かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

家庭教育支援法?

バレンタインは、「今年は平日で無理だから」と言って前もって渡された「ハピペン」です。

 

今日は、この記事に目が止まりました。

www.asahi.com

 

「家庭教育支援法」です。

 

熊本では、国にさきがけて条例ができたと、書かれています。

 

自民党中曽根弘文・青少年健全育成推進調査会長は14日、党部会で「核家族化、地域社会の希薄化などの問題が発生し、これほど重要な課題はない。教育基本法にも家庭教育について明示されている。ぜひ承認いただきたい」と述べた。

と書かれています。

確かに、「これほど重要な課題はない」ですね。

漠然とですが、子どもに二次障害が残らない家庭教育であってほしいと常々思います。

 

親の管理下というか支配下に生きた結果社会に出にくくなるということはあると思います(すべての原因がそれではないとしても)。

 

あと、父親の「子どものことはお前に任せているんだから」的な責め。同時に子どもからも「お母さんのせいでこうなった」っていうね。もうなんとも言えないんだけど、そうしたお母さん方を結局、社会が救うしかないのではないか、と思います。

 

これだけ多様化した世の中で、学校ですら「何のために?」をチームで考える時代なのに、なぜ子育てだけ自己流である程度の成果を出さなければならないのか?それはきついでしょう、と。

 

ただ、反面、その独自性がなくなり、家族関係に何がどう影響していくかのふわふわした懸念はあると思います。

 

法律の表記についても書かれていました。

自民党の家庭教育支援法案 こう変わった

【削除】

 ・家庭教育の自主性を尊重

 ・社会の基礎的な集団である家族

 ・国家及び社会の形成者として必要な資質

【追加】

 ・家庭教育支援の重要性
【文言の変更】

 ・地域住民等の責務→地域住民等の役割

 ・学習の機会の提供→学習の機会及び情報の提供

 ・地域における家庭教育支援の充実→地域における家庭教育支援活動に対する支援

 要点が洗練されている感じですね。

 

今後、子どもが少し大きくなって、自分の成長に納得がいかないと

「お母さん」→「社会」のせいに理由が変わるのでしょうか。

 

「マジ社会ふざけんな!」と、「こんなオレに育てやがって!」みたいな?

親も「私たちのせいじゃなくて、社会の支援が足りなかったのよ!」って感じになっていくのでしょうか……。

 

あくまで、「支援」なので、必要だと思われるものを補うという感じなのでしょうが。

 

まあ、家庭がよりよくなるなら。いいなあ~、と。そんな「バレンタイン」。

「ウサギにブラシ」「子どもにスマホ」は、「猫に小判」か。

たまに夜のマックに行く「ハピペン」です。22:00前後だと若い人たちで賑わっています。談笑している人、勉強している人、辛辣な人、さまざま。前に10代後半の人たちが、発達障害について話しているのを聞いたことがあります。

 

さて、子どもの中には、学校で飼育をしている動物に愛着を持っている子どももいますよね。たとえば、ウサギやモルモット、ニワトリなんかがいます。

その中でもウサギが好きな子が多いです。
触れる子もいれば、触れない子もいて、ウサギとの距離感は子どもそれぞれ。
学校ではじめてウサギに会う子もいるみたいです。

先週、そんなあまりウサギ慣れしていない子のウサギのかかわりを見ていて思ったことを話します。

【進む「ウサギ理解」】

面白いのは、ある子(Aさん)は一年を通して、ウサギとかかわっていました。
結局、最後の最後まで抱くことはできなかったのですが、最終的に「ちょん」と触れるまでにはなりました。

それでも、面白いのは、ウサギが好きでよく会いに行っている中でAさんの「ウサギ理解」が進むことです。

毎回、私が付いていっているわけではなく、いろいろな先生が付いていくのですが、久しぶりに私がついていってAさんのウサギとのかかわりを見て驚いたのが、「ウサギさんブラシ食べたいの?」と言ってブラシを与えていたことです。

「えっ!?ブラシ?」と思ったのですが、Aさんは水入れを洗うブラシをウサギの前に置きました。


すると、ウサギは確かにブラシの毛の部分を噛み、噛んでは持ち上げるということを繰り返していました。

子どもは「ウサギさん、そうやって遊びたかったんだねー」と言いました。

私は、子どもの「ウサギのための思いやりというか、一生懸命さというか、無垢さのようなもの」に少し関心しました。

でも、その瞬間浮かんだのは「いや、喜んでりゃいいのか?」っていうことです。
やっぱり「ウサギがブラシを噛んで楽しんでるんだか、食べたいんだか」のかかわり方はおかしいと思ったのです(まあ当然に……)。

