かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

怒鳴ってもいいよ?

白ネコをむにゃむにゃむにゃーっと触ってみた「ハピペン」です。なんだかね、こういうところにも価値観って出るんだよね。私は色がはっきりしたネコだとモヤモヤしながらも触ってしまう(動物に対して潔癖というか……これは完全に養育環境のせいで)。

黒ネコ・白ネコだと、触りたい欲求が勝ちます。100:0思考になりがちなように、やっぱりそういうはっきりしているのが好きなんだなあ……。

 

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今日は養護学校の地域コーディネーターの先生の話を聞きました。

 

手に入ったものをシェアします。意外なところで、意外な価値観に紐づいて面白いものが手に入った。

(今回は、ダラダラ書いてしまったので長めです。いつもか。)

 

怒鳴ってもいいよ?

もはやね、優しく接した方がいい、厳しく接しないと社会の荒波に負ける。

その二元論って、尽きないんだなと思った。

その道のプロフェッショナルたちが、一定数そうした人がいることを言っている。この夏だけで3度も聞いた。

 

怒鳴ったとして、それで「子どもは変容しているのか?!」ってことが、いつも問いたくなるのだけれど、麻痺している人たちは、そんな風に指導を省みることができない。

 

じゃあ、どうするか。

ここに関するパラダイムシフトがあった。

 

なら「怒鳴られても平気な子どもを育てりゃいいんじゃね?

 

その通りだなって。

 

ただ、忘れてはならないのは、小・中の自己評価の低さは、間違いなく高に引き継がれるということだ。

 

だから、本来であれば、小・中のうちに、大人や社会に安心を感じて、自分がこの世界で生きていけそうだということを信頼できるようになった方がいい。

 

ただ、一定数、自尊感情を下げにかかってくる大人はいる。

それは、それでしょうがない。

 

それでも、どうにかこうにか、子どもに寄り添おうと思う人たちがいるとしたら、どんな心持ちでいるといいかも書いておく。

 

さあ、子どもを言祝ごうじゃないか!

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言祝ぐ。私の好きな言葉の一つ。

言祝ぐ

喜びや祝いの言葉を述べる。 

「ほめる」だと結構それもよくないって意見も出てきて、モヤモヤすることがある。私もたしかに「ほめる」でもないんだよなあ、と思ったときに見つけた言葉。

 

いきなり、話がちょっと逸れるのだけれど、大体、子どもに対する行動を評価する言葉かけについて、私は「称賛する」を使うことが多い。「言祝ぐ」は、それに近い。

 

子どもを伸ばしたいときは「ほめる」ってよりは、「言祝ぐ」っていう感じに、成長を喜び、祝いの言葉を述べた方が、入りやすい。 

 

ここで、養護学校の先生が言っていた言葉を「3つ」紹介する。

  1. 成長を喜んでくれる大人がそばにいてくれることが大事。
  2. 人から大事にされたことのある経験が大事。
  3. 心地よい人間関係を味わわせる。

それこそ、ネコを触りたいときに、ネコに逃げられないようにするのに近いなって書いていて思った。

 

こうした考えによって、その子の「自尊感情」が高まっていれば、たとえ怒鳴るような大人がいても、それまでの経験で失敗しても成功できる自分がいると感じられていれば「でも、やれる。できる。」って思って立ち直れると言っていた。

 

世の中は冷たい。だから、それを模して、学校でも冷たさを演出して、大人になっても学校で体験したロールプレイによって、生き延びられるようにするというのではなく、学校では全力で学校を楽しませる。

その先に、冷たい世の中を前向きに生きることができると言っていた。

 

一人でも多くの先生が「人っていいな」って思わせようよ

 

世の中には、触法行為で一発退場している人もいる。そうならないために、横のつながりであったり、人の力を借りて生きることも必要だと。

 

とにかく、あなた方は「なぜ教師になったんですか?」と問いたい。

教師は、自分の「社会の想定」「児童観」「発達観」によって、裁きすぎなんじゃないか?って思う。

 

その「社会の想定」が、そんなに合っていると思うなら、デイトレーダーにでもなったらいいわ!って思う。そして、それで手にした資産を子どもに投資してくれ!

