かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

続・人間らしさってなんだっけ(旧:生きるって楽しいじゃん)

 続・人間らしさってなんだっけ。

 「人間らしさってなんだっけ」で、「人間らしさ」の判断基準みたいなものはたくさん書いたのだけど、具体的な振る舞い方については書いてなかったな、と思って、続・人間らしさってなんだっけの項を追加しました。
 そして、これが「人間らしさってなんだっけ」で言ってた、「人権VS.人権」についての考えを深めることにつながると思って書いていきます。

 人間らしさってなんだっけでは、「人間らしさ」のさまざまな基準、たとえば 「その人がいるおかげで『みんな』が生きやすくなる方を選ぶ」  「人権侵害しない」  「人間誰しもの幸せを壊さず、自分の行動をコントロールしたいと思える人」 など、これらを書いた。
 これらの振る舞いに、どのような効能があるかと言えば、この振る舞いによって「人間一人ひとりが大切にされる」ってのがある。

 人が大切にされるってことはなんなのかって言えば「生きるって楽しい」とか、「生まれてきたかいがあった」とか、「自分の人生は生きるに値する」とか思えることで、人間らしい人生につながるものだ。
 これらは、生きる喜びであり、生きる喜びを感じることは、生の醍醐味である。

 ところで、ある夢の国は、一生の思い出を作れる力があって、悲しんでいる誰かが生きる希望を抱いて、明日から元気に生きていこうと思える場所だという。
 私たちにはそんな大げさなことはできない。また、私たちには、そこまでのエンターテインメント力はない(あったら、行列ができてやばい)。けど、そんな力がなくても、私たちが人間らしさを発揮し、誰かを大切にするってことは、誰かを生かすことは、誰にでもできることだ、と言いたい。

 へぇー、それは、具体的にはどんな風に振る舞うの?って話なんだけど。

 続・人間ってなんだっけの話も踏まえると、人間らしさってのは「つながりを大切にすること」だ。では、どうすれば、大切にしていることになるかっていうと、それは「存在を完全肯定する」ってことだ。同等の立場で主張を聞いたり、決定権を等分したりする(相手も自分もである)。 もう少し説明すると、「自分が何ができても、できなくても。相手が何ができても、できなくても。」、「自分が何かを持っていても、持っていなくても、相手が何かを持っていても、持っていなくても。」今という命と時間を共有して対等なものとして扱う。目の前にいる自分たちで共存し、選択していくってことだ。

 そして、これは、いわゆる「民主主義」だ。私たちは、本質的には、この対等さが大切なことをよく分かっている。日曜夕方のあれらが絶えず人気なのは、あの家族が民主主義的な家族だからという話を聞いたことがある。弱い立場の者も強い立場の者にものを言うことができる関係。このお互いの尊重は「人間らしい」と、私は思う。

 このお互いの尊重がいかに「人間らしいか」について「親と子の関係(大人と子どもの関係)」を参考に書いていく。

 ここで、伝えたいのは「人権意識の大切さ」で、人間を大切にするには、人権意識が必要になる。そして、人権意識は「大人から子どもへの連鎖」があり、大人の振る舞いや人権意識が人間を大切にする世界を目指すには必要だ、ということだ。

 まず、3回目の繰り返しになるけど、「歴史の言うことにも大きな意味がある」と思いたい。誰もが生きていて、誰かの目の前に存在している意味があるのだ。誰かに何も渡せない人生は絶対に存在しない。先人も同じように誰かのために存在していて、先人の言葉は無駄ではないはずである。たとえば、判断材料の一つにはなる。その人の言うその言葉に従うか否か、刃向うのか刃向わないのか。
そして、先人が何かを言って、それでお互いの意見が割れてしまった場合、「ならば、いざ尋常に勝負!」ってわけじゃない。大抵の場合は、どうしたって後世はこの世に来ての期間が短いわけだから、歩み寄るべきはいつだって大人なのだと思う。優秀な先人、先を行く者たち、人生の先輩の(はずの)大人たちは、もう少し、子どもの側に寄り添ってやることはできないだろうか、ってことだ。「その歩み寄れないような人権意識こそが、人間らしさを失わせちゃいないか」って。