そして、でも、この動物だからかなんだかはよくわかりませんが、「楽しませておいておけばいい」という感覚が「子どもにスマホ」に似ていると思ったのです。

「ウサギにブラシ」→「猫に小判?」→「子どもにスマホ」ってな流れ。

【なぜ「子どもにスマホ」を与えるのだろう?】

果たして「子どもにスマホ」は「猫に小判」になり得るのか。

ちょっと調べてみました。
「幼児 スマホ」で検索

maternity-march.jp

mamanoko.jp

baby.mikihouse.co.jp

上記3つのサイトです。よくなさそうな記事が多いです。

 

実際は「子どもにスマホ」は「猫に小判」なのではないだろうか。

Aさんが、「ウサギにブラシ」を与えたように、ただ楽しんでいるから、時間をつぶさせたいから、楽しませてあげたいから、という理由だけで、反応が得られるものを与えるのはいかがなものか。

「ウサギにブラシ」は、物の目的外使用が気になるのだと思う。

「子どもにスマホ」の違和感も似た者だろうか。

電話が連絡事項の伝達の道具から、日常会話のコミュニケーションツールになり、写真を撮る道具になって行ったように。

今やスマホは「子守りの道具」として「目的外使用」ではなくなったのだろうか?

「子どもにスマホ」を与えることについて、その心境が「ウサギにブラシ」を与えるような心境とは違うものなのか、自分に問いかけてから、スマホに子守りを委ねられるといいと思う。

 

「ママのスマホになりたい」って本もある。

ママのスマホになりたい

ママのスマホになりたい

 

 スマホは人とかかわるためのものであってほしいなあ。

そして、「スマホの向こう人」よりは「目の前の人」を大切にする感覚は尊重されていってほしい。

 

当たり前に「スマホの向こうの人 < 目の前の人」で。

 

「普通」を望む気持ちはどこから来るか(その1)

冬は鴨南蛮にはまっている「ハピペン」です。なんとなく共食い感?そういえば、椎茸が大量に入っている鴨南蛮に出会ったときは驚いた……。

 

やって来た「〇〇が嫌だ」

たとえば「Aさんが嫌だ。」

 

それって、どこからやってくるのだろうか。

個人的な思いか、社会的な思いか。

 

Bさん「私はAさんが嫌だ。」

Cさん「Aさんは、Bさんに嫌がられているから、私もAさんが嫌だ。」

 

Dさん「Aさんは嫌われて生き辛そうだ。ねえ、Fさん、Aさんみたいになっちゃだめだよ?」

Eさん「そうそう、Aさんは『普通』ではないよ、みんなみたいに『普通』の方がいいよ。」

 

Aさん「今日も天気がよくて、いい一日だった。これが僕たちにとって『普通』なんだけどね。Zさん明日も遊ぼうね。」

Zさん「うん!またねー!」

 

その人なりの『普通』がつくられていく

どの大人も、子どもに携わる人は、自分の<人生観>・<社会観>をもっている。

その大まかな風潮や方向性を担っているのは、国の姿勢だろうか。

もし、それが、同じ視点で共有されるならそれでいいけれど、やっぱり、それがそこまで生きてきた<人生観>・<社会観>によってしまうから、結局、禅問答になっていくだろう。

 

ところで、親は子の幸せを望む。

自分の子どもがそれで幸せになった場合、もしくはならなかった場合。

それを参考に子どもに与えるということが起こると思う。

 

大学に行った親は、他の子どもたちも大学に入った方がいいと思うかもしれない。

大学に入れられなかった親は、他の子どもたちは大学に入った方がいいと思うかもしれない。

自分らしく生きた親は、他の子どもたちも自分らしく生きた方がいいと思うかもしれない。

自分らしく生きられなかった親は、他の子どもたちは自分らしく生きた方がいいと思うかもしれない。

様々な価値観がある。就労や自立が前に来ることもある。

 

学校としては、社会参加できる。社会の役に立つ。そして、それが自分らしいと思える。といったところを大切にして、子どもたちの未来を見据えているのではないだろうか。

けれど、よりマクロな視点で見ようとなったとき、クラスの一人くらいは置いていかれる可能性もあるのだろうか。

ここは大きい謎です。通常級にいる発達障害の子は、成績はさておき、共に活動できることが優先されるのか。はたまた、みんなと同じ活動をすることに意義があるのか。

環境か、学力かってのは、永遠の課題のような気もするけれど、やっぱりそれこそ、そこにかかわる大人の<人生観>・<社会観>から来る、優先順位によるのだろう。

 