 

人にであったおかげで「成長できた」「生きるってことを楽しいって思えた」っていう自分がなかったら、何もがんばれないと思んだよね。

 

私たちの指導を省みよう

今の世界の障害の捉え方は「社会モデル」である。

どうあがいたって「環境因」なのだ。

うまくいかないことを「個別の問題に矮小化」してはいけない。

 

よく「迷惑をかけないようにする」っていうことが大切にされる。これは「自立」のためにも必要な考え方だと思う。

 

じゃあ、先生たちは「迷惑」ってなんだと考えているだろうか。

「迷惑=……」

 

特別なことは迷惑だろうか?

特別で手間がかかることは迷惑だろうか?

特別で手間がかかって負担がかかることは迷惑だろうか?

 

検索してもモヤモヤしている記事が多いのだけれど、みなさんは「重症心身障害者」をどう見ているだろうか。

こんな記事もあった。

d.hatena.ne.jp

人が足りないのは分かっている。

そうした要因も影響して、人が亡くなっているように感じる。

 

でも、そこで何ができるか。力を合わせざるを得ないのだ。

自分が排除されないために、手のかかる子どもを排除していないで、力を合わせる方へと向かってほしい。

 

人間一人ひとりの命ってなんだろう?って思いを巡らせてほしい。

どんな世界をつくりたくて、どんな世界で幸せに暮らしてほしくて子どもたちと向き合っているのか。

 

金言は「教えてほめる」

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今回繰り返し伝えていたのは「教えてほめる」である。

現場では反対に「教えないで注意」がめちゃくちゃある。

「なんでちゃんとできなの」

「きちんとしなさい」

「しっかり聞きなさい」

などと言って、多くの子が察知してできるからと、できない子を責めてはいないだろうか?

 

できないのは、すべて教師の所為である。

 

分かるように、その子に伝わるように教えて、できたところをほめたらいい。

この繰り返しが大切だと言っていた。

大切なのはここからで、1年で一つ行動が改善されることもあるし、5年で一つということもある。

このレベル感を忘れないで指導を続けなくてはならないということだ。

 

そうなると、重要なのは結局、職員間の連携である。

 

引き継ぎがどう行われるか。

その引継ぎをどの程度信用して生かすか。

一人ひとりの教師のつながりが問われる。

ただ、そんなに、上手くいかないだろうと思う。

それは、教師が一人ひとり好き勝手な価値観で子どもを見ているからだし、学校が掲げるビジョンっていうのは、当たり障りなくできていて、全員が揺らげるようにできているからだ。

 

結局、1年契約でなんとなくしか育たない子どもたちができあがってしまう。

 

理想の子ども像が「社会参画」や「自己実現」だとして、そのために必要な力は何なのか?何をもって「社会参画」で「自己実現」なのか。そういうのを少しでもシェアできた方がいい。

みんな、西暦何年の未来を想定しているのかすら違うんじゃないだろうか。

 

その他の珠玉の言葉たち

聞いていて、温かくもユーモアもあり、子どもたちを守るために忘れたくない言葉たちをまとめておく。

  • 「先生に反抗していない。状況に反抗しているだけ。」
    これは、おそらくその通りで、自尊感情の低い先生は、勝手に自分が否定されたと思って、ムキになって子どもに応酬してしまうのだと思う。
    子どもたちは、その先生が言ったから、それにムカついているのではなくて、その状況に文句を言っているだけなのである。真に受けず、かわしつつ、支えて安心させるのが正解。

