめて7の段を一度も間違えずに言えました。

たとえば、よくある方法で覚えられないことから、その覚えられない方法の回数を増やすって指導もよくあると思います。もちろん、これも、これまでとは違う方法をとっているので、②と言えば②です。

ただ、その中で、その子がもっているリソースと結びつけることができると、早く良い結果を導けるということも使えるといいなと思います。

①うまくいったならもう一度それをやれ

②なにか違うことをやれ

③うまく行っているならそれを続けろ

そんなブリーフセラピー生活。

良書の紹介。 

森・黒沢のワークショップで学ぶ解決志向ブリーフセラピー

森・黒沢のワークショップで学ぶ解決志向ブリーフセラピー

 
先生のためのやさしいブリーフセラピー―読めば面接が楽しくなる

先生のためのやさしいブリーフセラピー―読めば面接が楽しくなる

 

 

なぜ「ペンギン」なのか?

「ハピペン」という名前についてあまり聞かれることのなかった「ハピペン」です。そりゃそうですね。ブログでのこの名前を知っている人しか気にできる人はいないわけですから……。

小さい頃

 私がペンギンを好きなったのは、小さい頃によく水族館などで見てというのもあると思っているのですが、家にあったぬいぐるみは、イルカだったなあ……。

 

それ以外でペンギンとなると、思い出されるのは、4年生のときに買った「忍ペンまん丸」という漫画です。描いている人はいがらしみきおという人で「ぼのぼの」の作者です。学校の友達とぼのぼので盛り上がった流れから、忍ペンまん丸も読んだのだったと思います。とにかくまん丸がかわいい存在で好きでした。何回も1巻を読んだ記憶がある。

 

しかも小学校の中で一番楽しかった4年のときというのも関係するのかもしれない。そういう「快」がペンギンには残っている。

 

あと「かわいい」にひかれるのは、自分が小学校のときかわいいとたくさん言われてちやほやされたというキモいアイデンティティを重ね合わせているのかもしれない。そんな風にずっと、ペンギンが好きだった。

 

幼稚園の実習のときも、フェルトでペンギンの名札を作った。思えば、ずっとペンギン先生だったんだなあ。そういえば、絵本づくりの主人公もペンギンにしてた。
なかなかペンギンとの付き合いが長いことが見えてきましたが、転機は、「ファーストペンギン」という言葉を聞いてからでした。

「ファーストペンギン」

ペンギンたちが、海沿いに集まっている画像を見たことがある人も多いと思います。

このGIZMODOさんの記事みたいな感じ。

www.gizmodo.jp

ご存知の方もいるかと思いますが、「ファーストペンギン」はその中から一番最初に生みに飛び込むペンギンのことです。

ペンギンたちは、海に飛び込んだら、シャチに食べられてしまわないか、と躊躇しているのだそうです。

私もいざというときに、勇気をもって飛び込める人間でありたいと思っています。

「ペンギン的知識」

もう一つあって、これは、この本で初めて知ったのですが、「ペンギン的知識」という話です。

ペンギンは海中で泳いでいる魚を捕らえて食べます。ところがその魚を、氷上にいるペンギンの目の前に投げても見向きもしない、同じ魚が魚にみえていないという話です。

私も、たとえば、魚は生みの中にいるもの、といった固定観念で物事を見るのではなく、違う状況でも同じことや似たことに気づいたり、また同じ状況やものでも目を凝らしていつもと違った観点で物事を見つめ、多角的に見て気づける人間になりたいと思いました。


今は、「ファーストペンギン」と「脱ペンギン的知識」の2つがテーマです。かわいいも大事かな???

飛び込んで、多角的な知識を手に入れる。これを耐えず掲げて学び続けたいなと思っています。

無理をすると、ちょっと心折れそうだけどね。

 

『勉強の哲学』を読み終えた

メタ認知で死にそうになっているにもかかわらず、読みたい本は読もう!という謎のストイックを発揮している「ハピペン」です。

読み終えました『勉強の哲学 来たるべきバカのために』。自分に必要なことが書かれているような気がして、つい買ってしまい、5月4日からちょっとずつ読んでいきました。

前回書いた記事

inclusive.hatenablog.jp

 結果は、読んでよかったです!めっちゃ面白かった!