一般化と絶対化

しかし、大人それぞれの価値観が多様なのと同じに、どの価値観が子どもを目標に近づけるかは、子どもそれぞれに違うと思う。

手段の価値観と、目的の価値観。この掛け算が問題になる。

さらに、<子ども>自体も掛けられているかどうかが重要になる。

その子の実態に合った価値観が必要ってことだ。その子が望む、その子が行きつきたい、その子が幸せなのは何かってことだ。

 

手段と目的は両方とも変数であってほしい。

<目的>にどんな値を入れるかで、<手段>も変わる。解は、子どもの未来といったところ。

<子ども>×<手段>×<目的>=合意された子どもの未来」ってことだ。

 

そうなると、目的や手段の一般化と絶対化が問題なのかもしれない。

<子ども>に関しては、実態なので、周りの大人が変数を操作しにくいところである。

<子ども>を無視せず、それに合わせた<目的>・<手段>の変数を考えることが大切になる。

 

<目的>・<手段>は、価値観に翻弄されるから、大人の恣意的な要素が入り込みやすいと思う。

だから、大人は社会や人間について知っている必要がある。

(そうした価値観の多様化の中、手っ取り早く根拠で話を進められるように、エビデンスが求められている部分もあると思う。)

 

その変数を導くためには、再三言われている話し合いが必要で、話し合いによって合意を形成して(<目的>・<手段>の見通しをもって)、活動を進めていくのが合理的配慮ってことだ。

 

私たちは、どこにいたら何をするのが普通で、それ以外は普通ではないのか?

だとしたら、私はもうちょっと大きな枠が『普通』になればいいだけなのに、と思う。

 

ここまできて分かるのは『普通』って個人的なものではなくて、『普通』はかかわる人たちで合意して紡ぎ出されていくものだってことかもしれない。

子どもの心を育む?(「レジリエンス」について)

最近地域でのあいさつに力を入れてみている「ハピペン」です。

登校指導で、通学路に出た際、目に入った人にはあいさつをするようにしています。イヤホンをしている女性、自転車に乗っている人、スーツ姿の4人組、ちょっと声が小さくなりそうになるときもあるけど、挑戦しています。「当たり前」と思ってやれば、返事をしてくれる確率が上がるなあと思っている今日この頃。

 

さて「レジリエンス」これは、最近子どもたちに必要なのではないか、と考えている力です。
「レジリエンシー」とか、「弾力」「立ち直り力」「回復力」「復元力」など、さまざまな言葉で表現されることがあります。

一番最初のきっかけになったのは、この本。

いじめない力、いじめられない力 60の“脱いじめ

いじめない力、いじめられない力 60の“脱いじめ"トレーニング付

 

たとえば、「いじめを根絶する」として、学校は徹底的にいじめに対応していく。教師が協力して環境を整えていく中で周囲の改善は見られる。

 

けれど、今一歩踏み出せないこともある。


そうしたとき、極限まで環境整備を優先するものの、一人ひとりの成長も必要になってくるのかもしれないと考える。

賛否両論あるのは当然として書いていくけれど、

上手く一歩踏み出せないといったとき、理由は二つあると思う。

・いじめの後遺症
・いじめられた子の力

の二つだ。

後遺症が続いて一歩踏み出せない。

その中を歩き出す力がなくて一歩踏み出せない。

その二つに向けて「レジリエンス 」を生かしたい。

 

いじめは、いじめる方が100%悪い。それは当然として、ちょうど、いじめが犯罪と変わらないと言われるのと同じように、犯罪者がつかまっていなくなれば、被害を受けた人は復活できるわけではない。
いじめを受けた事実は永遠に変わらない。
そうした中で、さらに、環境を整備していくことで安心につながって今まで通りに復活できることもあると思う。
警察のパトロールを増やしましょうとか、外出時には大人を付けましょうとか、それでも復活できない心もある。

そこへのアプローチとして、心が回復するためのロジックが必要かもしれない、と考えるわけだ。
そこで出てくる<レジリエンス>、具体的な方法論として参考にした本は、これ。