 本来、この先人とのつながりってのは、実に人間らしいものだ。今は、苦しさを与えるものになっている部分もあるみたいだけど……。これも、先に人間らしさってなんだっけで言ったけど、人間ってなんなのかは、環境によって変わるところがある(文化と時代で違うって何度も言った)。先に発生している人間がつかんでいる、把握している、のっとっている人権感覚があるわけだ。(当たり前に「人権」のない野生の動物は、勝手に侵害されることが多々ある。殺されて食べられたり)
 思えば、人権ってのは、そこに人間がいなければ発生することがなく、そこにいる(自分の周りにいる)人間次第で、(その近くにいる人や自分の)人間観、人権意識、人間らしさの考え方が変わるのは当然である。その積み上げられた人間らしさ、人権感覚で生きていくわけだけど、その感覚が、人間が人間らしく在るための権利になっているかが気になるところだ。

 そして、人間らしさってなんだっけの最後の方で言ったけど、法律があるから、人権侵害しないことが可能になる、というわけではない。侵害しないには、その人自身にある考え方や振る舞いが重要だ。

 その人間が人権を意識して守ろうとしたり、権利を発生させてあげられるかどうかがカギとなる。または、人権を侵害しないことを発生させられる人が人間らしいと言えるかもしれない。

 たとえば、それを可能にしているのが(人間の人間による)教育と言っても過言ではないと思う。それは、学校教育だけのことではなく、親のしつけも含まれる。やっぱり、先人からの後世への伝達で養われるってことだ。

 この世界では、子どもは、知らず知らずのうちに人権を守れるように指導(注意)されている。人と人の間で生きることで、人間の生き方を知り、人間として生きられるように成っていく。これが、人間の成長の本筋だ。
 人間としての良い生き方、人間らしい生き方が伝承されていき、より良い生き方ができるように成っていくのだ、本来は。大人の人権意識によって、子どもに人間らしい幸せが伝承されるかどうかが決まると言えるだろう。
 大人が人権を侵害する態度であれば、子どもには人権を蔑ろにする態度が伝承される。その子どもは人権を侵害しない態度を選びにくくなる。虐待された児童が人権を蔑ろに生きる様子が多いのも辻褄が合う。自己肯定感が低かったり、自分の生を投げ出したりするところが。

 本来、人間が人間に成る過程とは、人権を侵害しない行動を選び、人権に守られている幸福を実現していくことなのだと思う。たとえば、大人が子どもをより偏差値の高い学校へ行かせようとすることや、よりよい才能の芽を育てようとすることは、よりよい衣食住やいずれ得られる名声や地位による大きな自己肯定感の獲得を目指していて、よりよい人権に出会わせようという魂胆かもしれない。
 しかし、いくらその子の将来が考えられた教育でも、人権を優先されていない幼少時代は、傷を残す可能性の方が高くはないだろうか。
 厳しい鍛錬によって、地位や名声を得られた人は、自分から望んでいた場合に限って、人権が守られていると思う。その厳しい鍛錬が自分から望んだものではなかった場合は、幼少時代を肯定することでしか幼少時代を幸せだったとする結末が得られない。そのために、思春期を越えながら地位や名声を必至に獲得した可能性がある。
 そうすることで、そこに親の愛があった、親がいてくれたおかげという愛があった人生なのだと辻褄を合わせる。傷つきながらも頑張って得た成功は、愛があったことにするための言い訳、強がりでしかない可能性があるのだ。そうした大人には「本当は」があるはずである。 親の言うことに耐えて、幸せに出会えたから、根本にある「親のしつけに感謝する」という構図が出来上がるが、本当は「あんなに辛い思いをしなくても幸せになれた」現実も感じていいはずだし、確率は50%でしかないはずである。

