読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

『勉強の哲学』と『全体性と無限』

今日は風が強かったなー洗濯したなーな「ハピペン」です。

入りたくない迷宮。本を読んだ日。

『勉強の哲学』

今日は、もうずいぶん前に買っていた本『全体性と無限』に手を出した。きっかけをくれたのは『勉強の哲学 来たるべきバカのために』について書いているブログ。

そのブログさん。

take-she12.hatenablog.com

恐らくこの本に書かれていることは、私の思っていることを明文化しているだろうな、と思った。買いたいけれど、今はタイミングではないと感じるので、ブログに書かれていたことを引用させてもらう。

勉強には終わりがないからこそ、勉強をいかに有限化し、いかにこだわりにって変わり続けることができる。「それこそが究極の享楽的快楽だ」なのかもしれないし、「享楽的快楽」があるからこそ、勉強ができる、なのかもしれない。それはどちらだろうな。どちらでもあるかもしれない。

「勉強の哲学 来たるべきバカのために」を読んだ - ツナワタリマイライフ

 恐らく、本の中で、「限りのある自己探索的な勉強は享楽的であり快楽を伴う」といったことが言及されているのだと思う。この感覚は深くて広大。

「限りある」ということは「目処」や「見通し」、自分をこんな風にしていこうという未来予想図があるということである。この安心感は生きていく上で重要である。

「享楽」ということは、「快」の刺激に素直に導かれてというイメージ。ただ、気を付けなければならないのは、人は自己を追及しようとする欲求がある。その欲求に従って、自分探し的な究極の絶対解を求めるような勉強はするなと書かれている。そういうジャンルの学問もあるのだろうけれど、それはゴールのないマラソンになってしまい自分を消耗し尽くす可能性がある。だから、「享楽」のイメージに従って、ここを探索しようかなと、自分の追究したいことのあたりをつけ、勉強を有限化することが大切になる。

ここで、私は、自己の探求は「無限」なのだと感じた。それを「有限化」するには、自分の外側に存在する要因が必要なのである。そして、自分だけで自分を追及する勉強は恐らく「享楽」や「快」から離れるのだと思う。(想像しただけでも、ちょっと苦痛になりそうな感じがする)。

その「自己の探求+他者性ないし外部性や環境因が、自分の『享楽』や『快』につながり得る」という考え方に強く刺激された。

そして、浮かんだのが『全体性と無限 (上) (岩波文庫)』だった。

『全体性と無限』

エマニュエル・レヴィナスという哲学者の本。

結構とんでもな本で、序論だけで頭が壊れた。でも、言いたいことはなんかめっちゃ好き。

抽象的な言葉たちを頭の中でつなぎあわせていくのが面白かった。

「全体性」っていうのは、社会や政治などがもつ人々を包摂する理性的な価値観。

「無限」っていうのは、それを超越する観念のようなもの。

あえて「全体性」に「無限」がぶつけられているので、「無限」は「個」を指す部分もあるのかもしれない。

もう少し言い直すと
「全体性」は、「全体(仮)」からの「個」。たとえば「戦争って平和に必要だよ、だからあなたもみんなのためにがんばっ」みたいな感じだ。
「無限」は、「個」からの「全体」(もしくは「自分」からの「他者」)。たとえば「みんなに平和は訪れる。だとしたら、私たち一人ひとりは、何を受け入れて生きていけばいいんだろう」という感じ。

まず、前提にあるのは、理性的な痛みのようなものへの否定だ。とにかく平和のための戦争って嘘じゃない?辛くない?きつくない?嫌だよね?ってのがある。それを全力で哲学で批判しようとしたのがレヴィナス

私が読んでいて感じたのは、レヴィナスは、自分の外側に「無限」があるということを言いたいのだな、ということ。

「無限」っていうのは「自分の認識を越えたもの」「辿り着けないもの」「他者との関係において存在してしまうもの」「決して分かりえない出来事の意味」だと解釈した。

「無限なものの観念」という言葉も出てくる。こちらは「自分が希求する理想やよりよさ」のようなものと捉えた。

自分なりの解釈で説明すると、自分とそれ以外とのかかわりにおいては、決して分かりえない部分が存在する。その分からなさとは「無限」だということである。どう分かろうとしても人は自分の主観というフィルターを通して他者を理解するため、他者を分かろうとすることは「無限」を生起させる。しかし、人は相手を受け入れようとする。そこに分からないはずの他者を分かろうとする「無限」を越えようとする観念が消息(登場)する。そうして他者を受け入れられたときに、「無限なものの観念」が発生していて、それは理性の次元よりも高いレベルのものであるという話。

