かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

続・人間ってなんだっけ(旧:生きるって楽しいじゃん)

続・人間ってなんだっけ

人間ってなんだ。
人として生きるには、人間として生きる人生には、この問題にどこかしらの着地点を見つけて、この問題の落ち着ける居所を見つける必要がある。

今回は、人間の「間」について考えたい。

「間」ってのはなんだろうかと。

「間」とは、その間のすべてで、言ってしまえば時間と空間。

時間と空間ってのは、たとえば「ここ」から「あそこ」までのすべてのことだ。

そうすると人間ってのは、
この人からあの人の間のすべてだと言える。

気になる点を二つ挙げると。
1.この人からあの人の間の時間や空間には、何があるのかということ。
そして
2.「人間」の「人」は何を指すのかということ。
この二つだ。

一つずつ考える。

1.の「この人とあの人の間にあるもの」を、一言で言えば「つながり」だと思う。
「ここ」と「あそこ」には共通の観念や感覚(たとえば、時間や空間)がある。
「ここ」と「あそこ」が同じような変化を認識できて、共感できるから、つながりがあると感じられるのだ。
「間」があると捉えられるのは、お互いが何かでつながっているからなのだ。
そして、その「つながり」には「どのような関係か」といった種類もある。

1.については、「つながり」であり、そのつながりには「種類がある」というところまでにする。

次は2.。

そもそもの「人」は何を指すだろうか。
これは簡単で、想像できる限りの「人」をすべて洗い出せばよい。
「この人」は「自分」として。
「あの人」にはどんな人を入れられるだろうか。

まず、自分とくればもう片方は「相手」だろう。
「自分と相手」だ。
この「相手」には、2種類あり、
一つ目は、今生きている人、これまで生きた人、生きているか分からない人、生きていたかもしれない人、つまり人すべてだ。
二つ目は、物かもしれないし、動物かもしれないし、無機物かもしれないし、とにかく人以外のすべての「もの」だ。

そして、相手以外にも入る言葉がある。そう忘れちゃいけない、「自分」だ。

こうして見てみると、「この人とあの人」に当てはまる人ってのは、「地球上のすべて」なんだと思う。
私たちが認識し、そこに「人」を見たすべてのものに、結局、私たちは「人」との「つながり」を思うわけだ。

少しずつ進めていく。
「この人」と「あの人」に言葉を当てはめて改めて大別すると、
・「自分」から「物」
・「自分」から「相手の人」
・「自分」から「自分」
この三つがあることが分かった。
そして、この三つの間にあるつながりがどのようなものなのか考えていく。

順番にまず、
・「自分」から「物」について。
突然だけど、日本には付喪神って考えがあって、なんで物が妖怪になるのかなって思ったんだけど、
それは、そこに人が関わったって証拠、つながりがあるからじゃないかと思った。
物がただ物であったなら私たちはそこに人を見ないと思う。
形見なんかもそうだ。私たちは物に人を見る。
手入れをされた花があればそこに人を見るし、美味しいものを食べればその手間暇を想像し人を見る。
きれいに舗装された道路なんかにも人を見るし、ありのままの自然が残っている場所にもその自然をありのままに残そうとした人の優しさを見る。
また、取り壊されることなく残った人工物や不法投棄された物さらに台風の後の捨てられた傘なんかを見ればそこに人の悲しみのようなものを見るし、
無駄なく包装された品物を見ればそれが完成するまでに携わったであろう無限に近い数の人を見る。
(この「物に人を見る考え」はあとで「つながりの種類」について考えるときのヒントにもなる。)
どのようなつながりがあるかはそこで考えるとして、ここではひとまず、私たちは物の中に人を見ることができるということが言いたい。

次に、
・「自分」から「相手の人」について。
これは、感覚的には一番分かりやすいというか、なじみがある。(いつもやっていることだから)
自分から相手、ある相手からある相手などは、人間のつながりのほとんどだ。
ただ、つながりに関して、物との違いが一つある。
ほとんどは、「物」が「相手の人」になったと考えれば大差ないが、大きく違う一つは、
「自分からの一方的なものでない」というところだ。
相手が「人」である場合、相手側からも発信がある。
つながりが「双方向の作用で出来上がる」というのが、「相手の人」とのつながりのポイントである。
だからこそ、一辺倒ではない、豊かでさまざまなつながりが感じられる。