 生きていれば嫌なことは起こる。というか、嫌なことどころか、犯罪に巻き込まれることもある。

その心の傷をどう回復するか、それは無理矢理に強制されてこういう考えを手に入れたんだから治れというものではなくて、少しでも前向きになってもらうこと。

不安なときとか、悩みが大きいときっていうのは、まるでこの世界に一人で取り残されたような気持ちになる。
周りの人が何を言ってくれても心に響かないところがある。
それでも、本っていうのは、不思議なもので、なんでだかは分からないけれど、とにかくまるで客観的に感じて(それは結局自分の受け取り方による主観だからっていう理由かもしれない)、癒されるところがあると思う。
少しでも前向きに進むために、その本にある言葉たちがちょっとだけ背中を押してくれるというか、さすってくれるように思う。

まあ、結局は「君が隣にいること完全肯定」状態なわけで、それはそれは、「君のそれってありだよ」「地球上でありな話なんだよ」って安心感。

おおっと話が飛躍しそうだが、話を戻すとレジリエンシーは、「立ち直り力」で、この力がたとえば学級全体で高まっていくと、いじめに負けないというか、いじめを生み出さないというか、一人ひとりを補い支え合えるような集団になり得るということが、この本に書かれていて、エビデンスも示されている。
そういうわけで、一つ、児童の心の力につまずいたら、「レジリエンス」を頼りたいところ。

「レジリエンス」の励みになる大事な考え。

□人は誰でも立ち直れるということ
□立ち直るときに人は成長し、心が強くなるということ

喜怒哀楽のある人間の毎日を乗り越えるには、これなんだとおもうぜ!

 

その場で解決しないこと

朝はラジオ派の「ハピペン」です。一時「前前前世」と「恋」ばっかりかかってたなあ。

 

今日は、「その場で解決しないこと」について書きます。

 

子どもは子どもなりに必死に生きていて、自分の考えを前面に押し出して生活している。

それによってぶつかることもある。大概、自分たちで解決するのを見守ることが多い。

けれど、暴力・暴言、授業妨害している自分を自分で押さえきれていない場合、「あんまり」だなと思う場合は、私が口を出すこともある。

 

今回は「あんまり」だなと思う場合の話。

一応前提として、私は「衝突の修復が関係を深める」ということを大事にしている。

 

下の学年の子(Aちゃん)が、上の学年の子(Bさん)に「もう縁を切る」と言った。

するとBさんは「わかった」と言った。

するとBさんと仲良くなりたい子2人が近寄り、Bさんの味方についた。

Aちゃんは悲しんだ。

 

Bさんは、心が辛かったころAちゃんに大変お世話になった子である。

特性もあってか、「縁を切る」の言葉に気持ちを支配されてしまった。

いつも散々親に文句を言っているにもかかわらず、「親にいつもやられたらやりかえせ」って言われているからって理由で、「こっちも縁を切る」と言う。

 

休み時間から6時間目まで関係が修復されずに放課後になった。

私は「あんまり」だなと思った。

「あんまり」だなと思ったのは、特性で頑なになってしまうところがあってもいいけど、一般論を知った上でそうなのか、冷静になっても周囲の子に翻弄されて、下手すると後戻りできなくなるのではないか、ということだ。

 

人は言葉を間違うこともあるし、本心が違うこともある。

そういういろいろを伝えたくなって口をはさんだ。

 

けれど、Bさんは、勢いよく帰っていった。

Aちゃんには、「今日の今日だから、すぐ元通りっていうのは難しいかもしれない。けど、あの時そういう気持ちになったAちゃんは悪いってわけではないし、また伝えられることを伝え続けてみようね。Bさんを信じようね」って言った。

 

Aちゃんは6時間目中泣いていた。

 

次の日、お互い笑顔で話していた。

 

これは、先週起こったことなのだけど、今日「どうやって解決したの?」と聞いた。私は親が間に入ったかな、と思ったのだけど。

Aちゃんは「次の日の朝、謝ったら許してくれたよ!お互い家に帰って冷静に考えたら許そうって思えたんじゃない?」って言ってた。

「じゃあ、よかったね」と私。

 

家で考えられた理由に、私が間に入ってなんか言ったからって思えたら自分の心残りはないのだけど、そんな偉ぶった成果を見いだすような驕り高ぶりより断然多く浮かぶのは、「もっと子どもって信じなきゃだめだな……」ってことだ。

 

もちろんかける声はこの先も結局かけちゃうと思う。

そのかける声に応えられるってことも含めて子どもを信じる。

 

そして、ただ、自己保身だかなんだか、親の不安を拭うだかなんだか、子ども以外の理由で「その場で解決する必要はない」んじゃないかな、と思う。

 

誰のために「その場で解決」するのか?