  • 「失敗のムダ=大人の合理性」
    「失敗はあり!」。支援の子たちは、できないこと、ダメなこと、失敗することを注意されすぎてズタボロである。本当にその子のことを思ったら、成長に失敗は不可欠なのに、いちいち失敗に対する評価が入る。なじって、けなして、さげすんでも子どもは成長しない。「起こってしまったエラーに対する修正は指導にならない」とも言っていた。事前に示して成功させることと、次に向けて助言をし、成功したときに称賛すること。

  • 「どの子どもも力があるのに、適切な関りがないと、伸びることができなくて、結果、社会の中で困ることになる」
    適切な関りとは、一人ひとり違う。肩に手で触れて励ますとしよう。そうしたとき、指1本で触れた方がいいか、手のひらで触れた方がいいか。こういう細かいレベルで一人ひとり違う。「その子」を育ってるとそういうレベルなのだ。自分勝手な価値観で「ほめているつもり」「指導しているつもり」ではよくはない。

  • 「いろいろな話をして、その子を感じて」
    結局はこれだろうと思う。学校にカッターを持ってくる子。注意しても持ってくるのをやめないそうだ。そういう子をどんな風に指導するといいだろうか。
    私がイメージしたのは、先生たちが、その子を見ているのか、カッターを見ているのかだ。その子を見ていればその子のことを思った会話ができる。しかし、カッターしか見ていなければ、持ってこさせないためにはどうするかしか考えが及ばない。被害者を生み出さないことばかり考えているだろうけど、ちゃんと加害者にしたくないって愛情を示した方がいい。被害者を生むことと同じように加害者も生んではいけないってことを忘れてはいないだろうか。その子を加害者にしたくないって愛情は保護者にも伝わるものである。

  • 「そのやり方でできないだけで、別のやり方ならできる方法が絶対ある」
    絶対なのである。疲れてしまって諦める日もあるかもしれない。けれど、ピタッとその子にはまる支援は存在する。アメリカや韓国の教室の合理的配慮の写真を見せてもらったが、イスなしで立って学習する子、バランスボールに座る子、エアロバイク付きのイスに座って学習する子。様々だった。それくらい多角的な視点で「その子が学習するために」。この最善の利益のために尽くしていいんだって感覚を知っておきたい。「ネガティブな気持ちを抱かずに教育を受ける権利」があるってことを忘れたくない。「怒鳴られてみんなと同じ条件で教育を受ける権利」ではないのだ。それに、それでは「ネガティブな気持ち」っていう条件が同じではないだろう。「じゃあ、みんなに厳しく接します」って教師がいるけど、いつも何言ってんだ?って思う。

  • 「策の選択肢がないと、こちらに合わせてくださいってなる」
    これも教師の怠慢。特別支援は科学だとはっきり言っていて、なるほどと思った。学んでいる人は使えるわけだ。どの子にも合わせて、一人を深く理解した手法を。子どもの捉え方、人間の捉え方が変わるってのは確かにあると思う。こちらに合わせてください、だとして、それがどれくらいカバーしている守備範囲の広いものなのかで、子どもの居心地も保護者の感触も全然違うだろう。学ぶ気持ちをもって特別支援をやって、理解しようと一生懸命やった人は、通常級に戻っても子どもを深く見られるようになるし、保護者対応も明らかに上手くなると言っていた。それはそうだろうなと思う。深みに自らはまって翻弄されなければ、確かに上手くいくだろうなあと。

  • 「支援があれば何でもできる」
    1・2・3・ダー!ですね。
    これは、実は、全人類そうだろうなって思う。
    とにかく、社会の想定をリアリティをもってしてほしい。実社会は一人でやらなければならないことの方が少ないだろう。ピンチのときは誰かを頼るのが基本でしょう。
    まるで、自分一人で何もかもができるようになることがゴールみたいに示している先生がいるけれど、誰でも一緒に走ってくれる人がいて、その後で自立できるのだ。
    どの子も成長できるし、どの人間にも価値はある。
    もし、そう思える社会を創っていきたいなら、私たちは学び続ける他ない。