個人的には「自分らしい自分と社会の分断をどう止めるか」という、私がずっと考えているテーマに対しての論理的な回答という感じで読みました。

言葉の背後にある環境ごとに違うコードにノるということ

深く勉強するのは、ノリが悪くなることである。

位置101

この言葉、「承認欲求」とも関係するよなあ、と思う。

学級が支持的風土出なかった場合、深い学びは成立しにくいってことだ。同調圧力が強くて、ノリの悪いやつになることは、悪だからだ。

つまり、子どもたちを深く学ばせたいと思ったら、ノリが悪くても認められるような、認め合えるような支持的風土が前提として必要になる。

「何でも自由なのではない、可能性が限られている」ということを、ここまで「不自由」と言ってきましたが(中略)無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には有限性が必要である。

位置196~200

これも本当に面白い。自分をノリに合わせ過ぎても、自分本位にしすぎても結果人は無限に行ってしまう。その中では、自由が広大すぎて不自由になる。

自由っていうのは、ある程度の「自己選択感」なのだろう、と思う。自分が優位な情報や状況の中から優位なことを選べたという錯覚が「自由」という感覚につながっているのだと思う。無限の中では、すべては等価になってしまって優位という価値を感じられなくなる。

そうなると「どうすればその『自由感』を得られるか。無限でない、自分らしい自分を社会に位置付けて選択できるか」が、私たちが答えを切望する問いである。

「こうするもんだ」は、環境において、何か「目的」に向けられています。(中略)環境には、目的がある。

位置203~211

環境には目的があり、環境の目的に向けて人々の行為が連動している。環境の目的が、人びとを結び付けている=「共同化」している。

位置214

ここも、めっちゃ好き。目的が一致してなければ私たちの協働の前提はない、と言えるように思う。

環境や言語の背後にあるコードに私たちは洗脳されているのだ、という。学びは、私たちをその洗脳から脱出させようとする行為。その違うノリへと移動していくことが学び。

 そして、先日体験したLSPはコードの言葉化を手伝ってくれるツール。

inclusive.hatenablog.jp

「ここではないどこかへ感」は「学びたい!」ってことだったんだ

自己不在感が相変わらず強いなあ、とメタ認知をしながら思っていました。「ここではないどこかへ」。もうGLAYばっかり浮かぶ今日この頃でした。

でも、この本を読んでいて、それは「学びたい!」ってことだ。そして「変わりたい!」ってことだ、とコード化することができた。

浮いた語りの本質は、共同性から分離することである。
位置577

つまり、言語の脱目的化・脱共同化です。要するに、「言語をみんなの共有物でなくする」
位置580

この辺りを好き勝手に解釈すれば、孤独感だったり、自分が何者か分かったりってのは、ずっと学び続けようとしていた状態なだけなのかもしれない。

「言葉」を自分なりに生み出して、概念を生み出そうとするのは、自分なりのこれまでの自分の破壊であって、新たなことを説明するために必要だったってことだ。ただ、それとみんなとの「共通性」がなくなって、とっ散らかった感じになってしまったけれど。これが、散らからずに済んで、誰かに再接続できるかどうかが、後半で出てくる「どのソースから学ぶかの正しい選択」の重要性とつながってくる。

ただ、その「言葉づくり」も、自分のコードによって生まれているということに気づけると面白いかもしれない。ちょうど和音の流れを選ぶように、今自分の中に進行しているコードに合わせて、どんなコードがぶつかってどんな音になっているかを想像してみると面白い。環境のコードに共鳴している自分の中にあるコードがあるから、そこに響こうとするわけだ(で、これもまた、言葉を自分なりに生み出してしまっている)。

「アイロニー」と「ユーモア」

  • アイロニー=「根拠を疑う」
    超コード化からの脱コード化(無限に続くそもそも論)→現実それ自体を目指す
  • ユーモア=「見方を変える」
    言語の環境依存的なつながりによってコードを変える。

環境の外には結局環境がある。完全な環境はない。ない環境を目指すことは自分という環境を否定し「自分という環境を破壊する」ことになる。「自分エコ」なんてのが必要だろうと思う。

「絶対解」はないということ、常に二つ以上の立場があるから。その「環境と環境のコード(誰かと誰かのコード)を合わせていくこと」。ずっとそれが言いたかったのだろうと思う。「価値観を共有する・合わせる、理念を一致させる、違いを認める、折り合いをつける、最適解、納得解」など。

日本のある時代の環境下では、「価値観が均一的」だったために、画一的な教育が可能だったという解釈に似ている。

(ただ、これらは、自分の中ではどこへ向かうのだろう?他者を「あり」にって話になっていくのだろうか。たとえば、どのコードも使えるけれど、その曲の流れにベストなコード・和音はあるぞ、と?そんなのやっぱり自分の「耳」次第だが。)

「おいしい」へのアイロニー

場面を思い浮かべてほしい。

みんなでバイキングに行って、「おいしいね」って言い合ってるときに、「そっちのはおいしい?」と聞かれたとき。こう返ってきたらノリはどうだろうか?