何日かかろうが、子ども同士の中で変化を生み出せたとき、本当の成長や変化につながると思う。

それこそ「衝突からの修復」。そんな「その場で解決しないこと」の話。

「にんげんがさき 点数があと」

脳の慢性疲労を感じている「ハピペン」です。純粋に頭を使いすぎる出来事が多すぎて、ショート気味です。なんとなく後頭部の体温が常に高い印象があって不安。

それでも、元気に行ってしまうぜ!って金曜。

 

学校の職員室の前に「にんげんがさき、点数はあと」と書かれたポスターが貼ってあって、たまにふと思い出す。

 

それと、今日話したことが重なったので、書いてみます。

「よりよく」へ

本校の教育目標に「よりよく生きる」という言葉が入っています。

高め合う、学びあうだと言われている昨今、それにもかかわらず、見事に低め合いの姿を見せることもある子どもたち。

 

学校教育目標に向かってカリキュラムマネジメントをとも盛んに言われはじめていますね。ちょっと、学校教育目標を生かして、子どもたちに前提を捉え直そう!と考えたのです。

 

朝の会で話したのですが、私たちは「よりよく」に向かっていると。

「よりよく」ってことは「よい」から「よい」なんだよ、と。

だから、ここにいる誰も悪い存在っていう前提はこの学校にはない。

だから、誰も否定しなくていいし、みんな「よい」んだから、さらに「よくなっていくにはどうするか」を考えるだけなんだよ、と。

 

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誰かを否定して、足を引っ張りあって、蔑みあって、なじり合って育つのはやめよう、と残り30日、アンカーを打った。(若干プライミング効果頼み、もちろん仕掛けはするとして)

 

これと「にんげんがさき、点数があと」は重なるなあ、と。

 

「人間か先、点数は後」

調べてみると、これも「あいだみつを」さんの詩なのですね。

にんげんはねぇ
人から点数をつけられるために
この世に生まれてきたのではないんだよ
にんげんがさき 点数があと

もし、<性善説>ってことで、人間に「わるい」はないとしていいなら、前者の「人間が先」は、人間同士の関わりのよさを伝えることかな、と。

そして、人間同士の関わりは、失敗を繰り返し、衝突を繰り返し学び深まり強まっていくと考えます。

つまり、今を「よい」として「よりよく」なっていくしかないのです人間関係ってのは。

対して後者の「点数があと」は、学力の面、こちらは、点数ですから善し悪しがありますね。「わるい」と「よい」があることなのです。

これが先になってしまうと、つまり前提が「わるい」→「よい」になってしまうのだよなあ、と感じました。

「よりよく」を先行させて、「よい」→「よりよく」で人間関係がよくなれば、点数の「わるい」→「よい」も、それこそ高め合い、学び合いで「よりよい成長」につなげることができるのではないか、と思ったのです。

 

そのためには、やっぱり日常の中で、教師の評価が学力のできた・できないより、人間関係への視点についての言葉かけが増えればいいのかな、と。

 

やっぱり、周囲の大人が、人間関係より学力を気にしていれば、子どもはそれで子ども同士を評価し合うようになると思うのです。

 

これまでもこれからも、当面の日本は「よりよく」を目指す

暮れの答申から

そこで本答申は、学校を変化する社会の中に位置付け、学校教育の中核となる教育課程 について、
よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創るという目標を学校と社会とが共有し、
それぞれの学校において、必要な教育内容をどのように学び、どのような資質・能力を身に付けられるようにするのかを明確にしながら、
社会との連携・協働によりその実現を図っていくという「社会に開かれた教育課程」を目指すべき理念として位置付けることとしている。
これによって、教職員間、学校段階間、学校と社会との間の相互連携を促 し、更に学校種などを越えた初等中等教育全体の姿を描くことを目指すものである。

この先も、今の「よさ」もちゃんと認識しつつ、次の「よりよさ」に行けるといいな、と思う。

 

もちろん悲観しなきゃいけないことは、山ほどあると思う。

けど、「わるい」が円満するだけでは、昨日、今日、明日、今幸せを感じちゃった人はどうしたらいいか分からない。

何度か、どこかで書いているように、「雰囲気」の力は計り知れない。

この社会に明るいところも山ほどあることも忘れてはならないし、この社会の明るさも子どもたちに伝えていく必要がある。

だからこそ「明るさを感じられない人の辛さに共感できて、明るさを増やしたくなる」っていうそういう発想でいたい。

 

