かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「注意されること」の教育効果

やっぱり、どうしても、学級内のダメ出しの声にイラつく「ハピペン」です。

本当になんなの!?特に、一部の子は注意されて一部の子は注意されないのがたまらなく嫌だ!ヒドイ!

座ってあいさつをするときの「気をつけ」のとき、日直からの「Sさん手をひざに置いてください」って注意。

もうこの学級は、その子だけに注意フィルターがある。数えてみたらクラスの半数が手を出している。そして、その一人への名指しの注意の後、半数は出したままあいさつが進む。

 

これなんなの?って話。

 

なんのための注意なの?って。

 

もし注意に価値があるとしたら、その子が直るっていうのも一つあるだろう。

だけど、その直るってのはその場で、毎日のように言われているわけだ。

じゃあ、その注意ってやっぱりなんなの?ってなる。

その子は特に悪い感じがするから注意されるってわけだ。

 

もし、名指しの一人だけへの注意に価値があるとすれば、その一言で集団が気づいて直そうと行動できるならありだ。

 

しかし、そうでないなら、その一人を注意する価値が分からない。私はただの嫌がらせだと思う。心から直ってほしいってわけではないように感じる。

 

ターゲットはSさんだけではない。うちの子も注意ばかりされる。

給食の配膳で、3回注意された。

一回目:お椀は片手じゃなくて両手でもって!

二回目:浅いお皿置く前に置かないで!

三回目:そこに置いたらあぶない!

改善しても改善しても言われる。前回の注意が正解だったのかは分からないまま。

もう言いたいだけなんじゃないかって思う。

「いや、じゃあ、4回目は注意されなかったんじゃない?ちゃんとできて。」その可能性はある。でも同じことをやっていてもやっぱりその子だけが注意される。次のシーンで置く人が変わって片手で置いても何も言われない。

 

他にも、一人ひとりハンカチとティッシュの確認が毎朝あるのだが(私はこの時間いるかな?って思っている)、4日連続忘れた子がいた。その子は3日目にみんなの前で「ちゃんと前日に準備しなさい!」と言われ、4日目には「いざというときに命を落とすよ!」と言われる。

周りの子どもたちは、何を思うだろうか。

「そうだ。先生の言う通りだ。万が一のときのためにあの子の分のハンカチを持ってきてあげよう。」

「そうだ。先生の言う通りだ。あの子がハンカチを持ってこられるように、明日の朝連絡してあげよう。」

「そうだ。先生の言う通りだ。あの子は自分の命も守れない考えのない子なんだ。まったくバカだな。」

どれでもいいけど。命を落とすって思っているのだったら、動かなきゃダメだろう。その先生が本当に責めたかっただけでないのかが問われる。

 

私は、子どもたちが特定の子にきつい背景には、大人の態度があると思う。

その背景には「大人の指導言・指導語」がある。

大人がターゲットにしていること、どんな言い方・声・トーンで注意しているか、どんな言葉で注意しているかをモデルにしているだけなのだ。

 

この罪に気づけないなら、クラスはどんどん重たい雰囲気なっていくと思う。

目的を確かめろ。全員の行動を改善したいのか。その子を責めたいのか。その子を本当に正したいのか。自分たちを正しいとしたいだけなのか。行動が変わらないやり方で行動が変わる力をつけさせたいのか(そんな理由がありなのか知らんけど)。

 

私だったら、「あと10人でみんなできるよ」「今日は1号車が上手だね」「AさんやBさん見て気づくことある?」「今日も上手な人がいるなあ」「これが自分で自分からできたら最強だよね」「今の自分でいいか気づける人」「あとちょっとで感動しそうだったんだけどなあ」「昨日出来てなかった人で今日出来てる人がいる」「いつも待っていてくれる人を先生は偉いなって思うし感謝したい気持ちだよ」とか言うと思う。

 

 

特に、サポートが必要な子は、モデルができてこないとまず出来ないからね。その子が出来ないのはまったくもってその子の所為じゃないからね。