最後に、
・「自分」から「自分」について。
ときに人は、自分から自分へのつながりも見たり感じたりする。
自分を見つめ、自分のこれまで、自分からこれまでの自分のことを考えるとき。
「自分から自分の間に本当に自分しか見えない人もいれば、自分から自分の中に「ある」誰かや何かとのつながりを見る人もいる」
これは、大切な考えで、私がこんなにだらだら話すのは、この差を伝えたいからかもしれない。

「本当に自分しか見えない人もいれば、自分の中につながりを見る人もいる」という、
自分から自分の間に「人」が存在するか、存在しないかの差だ。

つづく

といきたいところだけど、このまま続ける。

つながりの枠組み三つについて書いてみた。
我ながら分かりにくいのだけど、一言で言えば、

「自分から○○へのつながり」の○○は三種類あって、
その三種類それぞれのつながりに特徴があるんだぜ!って話で……。

その三つのつながりの特徴を簡単に説明すると、
・「自分」から「物」のつながりには、
一方的なところとないものを補う想像によるところが多いということ。
・「自分」から「相手の人」のつながりには、
双方向の作用によるところ+物と同じように、ないものを補う想像によるところがあるということ。
・「自分」から「自分」のつながりには、
自分しかない、もしくは物や相手の人に見たつながりを複合・総合的に含んだものということ。

って話だ(だいぶすっきりしたね)。

次に移る。
今度は、「つながり」にある「どのような関係か」という種類を考えたい。
その前に、一つ確認したいのは、つながりが「ある」か「ない」かは、その人の捉え方次第ってことだ。
はっきし言って、つながりの「ない」人はいない。
けれど、つながりを「ない」ってことには簡単にできる。
たとえば、気づかなければ、気づけなければ、つながりは「ない」。
また、欲しいつながりと不要なつながりがあり、欲しいつながりがなければ、それもつながりが「ない」と捉えられる。
それでも、つながりの「ない」人は絶対にいない。
自分が生まれたことが何よりの証拠である。誰かと誰かがつながって自分が存在しているからだ。

では、では。
つながりの種類について。
まず、言ってしまえば、
「人が何かに作用するすべてのかかわりがつながり」
である。
よってそのつながりが無限にあると考えられるので、すべてのつながりを網羅する自信はない。
今思いつくところを一応いくつか書いてみようと思う。

考るためのヒントとして枠組みを示す。
一つは、 ・目に見えるつながり(客観的事実であること)
と、もう一つは、
・目に見えないつながり(客観的事実でないこと)
この二つで考える。

『目に見えるつながりについて』
目に見えるつながりとは、これもまったく気のせいな部分が少なくないと思うのだが、(目に見えるつながりが、つながりの本質か?ってこと。)
私たちは目に見えないものを信じ続けることができない(できにくい。苦手。)。
(もう少し詳細に言うと、五感の優先順位の高い方で得られる情報でつながりを感じられないと信じ続けられないということ。
これは、見えないつながりのところにかかわるけど、五感で得られないところは、
見えない・手に取れない・聞けないとしても、それでも人は「何か」でつながりを感じようとして補うわけだ。)

目に見えないものの代表格は、幽霊か愛だと思う。
愛ってのは見えないもんだなんだかんだってのは、こっちの愛ってなんだっけhttp://www.geocities.jp/n_am_smile/wasure/12ai
で少し語っている。
その、見えないものを捉えるためには「見える化」(目に見えるという意味ではなくて、優先的な五感に「捉えられる化」ということ)が必要でその見える化がきっかけになって、目に見えないつながりを捉える(「信じる」)ことができるようになっていくと考える。

例をいくつか考えてみる。

例1 先輩と後輩
○くんと□さんは同じ学校で、□さんは3年生、○くんは1年生です。
○くんは、□さんの後輩で、□さんは、○くんの先輩です。
これは客観的事実で、目に見えるつながりである。

しかし、このつながりを「ある」と捉えているか「ない」と捉えているかは本人たち次第だ。
□さんは、○くんの性格が好きで、良き後輩と捉えていてつながっているかもしれないが、
○くんは、どうも□さんとは合わないなと感じていて、あんなの先輩じゃないと思っているかもしれない。
目に見えるつながりが成立していても、目に見えない部分で成立していない可能性があるわけだ。
職場の同僚なんかもこの例に当てはめることができる。

ここで厄介なのは、私たちのほしいつながりは、客観的事実のつながりではないことがよくあるところだ。
先輩や後輩、上司や部下、同僚かどうかというのは、実際その場にいるわけだし、捉えやすいつながりだ。
ただ、本当に先輩や後輩、上司や部下、同僚として認めてもらえているかどうかというのは、どうしたって目に見えないつながりである。