だから「よい」to「よりよい」を伝えてみようと思う。

誰も誰かを否定しなくたって、ちゃんとみんなで幸せは生み出せるんじゃないの?って。

「出遅れること」と「居場所の取り合い」と「嫉妬による憎悪」

洋服を買うか迷ったときに、結局買わなくて後で後悔する「ハピペン」です。

買う後悔か、買わない後悔かって本当に難しいところですよね。その癖なんか、いかめしみたいなリュックは買ってしまった……。

 

前のエントリー 

inclusive.hatenablog.jp

 と関連するものです。

 

「出遅れること」。
人は普遍的に「出遅れ」を感じることがあり、その憂いの穴埋めに右往左往なのではないか、と。

 

この「出遅れること」のはじまりはどこかをまず考える。
そして、その「出遅れ」を防ぐために人は「居場所を確保」しようとし「居場所の取り合い」が起こる。
また、人はどこにでも同時にいられないために、自分がいないときに自分のいない場所が誰かに奪われることから「嫉妬による憎悪」が沸く。

この「嫉妬による憎悪」はストレスになり、問題行動につながる可能性がある。この「嫉妬による憎悪」はそもそも「居場所のなさ」や「出遅れているかもしれない」といった<不安・つまらなさ・怒り>から来ているということを知ることで、生きやすくなるのではないか、という試み。(<メタ認知>、<自己認知>が進むほど人は生きやすくなるっていう仕組みと、まあ同じだろう、と思う。)

 

「出遅れること」はどこから来るか?

私は「出遅れ」は、生まれてから他者を認識できるようになったときにはじまるのではないか、と思う。(下手するとここから劣等感がはじまるわけだ)

 

人がなぜ話せるようになるか、と言えば目の前に「話している人」がいるからで、

人がなぜ歩けるようになるか、と言えば目の前に「歩いている人」がいるからである。

 

どうして、自分の目の前にモデルになるような人がいるとそのようになれるか、と言えば、それは「なりたい」からである。

そこには意識にはないかもしれないが、(★)「まだ、なれていないもの」と、「すでに、なれているもの」の差がある。

 

そんなの生きた年月が違うのだから当然じゃないか、というのは、ある程度年齢が上がった子どもや大人の話で……。

 

そして、(★)のセンテンス「まだ、なれていないもの」と「すでに、なれているもの」の状態は、生きていればいつでもどこでも起こり得る。

私たちに欲求がある限り起こるのかもしれない。

私たちは、誰かと一緒にありたい、誰かと一緒でありたい。そういう気持ちから、「出遅れること」の不快に気づくようになる。 

 

「行為」から「経験」へ

たとえ話せるようになって、歩けるようになって「行為」として同じことができるようになったとしても、「出遅れること」を感じることは起こる。

たとえば、「時間・空間」による違いから、同じ「経験」ができないといった「遅れ」である。

集団の和に後から来たために話に入りづらかったり(時間)、自分だけ年齢が低いために話に入れなかったり(時間)、そもそもの居場所のスペースの問題で入れないこともある(空間)。

 

次第に、時間の違い、空間の違いで、経験が違うことへの「不快」に気づくようになる。

「遅れること」による経験の違いの「不快」は、大小あるがいつでもどこでも起こる。

部屋に入る順番、電車に乗る順番、コンサートの席数、エレベーターに乗れる人数。

これは、要は「順番」(時間)と「在・不在」(空間)ということだ。早いか遅いかという時間によって、いるかいないか空間を手に入れられるか(認知できるか)の違いである。 

 

「遅れること」のはじまりにあったのは、「他者と同じになりたい」という気持ちだった。その同じになりたさが、話す→歩くのように次々にクリアされてくるとハードルも上がっていく。

そして「行為の同じさ」から「時間や空間の共有の同じさ」に変わる。「行為が同じになること」から「得られるかどうか(時間の早い遅いで空間などの「快」が得られるかどうか)」が考えの中心になる。

「時間と空間の同じさ」をなるべく共有するには、「先に行う」ということが必要になる。

食卓の会話に遅れないためには、誰よりも早く起きて、キッチンに座っている必要がある。

クラスの会話に遅れないためには、たとえトイレでも誰かと行く必要がある。

この裏には「不安」があることが想像できる。
「自分の知らないうちに重要な現実があるかもしれない」という「出遅れることへの不安」である。

 

