「自己効力感」というキーワードに改めて着目したくなった「ハピペン」です。「自尊感情」に引っ張られすぎていたなあ。
昨日は、講演を聞きに行ってきました。
いじめ・暴力に向き合う学校づくり: 対立を修復し、学びに変えるナラティブ・アプローチ
- 作者: ジョンウィンズレイド,マイケルウィリアムズ,John Winslade,Michael Williams,綾城初穂
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 2016/10/01
- メディア: 単行本
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こちらの著者の「マイケル・ウィリアムズ」の講演です。
そんなわけで以前に「ナラティブ・セラピー」を少し調べていたのでした。
(この記事の下の方)
簡単に用語を並べると
ナラティブ(物語)
ドミナント・ストーリー(優勢的な物語)
オルタナティブ・ストーリー(代替的な物語)ナラティブでは、クライアントが抱えている問題は、クライアントが「ドミナント・ストーリー」に適応できないことではなく、クライアントの持っている固有の「オルタナティブ・ストーリー」と「ドミナント・ストーリー」との間に生じているズレと理解されている。
簡単に言うと、クライエントの語りとセラピストの介入によって、出来事(無色)の認識を変える。
クライエントは、自分の中にある物語を生きている。それが、考え方や見方を変えることで、別の物語に気付いていく。
ナラティブ・セラピーは、いくつか分派しているが、「マイケル・ウィリアム」は、「マイケル・ホワイト」からつながっている人だそう。
この方が残した金言がやばい!大ヒット!これだから、ブリーフもナラティブも好きでたまらないんだ!
金言
「人が問題なのではない。問題が問題なのだ。」
マイケル・ホワイト
すべて、この言葉に集約される。
もう少し詳しく。
いじめは常に関係性の問題である。人が問題なのではない。
いじめをどう見るか。2通りの見方が示されていた。
「その人が問題」とするか「問題を問題」とするか。
これに正解はないと思う。いろいろなアプローチがあっていいと思う。
ナラティブな見方は「問題を問題」とする見方。
「その人が問題だ」という見方
いじめっ子は「いじめ根性」があり「悪い人間だ」
いじめっ子は、恥じ入って振る舞い方を変えなければならない
いじめっ子は、その行為の結果として罰を受けるべきだ
いい感じに「個」の問題にされているケース。「土井隆義」氏、さまざまな本で語っているようなこと。
しかし、それでは、根本的な解決にはならない。
そして、「個」を責めたとき、いじめは過熱する。
「問題が問題だ」という見方
いじめは関係性の力を利用した関係性の問題である
クラス内の関係性が全体としてひ弱であることが多い
誰も責められず、誰も処罰されない
コミュニティ全体が問題解消に対して責任を負う
児童生徒は新しい関係性を共同で築き上げることに招き入れられる
ここの「ひ弱」は、「誰かを悪く言う」などの協力関係のないクラスのことだそう。
関係性をどうやって立て直すか。
そのための策が「秘密いじめ対策隊」を立ち上げるということだ!!
秘密いじめ対策隊?!
秘密いじめ対策隊とは
「いじめの標的となっている生徒とカウンセラー、教員たちが一緒になって、影響力のある生徒のグループを募り、いっせいに標的の生徒を支援することでクラス内の人間関係に働きかけ、それによって安全と協調のオルタナティブ・ストーリーを共著するための、戦略的な介入である」(マイケル・ウィリアムズ 2012)
隊員は6名が理想とされ、この6名はターゲットとなっている子が選ぶ。
その子にとっての真実を聴く
秘密いじめ対策隊の肝は、「その子にとっての真実を聴く」ことだマイクは、いじめが問題となる点の一つに、「問題が光の下」に出にくいことを挙げていた。
カウンセラーは、「いじめられている子」から「日々感じていることや、起こっていることなどのストーリーを聴く」。
ここでは、その子にとっての真実を聴くことがとにかく重要。
- 今、どういう状態なのか。
- 比較的良かったときはどんなときか。
- どうなることが理想か。
そして、秘密いじめ対策隊をつくることに合意を得たら、メンバーを選出する。
メンバーはその子が選出する。
6名選ぶ。内訳は、
- クラスで評判が良いと感じる傍観者の男子:2名
- クラスで評判が良いと感じる傍観者の女子:2名
- いじめの首謀者だと感じる児童生徒:2名
大切なことは、「その子にとっての真実」を基にすることで、「その子にとっての真実」が変わることである。
その子が思うチームが、その子への影響を変えることで、その子のストーリーは書き換わる。
隊が結成されると、教師たちにもメールで周知される。ここが好き。
いじめを解決するために「隊」ができたことを伝える。
ここで、はじめて「いじめがある」という事実ができ、「問題が光の下」に出る。
その学校がいじめについて語ることができる環境に変わる。
隊員たちには「解決のための努力は、校長、教師、親たちに認められること」を伝える。学校全体を巻き込むところがわくわくする。
なぜ、秘密なのか?
会場から質問が出た。
マイクの回答は、
同じゲームを行うことに意味がある。
だった。
非常に興味深かった。素人の教師がそういう考え方をできるだろうか。 私はできないと思った。だから、やっぱり、少しでも、自分に響く学びは自分の足で手に入れに行く必要があると思った。
気になったこと
この話の中では、カウンセラーがいじめを解決するために存在している。
日本の学校ではどうだろうか。
「いじめ」の定義は散々聞かされてきたとして、学校はどのくらいのどんな状況からは、「いじめ」として聞き取り、対応しているだろうか。
その「いじめ」の認識は均一で、対応も一貫しているだろうか。
たとえば、同じじゃれ合いも、「あの先生では、ふざけ」「この先生では、いじめの種」と捉え方はまちまちではないだろうか。
そこが統一できないからこそ、「その子の真実」だけが、手がかりになる。
それでも、たとえば、「ここからは、いじめかもしれない、と捉えるという例」を考える必要はあるかもしれない。
教師による規準の違いの隙をついて、子どもたちは見えないいじめにチャレンジする。
だから、一番は被害者の声があげられるシステムをつくることと、伝えること。
「相談の大切さ」を、年がら年中アナウンスすべきだ。
あとは、「なぜ、いじめをしてはいけないのか」も、オリジナリティ溢れる、心に響く演説ではなく、学校で統一した方がいい。そういうブレが、隙となって……ふじこlp;。
法律だから!! は道徳的にどうなの? って。
学校として「安心・安全に教育を受けられる環境が最優先だから」と、誰もが語れるか。そこは一人ひとりの考えじゃなくていいだろってところを組織として決定していけると学校が少しはマシなところってある。
正解はないから、そのときの正解を我々てで試行錯誤しながら作っていく必要は絶対ある。
いじめも心を強くするには必要なときもあるとか、被害者にも原因はあるとかもう聞き飽きたよね。
原因があったら、人を苦しめていい! っていう考えやばくない? ってのに、そういう人は気づけないんだろうか。
ああ、また長くなりそう。ここで、切ります。ストンッ。