「……おいしいって答え以外、許されてるの?(笑)」
位置758

すると、いわゆる場が白けるってことが起こる。

もう「おいしい」という曖昧な言葉には頼れなくなり、どうノッたらいいのかわからなくなる。そして全員がバラバラになってしまう。――「なんでここに一緒にいるんだろう?」
位置768

この話から、承認欲求の関係破綻が浮かんだ。関係に摩擦を生むやり取り、予定調和を越えるやり取り。

この「白け」を受け取れるかどうかは、言語活動能力が関係しているところがあるってことだ。「違いを認める」には、その背景にあるコードを受容できるかという言語能力が関係する。もちろん言語に頼らず感覚的に受容できる人もいるのだろうけど。

個人的には訓盲での「おいしいということを、この学校で教わった」という大切にしている話がある中で、「おいしい」という言葉について語られているのが面白かった。 

 

「音楽なんじゃない?」っていうユーモア

友達の恋愛の悩みを聴いているときに

「うーん、それってさ、音楽なんじゃない?」
位置893

一瞬友達は「えっ?」ってなるだろう。私はよくやってしまうのだが、自分だけが秀逸だと思っているたとえ。

日々の様々な会話の中で「あれ?何の話してたんだっけ?」ってなるときってあると思う。それは、ユーモアによって、やりとりしているコードの見方が変わり、別のコードに移っていったってことだ。しかし、その移り変わりに追いつけないとき「えっ?」が起こることになる。

コードは不確定で揺れているから、どういう発言が「決定的に」NGなのかは、誰にもわかりません。発言がなされるたびに、OKなのかNGなのか、そのつどテストされる。
次のように言い換えさせてください――会話においては、どういう発言ならば、その場のコードの「適用範囲内」なのか、というテストが行われている。
位置878

なんだか就職面接の場面が浮かぶ話だ。

そして、このユーモアの話も「承認欲求」につながる。
なぜそれを話したくて、またその内容に即時的な評価が起こるのか。
この作用によって、人は「承認欲求」を得られるための会話を選ぶという価値観が出てくる。それはそれで重要だろうけど、行き過ぎてしまっているのが、現代なのだと思う。浮かないようにするってこと。

学校が学びの場であれば、浮きは前提としてありにしなければならない。逸脱行動的な浮きではなくてね。

ありのままの揺れを認められる世界」は演出できないのだろうか。

教育において、無理に相手のコードを自分が理想と思うコードに書き換える必要はあるのだろうか。その理想と世界がどれだけつながっているかが、鍵だろうな、と思う。

 

ユーモアはコードを拡張する

これも好きな話。見方を変えれば「あり」にすることができることって多々ある。恋愛の話の中で、二股がダメだとか不倫がダメだとか話題になったとする。そこで「でも恋愛って音楽じゃない?」という見方が出て、それを許容できたとき、とある恋愛の仕方が道徳的に「なし」だったとしても、音楽的に「あり」だってことになる可能性がある(もちろん実社会がどんなことを優先しているかはひとまず置いておいて)。

ユーモアによって、ある物事を肯定する範囲を広げるプロセスが生まれる。

そして、私はどう考えれば誰もが「あり」にできるかでひねりすぎていてこんがらがっている感じだ。

 

他者は、自分を有限化してくれる

「有限化」という言葉は、この本のキーワード。

無限にたどり着けないナンセンスではなく、どう「仮固定」をして、勉強を有限化して、

私たちは個性的な存在です。しかし、100%自分発の個性はない。個性とは、私たちひとりひとりが「どういう他者とどのように関わってきたか」の違いなのです。(中略)私たちは個性的だが、個性とは「他者依存的」なものである。

 

「自分は『何者』であるのか?」ということを考え続けていた私に「他者に出会えよ」というヒントを与えてくれる考えである。土井隆義さんも「異質な他者」の重要性を書いていた。

それで、私はDAFLに行くことを決めたのだった。

 

自分だけの世界では自分は存在できない。

何をしたらいいのか分からなかったら、誰かに会おう。

会えば、あなたは、誰かではなく、あなたであることに気づくことができる可能性がある。

 

『勉強の哲学』では、「言語も他者」としている。

 

無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には有限性が必要である。

 