そこで、前回の記事にあったように、

母親は、子どもが出遅れた認識をもつにいたった経過を察していたので、食卓のサービスを少しよくしてやる。子どもはじきにきげんを直して、学校に出かける。

「出遅れること」 - 「それでも幸せな人はいるから」

たとえ、出遅れたとしても「よさ」があることや、出遅れても「安心」があることが分かれば、この「居場所の取り合い」は起こらない。

 

このケアが出来きらない場合、「居場所の取り合い」は延々とつづき、抜け出せず子どもは次のステージに進むことになる。

 

大人になって脳ないし心が成長してくると、その「遅れ」は、それぞれ別のことに時間をかけただけのことなのだ、と分かる。(場合によっては、社会的に求められないことに時間をかけて後悔し「遅れ」を感じることがあったとしても、それもまたどうしたってかけがえのない経験である。)

 

そして、たとえ、そこに自分がいなかったとしても、世界には連続性・同一性があることが分かり、自分を生きられるようになっていくはずである。(他律から自律ということに近い。他者に振り回されなくとも「快」を手に入れることができるようになるということだろう)

 

「居場所の取り合い」で満たされるか?

・居場所を取られて損をした
・居場所を確保しなかったせいで不安な目に合った

など、こういったことが続けば、「居場所を手に入れられないこと」にマイナスの感情(怒り、憎悪、恨み、苦しい、辛い、悲しい、許さない)が沸く。

これの大きな問題は、他者との比較によって「遅れること」への「不快」が生れていることである。まるで翻弄されてしまっていると言ってもよい。

そのマイナスの感情が深くなりすぎれば、もう「居場所は奪うものでしかない」という考えに辿り着くしかない。

母の膝の上が一人専用なように。頑張っても両ひざで二人までなように。本当はできれば一人占めしたいように。その感情が沸けば、先に乗っている方を倒すしかない。

たぶん、ならルールを決めるといい、という話になると思う。

けれど「居場所は奪われる」と思っている場合、そのルールに裏技が生まれる可能性が少なくない。まして、ちょっとした家の中での出来事である。

早く起きて少しでも確保しようとする兄弟がいれば、そんなのずるい!とまた争いが起こってもおかしくない。

そこにやっぱり、この匙加減の巧妙さを感じる。

母親は、子どもが出遅れた認識をもつにいたった経過を察していたので、食卓のサービスを少しよくしてやる。子どもはじきにきげんを直して、学校に出かける。

「出遅れること」 - 「それでも幸せな人はいるから」

 これだけのことと言えば、これだけのことである。そこに、たとえば「お兄ちゃんだから我慢しなさい」は、存在しないのである。

 

「あいだみつを」の

奪い合えば足りない

分け合えば余る

 が浮かぶ。

 

ここで、マイナスの感情、まとめると自分より<よさ>(安心など)を味わっていることへの「<嫉妬による憎悪>が解決したいことはなんだったのか」。はじめに戻って考えたい。

 

 「嫉妬による憎悪」が解決したいことは?

はじまりは「あなたと同じことがしたい」という「行為」であった。

そうして、「あなたと同じ時間・空間にいたい」という「経験」を求めるようになる。

これらの「あなたと同じ」ができないときに生まれるのが「不快感」であり、その正体は「不安」である。

これを拭うために必要なものとして「安心」というキーワードが出てきた。

 

「嫉妬による憎悪」が解決したいことは、「不安」である。

 

「不安」を拭うことができたら、「安心」は生まれる。

 

そのヒントが、ここにある(しつこい、3度目)。

母親は、子どもが出遅れた認識をもつにいたった経過を察していたので、食卓のサービスを少しよくしてやる。子どもはじきにきげんを直して、学校に出かける。

「出遅れること」 - 「それでも幸せな人はいるから」

これを「出遅れること」に対する最大のヒントとするならば、見えてくる一つの答えは、「その気持ち分かるよ」って働きかけである。

 

この「分かるよ」を演出できているといい。

それは、「合図」「言葉かけ」「サービス」「共感」「励まし」なんでもいいのである。そこに存在する自分の在り方気持ちに「気づいてくれる人がいれば」、そこの居場所はその人にとって「在り」ってことになる。

これは、その「不快」を感じた居場所が「快」に転換するってことである。

<よさ>を感じられるってことだ。

 

それは、誰かが「出遅れた」と感じていることへのケアやフォローってことだと思う。

そして、「それでもいいんだよ」って「相手のありのまま」を「受け入れられる姿勢をもつこと」。

 