 本当は、素晴らしいのは親のしつけでもなんでもなく、その辛い人間が生き切ったことだ。生きて生きて生き切ったことで、嫌だったことも好きになり、その頑張って得た能力のおかげで辿り着いた場で、最愛の人に出会うとか。これは、「あの時、親が続けさせようとしてくれなかったらなかった出会いだ」ではなく、本人が生き抜くことを選んだ本人の力によるものでしかない。繰り返すが、親のおかげではなく、それを耐え抜いた本人の力である。

 ただ、地位も名声も幸せも得られなかった大人もいるはずである。人権を傷つけられたまま大人になった大人のことだ。そんな、頑張らせられすぎてしまったた大人は、本当の自分を生きていい。たとえば、無理に親を良い存在に仕立てあげる必要はない。また、もし、幼い頃に「やっぱりやめたいことはやめて、自由に生きていたら、よりよい幸せに出会えたかもしれない確率」は、今から幸せに出会う確率となんら変わりない。

 少し話が逸れるが、私は、この考え(人が生き抜く方を選ぶ力があること)から「生きる」エネルギーの強さや素晴らしさを感じる。生き抜いた強さは、確実にいずれ幸福に出会うことができるのだ。嫌な境遇からでも、そこにある希望を見つけ、その希望を信じ進むことで、希望の示した光に人は辿り着けるのだ。
 そして、このような人生は、本当に、たくましい人間だったから、成せた技なのだ。忘れてはならないことは、嫌な境遇に希望を見いだせる人間の強さのおかげで、大人の人権侵害がなかったことになっているだけであって、実際には大人は、そのとき人権を侵害し傷を作っている可能性があるってことだ。

 その後の出会いによっても、傷ついた人間が救われている事実もあるだろう。いくら誰かに傷けられようと、人間は人間によって生きる希望を持てるのも事実だ。この希望を与えられる人間が蔓延すれば、誰も人権を侵害されることなく、幸福に生きられる可能性が高い。

 話を戻す。そうなると、具体的に大切なことは、たとえば子どもが「何を目指すのか」を同意の元に決めて、「どのように目指すか」を同意の元に決めることが人権を侵害しないためには大切なことが分かる。そして、この同意は、いつでも更新される必要がある。たとえば、習い事を始めるときに「最後までやる」という言葉が人質になり「はじめるときに約束したのだから」と苦しめられることがある。だが、人生が予定通りに進むことはない。蓋を開けたら全然違いましたなんてのは、いくらでもあることだ。そういうときは、今の苦しい状態が、(人によるだろうけれど)大概はどのくらいで克服されるのかをそのプロフェッショナルに聞いて判断してもらうといいだろう。1カ月で慣れることなら、子どもに「1か月くらいで慣れるらしいよ」と伝えて同意が得られるかを話し合えばいいだけだ。
 まぁ、問題は、そんなことを話さなければ見極めの付けられない親子関係であり、それだけ子どもといない、子どもの心のそばにいない、子どもを見られない、子どものことが分からない大人が増えたってことだろう。どれくらい頑張れるか知らない、どれくらい悲しんでいるか知らない、どれくらいできるか知らない、どれくらい辛いか知らないのだ。

 知るために。やはり、もう少しだけ子どもの側に立って、子どもの人生を見つめてやってもいいように思う。

 人間の自然な姿に、「人間は自然と幸福を求める」また「全体の幸福を求める」存在であるということが含まれるならば、まず人権が尊重されれば、子どもは一生をテレビゲームで終わらせるわけでもなく、自然と外に出て幸福を目指し始めると信じたい。優しい思いで見守ることが、人権の尊重なように思う。

 仮に、子どもは、自由な存在だとして「子どもに自由な権利があるなんて言ってしまったら、それを振りかざしてコントロールが効かなくなってしまうかも」と、ある先人たちは、そんなことを言うだろうか。