こう考えると、目に見えるつながりっていうのは、便宜上ある枠組みにすぎなくて(実務というか、その場の生活をこなすためのものというか)人間としての人間らしい「つながり」と言えるのか少し戸惑いが残る。

(ちょっと面白くなってきたぞ。)
私たちは、目に見えないつながりがほしいのかもしれない。
(もしくは、目に見えないつながりを目に見えたことにして得られる安心や気休め、安堵がほしいのかも。)

私たちがよくよく求める恋人や家族のつながりは、目に見えないつながりなところが大きいからだ。
あなたは、私の恋人。だって付き合ってるもの。って言ったとしても、それはそうだけど、果たして本当にあなたと私は恋人同士と言えるか。と考えると、
その判断の材料は、目に見えない部分が多い。
家族も同じで、あなたは、私を生んだ。私の親だ。としても、それに納得できない時期を子どもたちの誰もが通る。
それでも、子どもが、ゆくゆくは親を感じられるのは、目に見えない部分のつながりが担っているところが多いだろう。
それこそ、見える化されたかのような安堵が必要になるところだと思う。
「本当のつながり」と感じられるような、「つながり」を信じるための「何か」が。

けれど、忘れてはいけないのは、その目にみえないつながりでなくて、目に見えるちょっとチープなつながりだって、どれも実際のところは、私たちが息づいている紛れもない「つながり」であるというところだ。
誰かがいて、自分がいるという生きている証拠。事実だ。
だからって、そんな「つながり」があったって生きている気がしないっていう気持ちは重々承知していますが。
でも、私たちは生まれて生きているっていう方が事実です。野暮でも、実感できなくても、それを肯定的に捉えられなくても、「つながりがある」という事実はある。

例2 あげた・もらった
二つめは、超簡単です。
「ここ」から「あそこ」への「もの」の移動です。
これは明らかに見えるつながりだと思います。
ただ、その「もの」の移動には、大抵「別のつながり」も乗っかっていますから、ただ「もの」が移動することはないのです。

たとえば、誕生日にプレゼントをあげた、もらった。
これは、誕生日プレゼントをあげたのと、もらったのとのつながりです。
けれど、そこには、上司だからあげたとか、恋人だからあげたとか、別のつながりも関係しますね。
そして、またこの「あげた・もらった」があることで例1のつながりが再認識されたり確かなものになったりもします。

他にも、思いや気持ちをあげるということもあると思います。
誰かにお菓子をあげたとして、そこには「もの」をあげたという事実もあれば、お礼などの「思い」や「気持ち」をあげたつながりもあるかもしません。
どのつながりがあると捉えるかは、やっぱり当人たち自身によりますね。

目に見えるつながりっていうのは以上のこれらのようなものです。

まとめると、目に見えるつながりは、
・「あなた」と「私」との関係の客観的事実
・「ここ」から「あそこ」への「もの」の移動
です。

繰り返しになるかもしれませんが、目に見えるつながりというのは、「つながりの入口」に過ぎません。
コミュニケーションの中の挨拶のようなものです。
あなたそこにいるね、私ここにいるよ。というようなものなのです。
認識の入口であり、つながり始めであり、生きることに慣れてしまった私たちにとっては、もはやこれをつながりとは思えない。これでは満足できないのかもしれません。

次ーーー!。

『目に見えないつながりについて』
これはまたごちゃごちゃしそうです。
考えるためのヒントになる言葉は「絶対ではないこと」です。
絶対と思うことや、絶対に近づけていくことはできますが、決して「絶対にはならないこと」です。

例1 私はあなたの友達である
友達ってなんなのかっていうことも、友達ってなんだっけhttp://www.geocities.jp/n_am_smile/wasure/09tomodatiで少し語っていますが、これが「友達」ということがどんなにお互いの中で一致していても、
だからと言って常にお互いを友達と思いながら生活しているわけではないし、別のことをしたり考えている時間があります。
本当に本当にずっと友達なのかと考えるとき「絶対」とは言い切れないですよね。
ただ、これまでの「つながり」。たとえば、共有した時間や、お互いの似ているところ、共感する部分、好きなことの一致、どのように応じればコミュニケーションが成り立つかなど、
居心地をよくする手立てなどが、大方予想できるから一緒にいやすくて、この先も友達である確率が高いというわけで、
私たちは、あなたは友達と捉え宣言しているわけです。
言い換えれば、つながりの総量が多いということかもしれません。
そう考ると、つながりの量で、つながりの見えない部分も補うことができ(気休めや安堵を得られ)、またつながりの量が増えれば、補える量も増えるという風につながりの新たな捉え方が見えてきました。
目に見えないつながりの一つは、目に見えないけれど言葉にしたり表現したりして、数えることのできる、または数値化できるつながりと言えるかもしれません。回数や個数で表せるということです。