そうして、もし「居場所のベース(家庭でも習い事でも)」(いわゆる安全基地、安心できる居場所)をもつことができれば、その「ベース以外での居場所(学校や友達関係)の確保合戦」に翻弄されずに、落ち着いて(お互いを尊重し合って)過ごせる可能性が高い。

「阿佐ヶ谷芸術高校映像化へようこそ」(少年ジャンプ2017年9号読み切り)

たまに漫画を見て本気で感動している「ハピペン」です。久しぶりに感動して少年ジャンプを買いました。たまにそういうときがあります。前回は2012年50号の「ナルト」で感動して買いました。

 

今日発売の2017年9号「阿佐ヶ谷芸術高校映像化へようこそ」がよくて、自分でもビックリしたのだけど4年半ぶりぐらいにジャンプを買いました。

 

「阿佐ヶ谷芸術高校映像化へようこそ」

原作:マツキタツヤ

漫画:宇佐崎しろ

Cカラーで、タイトルの表紙絵には、「『映画の撮り方』教えます!」とあります。

 

なんとなく「あらすじ」

高校生の女の子「柊雪」が主人公。

母親と二人で暮らしているが、母親は夜友だちを連れてくる日常なようで、友だちが来ている間は、部屋から出てこないでと言われ、映画を与えられ、主人公は「自分には映画しかなかった」子ども時代を過ごしている。

母親は、雪のくつを玄関から部屋に運ぶほどの徹底ぶり。

 

「芸術高校映像化」ってことで、映画監督になりたい人たちが入る学校な様子。

周りには、マニアックだったり、個性的だったり「こういう映画が撮りたい!」といういわゆる「自分」を持っている人たちが集まっている。

そんな中、柊雪は、どんな映画が撮りたいかは分からない、けれど「世界ってなんだろう、自分ってなんだろう」という気持ちから映画を撮りたいという気持ちになったと語る。

 

担任が言う「映画論」が柊と私の背中を押す

柊いわく「本当に教師!?」な、ガツガツした担任「黒山墨字」。

物語は、終始柊と担任のやりとりが主で、進んでいく。

そして、ごちゃごちゃーっと野蛮な担任といろいろあり、その野蛮な担任の映画を見て柊は感動する。その映画は一般ウケするもんではなく、映画はもっと万人ウケすべきと批判される。

そこで、担任は、映画について語る。

「理解されたい、共感されたい、その想いで自分を誤魔化し始めたら、映画監督(人生)に意味はなくなります」と。

 

その後、飲みに行くシーンで、酔っぱらった担任がまた言う。

担任「世界とは何か、自分とは何か、オレ達は皆それを探し求めている。」

柊「探すってどうやって」

担任「知るか。だがその一端を見つけた時、オレ達はコレを誰かに伝えたいと思うんだ。それが映画だ。」

 

そして、終盤、柊は処女作を学校で発表する。

担任は「監督の切実さしか伝わってこねぇ」と言う。

そして「それ以外は意味不明……それでも誰かに観て欲しい……」

担任は続けて語る「お前らよく覚えとけ……これを映画という……そして、自分の映画を誰かに観せた人間が、自ら映画監督を名乗る覚悟を持ったとき、映画監督は生まれる」と。

 

なんだか、この「映画」の部分を自分が苦手とするというか、やりたいけど見せていないもののような、本当は一歩踏み出せていないけれど踏み出したいものや、踏み出さなきゃいけないと思っているようなものに当てはめると、心が動くのを感じた。

 

誰かにそれを観せて、その技術者を名乗る覚悟を持とうとすることができるか?

 

批判も非難も恐れず

人はどうしても否定されるのが恐い。完璧を求めてまだ「できない」ってことにして公開しないことも少なくないように思う。

「やる理由」よりも「やらない理由」を無理矢理見つけて踏みとどまっているときもわんさかある。

教師は当然子どもに社会に最善の利益を与えたいと考えて全力なわけだけど、それと同時に、「ただかっこよくありたいよな」って視点で踏ん張れるときもあると思う。

ちょっとでもかっこよくありたいから、踏み出してやろうじゃねーか!見てろよ子どもたちっていう意識をもらった「少年ジャンプ」の話でした。(書いていたら、心が幼くて少年のままで成長していないだけなのかも……と不安になってきた「ハピペン」なのでした……。)

さあ、はじめの一歩を残さない、全速力で転べる自分へ。