 そうかもしれない。
 
 でも。だから、その、権利に負ける親子のつながりってのはなんなのか。なぜ子どもは権利だからって行動してしまうような短角的な人間になってしまうのか。やっぱり、人権意識がないような、公共の福祉が前提にない大人が子どもをしつけるから、子どもも自分の権利しか主張しない公共の福祉とか規範意識の薄い子どもになると考えられないだろうか。大人の背中を見て、子どもは利己主義に走る。やりたいこと、やってることの意味もよく考えない。

 もう、それを、しつけられないような「つながり」なことが悪いってことだろうか。(そんなに否定してなんになるって感じだけど)

 それでも。そんな子どもの行く末に素晴らしい言葉掛けがあれば話は違ってくる。その行動が周りをどんな気持ちにさせるか、このままいくと何を巻き起こすのかを教えたらいい。
 ただ、実際には、教えてもらえないことが多いから問題になる。問題が解決しないまま持続する。その携わっている当事者や家族自身がどれだけ迷惑かは、語られることが多いと思うけど。そんなフィルターをかけてちゃ子どもの耳に言葉は一切入らない。やろうとしていることが良いとか悪いとか判断して評価することは、大切ではない(もちろんそれが社会から追い出されるような行動であれば話は違ところもある。だが、放課後にゲームをやることをなじられる子どももいる。話し合えって思う)。
 そんな風に自由な権利をただ侵害するのではなく、ただ教える。そういう事実、嫌な思いをする人がいるということ、悲しいってこと、あんまりだってことを。それを教えて、人権VS.人権の中で、どの権利が優先されるのかが問わなければならない。事実を踏まえながら、権利の主張をし合い、正していく。
 自分自身のその場の瞬間的な幸福ではなく、私たちや家族全体(全体には自分も相手も含まれる)、組織や集団の総合的な幸福へたどり着けるように。その子自身の学びや経験となるように声を掛けなければならない。否定ではなく。ただ事実や法則を述べるなどのテクニックも重要になる。
 大事なポイントとしては、「つながりのある大人」がする注意であれば、子どもは聞く可能性がある。注意して殴りかかってくるようなら、現状ではその程度のつながりだってことだ。こちら側が、その子のことを考えなかった分だけつながりが遠のき、そのツケで報復に合っているだけである。

 そして、これら全部を引っ括めても一番に優先されるのは「今、そこに生きたいという気持ちになるための行動」だ。その行動が社会に見合わない行動であっても、そういう行動を選ぶ性分になってしまったのが現状で、今、出来る範囲の生きたいが優先される必要がある。ただ、そういう権利があることは当然としても、その権利を使ってもいいし、使わなくてもいい。それでも、やっぱりやりたいことが止められる場合は、説得し続けて、話をさせてもらえばいい。このときの、人権VS.人権で、それが適うかどうかは、なんのための主張なのかによる。
 ただ、やっぱり、どんな主張でも、それが、「ただ好きなときに好きなことを好きなだけするための権利であってはおかしい」のは当然な部分もある。子どもには法や条例の優先順位にのっとった成長が必要なところがある。たとえば、義務教育を受けることなのか、権利を主張するなのか、どの幸福を追求することなのかをかかわっている者が考え合って納得しながら決めていく必要がある。
 「いや、でもそんな時間ないんです。忙しいんです」って言う人もいるだろう。今、ここで言えることは、だから、そう言ってずっと、使ってこなかった時間が、今になって必要になっちゃってるんですよー、ってことなんだけど。

 そして、相手に主張するだけでなく、自分でもなぜそれほどまでに、それをしたいのかということを考えた方がいいと思う。脳による欲求や絶対に必要な行動でないなら、なぜ、そんなにもそれを希求するのか。そこにある幸福の意味を問わなければならない。未熟な考えは、本当に必要でないものを手に入れようとしている可能性もある。自分を一番大切にできる答えを見つけたい。自分勝手でなく相手から見るだけではなく、いつだって「自分自身こそ相手とのつながりを大切にしているか」、自分は「人間らしいのか」をだ。