例2 運命の出会い
運命ってなんなのかっていうことも、運命ってなんだっけhttp://www.geocities.jp/n_am_smile/wasure/11unmeiで少し語っていますが、これが「運命だ」ということは自分の中でそう捉えていても本当にそうなのかは、
誰にも分かりません。私にも思い返せば、あのときのあの出会いが今の人生への分かれ道だったという場面があります。
そのときに出会った人のことを思えば、あれが運命の出会いであり、その人とのつながりなのだろうと捉えることができます。
ただ、本当に絶対にそうなの?と言われれば分かりませんよね。どうしたって自分自身が選んだ今に過ぎません。
けれど、たった一度の出会いでも、何年後になっても残っている言葉や思いはやっぱりあります。
まるで自分自身を生かすために起こったかのような出来事のことです。
言い換えれば、目に見えない何かが作用していて、つながりにも気づけないようなところで、私たちに何かが、何かが私たちに、つながっていると考えざるを得ないようなつながりということです。
私たちでは捉えられない質のつながりということです。
もう、そうなることが決まっていたかのような、私たちの力で変えることのできないようなつながりです。
(こんなに「ような」がついているのは、つながりは自身の捉え方次第だからです。気づけないようなだけで、本当は気づけるのかもしれないからです。)

これらの、「目に見えないけど数えられる」、また「目に見えないうえに数えられないような」、そして「絶対とは言えない」つながりが、目に見えないつながりと言えます。
気持ち、思いやり、意志、優しさ、温かさ、愛、心、運命など。この辺りの類のものが、目に見えないつながりです。
 
私たちは、目に見えるつながりを基にして入口に立ち、目に見えないつながりを手に入れようと右往左往するのだと思います。
しかし、入口に立つことができても、目に見えないつながりを自分なりに確実なものとして捉えるのは簡単ではないようです。
その理由の一つは、人の気持ちは流動的だからです。人の気持ちは川の流れる水のように常に一定ではないのです。
それは、地球が回っていて、私たちが常に動かされることとも関係します。常に何かが起きていますから、私たちが常にさまざまな気持ちになってしまうのは当然のことなのです。
大体の思考の流れは安定しているとしても、そのときそのときの考え方は違いますし、その中から何かを見える化する過程で、伝えられるまでに私たちは更に思いや考えを精選し振るいにかけますから、
一定のつながりが安定して得られることは容易なことではありません。
「目に見えないつながり」が変数の時点で「絶対ではない」ことは明らかですね。

さて、ここまで来て、
それでも私は、私たちにつながりはあり、あり続け、つながりを得る安定は得られなくても、安心して生き続けて良い、私たちに必ずつながりはあるのだということを保障したいのです。
私たちが、暗く不幸な人生を生きるためにここいるわけがないのです。この地球ってのはそういう場所じゃないんです。
つながりについての概要はここまでに書いた通りです。
私はこれが事実だろうと思います。
もう一度知っておいてほしいのは、「つながりはある」ってことと、「目に見えないつながりは不安定」ってことです。

でも、私たちは「人間」です。言い過ぎれば、この人間って言葉は、私たちそのものがつながりだということです。
つながりがあるってことは分かったし、目に見えないってことも分かった。あるかないか、捉え方は自分次第ってことも見えてきたはずです。

ここで、今、すべてを包括したまとめに行く。

まとめは、 『自分から自分のつながりについて』だ。
前に「自分から自分のつながり」には、二つあると書いた。
それは、「自分しかいないか」、「誰かがいるか」だ。

「自分しかいない人」は、目に見えるつながりを好きになれなかった人。
目に見えないつながりをなかったことにした、またはつながりに気づけなかったか、ほしいつながりが分からなかった、手に入らなかった人だ。
目に見えるつながりに気づけない人はいない。気づいたけれど、そこにある見えないつながりに気づけないか、ほしくなかったか、ほしいつながりが分からなかったのだ。
例えを出すといくらか分かりいいと思うのだけど、
たとえば、母親からの愛情(見えないつながり)がほしいと思ったときに、母親とのつながりとして、母親が母親であるという(目に見える)つながりはある。
けれど、その母親が自分の思う欲している母親であることは、多くはないだろう。
それでも、その母親が母親をしていることを、認められるときもあったりする(目に見えないつながりが一般的な見える化をされている場合のこと。だが、当人には目に見えないつながりをはっきりとは感じられない)。朝起こしてくれたり、弁当を作ってくれたり、要は、自分をよりよく生かそうとしてくれているときだ。
しかし、そうしたときに、自分のほしいものは抱きしめてもらうことだったりすることがある。そうすると、いくらよりよく生かそうとあれやこれやをしてくれたところでつながりは感じられないわけだ。
また、抱きしめてもらうことがほしいというのが自分で分からないときもある。どうつながりたいのかが自分では分からないのだ。
ちょうど母親が赤ちゃんの世話をするときのような感じだろう。赤ちゃんがおしめを汚して泣いているのだけど、赤ちゃんはそれを伝えられる言葉を持っていない。
不快だという状況は分かるけれど、なんでかという説明はできない、分からないわけだ。
それを母親が察知して取り替えてくれることで、感じられるつながりがあるってことだ。