そして、他者を受け入れるという次元には、視覚的には分かりようのないヴィジョンが含まれている。「無限なものの観念」的な、他者を受け入れようとする高い次元の中で出来事は、この世界を規定し終末論につながる出来事であり得るといった高尚さがある。この出来事の解釈も「無限さ」があるものだと考えられる。

この「無限」は非常に温かいもので、要は、目の前の他者は「無限」である。だから、殺めてはならない。生きているべきかはさておき、無限として存在しているのだから、存在を消すことだけは否定する必要がある、というような解釈ができる。

出来事の解釈の「無限さ」、他者の存在という「無限さ」を受け入れることだけが、本質的な平和につながるのではないか、ということをレヴィナスは言っているのだと思う。

この考え方は、私の好きな考え方である。「どの人間も生きていていい」根拠になり得る話だ。ただ、やっぱり形而上学の域を出ないようなので、結局好きずきっていう感じになってしまうので、ちょっと弱い。

そして、これこそが「勉強の有限化」の話につながるところだと思う。

今どきの勉強って?

価値観の多様化、社会の変化が加速度を増していること、未来が先行き不透明なこと、これらの背景に私は無限を感じた。

今や、社会が有限化されていないのだ。産業改革の時期、高度経済成長の時期。生産者になっていくというヴィジョンがあって、そこにはある程度の目処があったり、どのジャンルを学ぶといいということがあったり、社会は有限化されていた。昔は、社会に合わせて自分を有限化することがやりやすかったのだと思う。

しかし、社会は予測不可能で無限化した。「世界に一つだけの花」が流行って、社会に応じた自己を見いだすよりも、もともと特別なオンリー1な自分を探究するようになった。レヴィナスが言及しているか知らないけれど、自分もまた「無限」だったのだ(当たり前に他者にとって無限だしね)。

もしかすると、実は「無限なものの観念」は「有限」ということかもしれない。自分にとって他者や出来事は「無限」であるが、それらが「自分に受け入れられたとき」「自分用に加工されたとき」、無限だったものは一部が「有限」になっているのだ。

それを基にすることで、「自分の無限化」を食い止めることができる。ただ、何度も言うように自分の外は「無限」なので取り入れようとし続ければ、「有限」を「無限」に仕入れる形になり、結果的に「自己は無限に陥る」。

そこで大切になるのが「快」だった。これは、幸福度の4因子にもつながる話で、興味深い。

自分が解き明かしたいことを、自分の脳を通して吟味し、自分にヒットしたものを追究しようとする。その取捨選択力が、これからの勉強に必要なことなのだと思う。

自分を見つめて、「快」を知り、それに合った勉強をしようとするということだ。これは、セカンドチャンスがないと言われる日本では、自己責任論に行きつきそうで嫌だなあという感じがするのだけれど、でも、これ以上に社会に応じた自分を生きるロジックはないような気がする。

自分の探究に埋没するでもなく、それを有限化し、社会にとっての有意味化することで、自分の無限と外の世界の無限を飼いならし、幸福に生きていくことができるのだと思う。

そして、その幸福、つまり「他者が抹殺されるのではなくお互いが受け入れられ有限化される幸福」こそ「存在の本来的意味」であって、レヴィナスが求めた「平和に向かうための出来事」なのではないか、と思う。

この「快」に基づく自己の有限化は、アドラーで言う幼い頃からのライフスタイル。白ネコがいうところの「一貫した行動動機」。これらが指すことも、今回話したことにつながるし、やっぱりそこに引っかかりがあって、納得したい自分がいた。

同時に、有意味化するための「言葉」も重要なはずで、どうすれば自分を殺し過ぎず受け入れてもらえるかの変数も気になるところ。ありのままでは、マニアックすぎて、無意味化し、無限に陥ると思うのだ。

私が解き明かしたいのは、これらに関係する「他人を大切にすることが自分を大切にする仕組み」だ。自分だけを生かそうとするから、生き辛いっていう視点を誰もがもてるといいな、と思うのだけれど。

広告を非表示にする