 そして、別に子どもは、というか全人類は効率的に絶対に無駄なく生きられるっていうわけでもない。だから、人間らしさについて知っていれば、いつでも穏便に人権VS.人権が上手くいくわけでないのは仕方ない。どこか納得の行く正解や型がほしいわけではなく、欲しいのは、自分を試す時間だったりするのだ。別に客観的な幸せにも何にもなりたくないわけで、ただ「自分を試したい」ってときもある。

 そして(ああ。やっと話をまとめられそうなのだけど)ここに答えがあるでしょ(なんの考えもなく、ただ「自分を試したい」なんてときもあるってこと)。  「人一人を肯定することがどれだけ大切か」ってことが。

 私たちがしなければならないのは、「私たちから見たその人の幸せ」の実現ではないのだ。あくまで「その人から見たその人の幸せ」を肯定する必要があるのだ。ただ、説得はしてもいいとしてね。その説得していい、かかわっていいって許容が人間らしい営みってことだ。どんな人間もどんな人間にかかわっていい世界。もちろん、そのかかわりには、今はかかわらないでと示すかかわりも認められる。だから、人権と人権のやり合いなわけだ(ただ、これは結構高尚なことだと思う。ボロボロに傷ついちゃってる人は、人間らしさから随分遠くにいて、そう簡単には誰とでもはかかわれない。噛まれるよ。そういう人とは、人間らしさを感じさせて、つながりを補修していく必要がある。この考えは結構大事な考えだ)。

 「ねぇ、あなたは生きていいよ。」  「あなたで生きていいよ。」  「どんなあなたも完全肯定。」
 同時に、あなたにかかわる私も肯定されたい。
 お互いに人権はあるから。
 もし、あなたが人間らしければ、私の心配や説得は認められるわけだ。もし、私が人間らしければ、あなたの考えや嘆きは認めることができるわけだ。
 このあなたと私の距離感にはいろいろある。近いと感じたり、遠いと感じたりする距離感があるだろう。そして、そのときに必要な距離感を保とうとすることが「つながりを大切にする」ってことなんだ。ある時、ある距離感でなければ、そのつながりはぶち切れるわけだ。ただ、この紐は本来結構頑強なはずで、いくらか距離感を間違えても大丈夫だし、乱暴に扱っても平気だ。けど、それが今の時代、切れやすくなってるんだからどうしようもない……。
 それだけ。それだけ、私たちが蔑ろにしてきた人間らしさがあるってことだ(やたらに人を傷つけすぎだってことだ)。
 
 ここでは、親と子で話したけれど、ここで話した関係は、私たちにある無数の人間関係にも当てはまる。自分と目の前の相手を肯定して、寄り合う。まだまだ、人を蔑ろにしてくる人はいくらでもいる時代だと思う。嫌な年上の人たちに会うときも延々とあると思う。それでも、気づけた私たちは、気づいてしまった私たちだけは、つながりを大切にして、人間らしく生きたい。生きたいと思って、生きていることを喜びたい。私も頑張るから、あなたも頑張ってくれって感じだ。そして、いつかどこかで会おうぜ!とか思う。

 さて、少しは人間らしさが見えただろうか。
 すごく言葉を和らげると、私たちに求められる人間らしさは「話をするし、聞くし、させてあげるし、させてもらう仲でいるってこと」だ。
 そして、人権を履き違えちゃいけない。たとえば、「自由とは違いを認めること」だ。「平等とは誰のどんな人生も同じように価値があると認めること」だ。そうすれば、存在は肯定される。人は、今、そこにいていいって感じを得られる。
 そして、肯定、認めるを通り越して「あなたにあなたでいてほしい」となると、それが「愛」と言えるものなのかもしれない(「あなた」は目の前のあなただけでなく、心の中にいる本当の「あなた」ね。もはや、大切な本来の「あなた」から離れてしまっている人もいるから、そういう場合は、その本質の「あなた」を信じて呼びかけることが大切になる)。

 そうか。人間らしさってのは「愛」に向かうためのものだったんだ。
 きれいにまとめちゃうけど。

ほら。
「愛」がなければ、私たちは人間に成れない、ってことなんだよ。