そして、「教師も有限化の装置である」と書いている。

 

私たちは、何を学ぶのか。アルティメットな教育は存在しないとして。

 

さて、ハピペンは、誰に出会い、何を知り、どれを有限化して深く学んでいくのだろうか。

 

ハピペン的には、めちゃ面白い本でした。人生を変えた一冊。

 

この本のおかげでkindleの良さを知れたってのも、大変良い機会だった。

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

たすくま4日目(自分を把握できるから自分を生かそうと思える)

今日はコンディションが悪い「ハピペン」です。週末、今週は、一人で乗り切らなきゃいけない日が3日もあった上、ここで雨ってどういうことよっ!?って感じです。

よって、タスクがこなせない事態も起こった!

タスクがなぜこなせなかったか

といってもそんなに深い理由はない。

雨でなんとなく行動がスローだったのかもしれない。

あとは、寝るのが遅かった。ブログに必死になって、23時になってしまっていたから。

あとは、たすくまに慣れたことによる慢心かもしれない(えっ、もう!?)。

最近は、寝ようと思って寝るというより、もう完全に寝落ちしている。起きる時間が早くなったからなのだが……この新しい早起きのサイクルと、これまでの家に帰って来てからやりたいことをやろうとする気持ちが混在していて、頭と気持ちを整理して行動を選択することが難しい。今は過渡期と思ってとにかく健康に気を付けて過ごしていきたい。

 

今日は、上記のような理由によって、鍵を忘れたと思ったら忘れていなかったなどの事態が起こって、いつもと通勤の仕方が変わった。

そのおかげで思いついた面白いことが4つあるので、またどこかで書いていきたい。

 

ただ、やっぱり、時間を意識することが0から100くらいに増えた。一緒にいる人もちょっと引くくらい驚いている。「えっ、ハピペンが計画の話をしている……」みたいな感じに。

そして、自分がしていることを俯瞰できるから、自分を把握できた感がある。私はこの「感」が大切だと思っていて、自分を把握できるからこそ、自分が空中浮遊をしてしまわずに、生かそうと思えるような感覚が沸いていて、生きていて心地よい。

 

こんな風に「たすくま」の効果は確実にある。
ただ、その周辺をまだ構築できていないので、また、それに焦ることになる。

ほかの「タスクツール」「アウトライナー」「evernote」「kindle」の連携などが乏しい。

 

 

 

 

たすくま3日目(時間の「量」と「質」)

時間に対する感覚の変化をまだ感じている「ハピペン」です。

「たすくま」のおかげで、自分が日常の中でやりたいことが可視化されていて、本当に把握しやすくなりました。

時間の「量」と「質」に気づいた

生まれてはじめての発想なのだけれど、たとえば、こういったブログにしても、書くにはそれなりに時間がいります。また、時間の「量」的なものだけでなく、気分などの「質」も重要になってくることに気づきました。

今までは、たとえば、「朝」は、仕事に行くための「朝」でした。ほとんど、起きてから家を出るまで、仕事へ行くための準備しかないのです。

やりたいことは全て夕方や夜にあります。

それを俯瞰できたことで「そりゃできっこないよな」と気づきます。

仕事は、その日によってイレギュラーが入ってきます。そのため、特に「気分」が、帰宅後はまちまちなのです。

だとしたら、一番エネルギーが安定している「朝」こそ、やりたいことやろうとしていることを入れた方がいいってことが、自然と浮かんできました。

仕事も下手に無理をすることがなく、明日に持ち越すという発想ができます(当然子どもの利益は常に最優先だとして)。

時間の「質」の話は、おそらく「自我消耗(ファスト&スローより)」「認知資源(たすくま超入門より)」「心のエネルギー論」などと関連しているだろう。どれも寝たり、休息をとったりすると回復すると言われる。だから、朝に一番あるとも言われる。

これまでにも言ったと思うのだが、自分にとって合わないと思っていたことが、これだけ楽しいっていうことがやっぱり新鮮。

嫌いなことにお宝は眠っているという感じがする。やりたくないことにある魅力に気づければ、そこいは秘宝がざくざく眠っている可能性がある。この考えは、子どもへの働きかけに生かせそう。

この記事に書かれている感覚に近い気がする。

mirai.doda.jp

 

今日は「これまででダメなら、何か違ったことをしなさい」という話をした日。それは、なんでもいい。なんでもいいからいつもと違ったことをすることが、目の前を打破できることってある。(ブリーフセラピー的な考え)

アウトライナーについても本を読み始めた。