これは、大きなヒントだと思う。
「私の目に見えない発信を受け取ってくれると人はつながったと感じることができる」ということだ。

そして、その目に見えないつながりを捉えるにはどうすればいいのかという話になるが、それに成功法はない。
私たちは全員違うし、欲している目に見えないつながりはそれぞれ大方の枠組みは一緒だとしても微妙に絶妙に違うし、先に言ったように思いや内面にあるものは常に流動的に動き、四六時中移り変わって行くからだ。
世界中の赤ちゃんが常に同時にオムツを替えてほしがっていたらそれはそれで喜劇だが、そんなことはありえない。

しかし、これは我々にとって幸福以外の何ものでもないし、我々一人ひとりがこの世に生まれて生きていい何よりの証拠である。
私は、この地球の仕組みは、人間の仕組みは、超次元立体交差パズルのようなものだと思っている。
人それぞれが多面体で好き勝手な長さで大きさで形で存在しているのだ。その数、数十億。
ただ、これだけいれば、線や面や凸凹が合う人間がいるし。合う人間に出会うようにできている。だからこそこの星は回り続けるのだ。

自分しかいない人も、それでもいい。
ただ、覚悟しておいてほしいのは、必ず誰かとつながるときは来るってことだ。この仕組みからは絶対に逃れられない。
逃れられるとすれば、自分が逃れようとしているうちだけだ。

そう、ここで気づいてほしいのだけれど、逃れようとしているにすぎないのだ。
人間は必ずつながっている。人間だからだ。

自分の中に自分だけしかいない人は本当はいない。
自分から自分へのつながりを見たときに、その間にはたくさんの人がいるはずだ。
立体的に交差している様を思い浮かべてほしい。
自分から自分の間に誰かがいる。
またその自分も誰かと誰かの間にいる。それが延々と連なってつながっているのだ。
人間は人ではない。人は、人間の単位にすぎない。
人間は、人ではなく、私たちにある間を表しているのだ。
自分が生きているということは、本当は自分だけが生きているのではない。
人間とは、私たち全体を表している言葉なのだ。(そりゃそうか)
自分が人間であるなら、人間は自分だけのことではないのだ。

自分だけが生きていると思っている人は生きることから逃れているだけだ。

自分が人間であり、人生、つまり、人間らしく生きるなら、私たちはその間にあるものに気づいて見つめて連れ添うような気持ちで生きていかなきゃならない。

私が今生きているのは、紛れもなく、たくさんの誰かが私の中にいるからだ。
誰もいないのなら、生きている意味がない。
自分しかいないのなら、いてもいなくても地球には関係ないのだから。

私の中にいるその誰かたち。
私のもつそのつながりが、また誰かにつながって、誰かを生かしていくことになる。これはもう人間が生まれてからずっと続いていることで逃れようがない。
ただ、時代は進んだ。逃れようと思えば逃れられるような気がする世の中になった。
誰かから逃れれば、自分だけで生きれば、辛いのは当たりまえだ。
それが、人間である何よりの証拠だ。つながりがない気がすれば死にたくなるのは当たり前だ。

だが、もう一度言うが、つながりのない人間はいない。今、生まれて生きているのだから(あなたが生まれたというつながり。ほぼ、へその緒のことだ)。
入口にはすぐに立てる(すでに立っている)。そして、目に見えないつながりに気づく。必ず気づける(一歩、玄関の外に歩めばいい)。

気づくためのヒントを二つ書く。私はこの二つしか知らないからだ。

一つは、時間を賭けるということ。
時間を賭けた分だけ見えないつながりは高まり深まる。

もう一つは、仕掛けるということ。
時間を賭けて出てきたものを表現し、こちらからつながろうとすることだ。

私はこの二つがあれば、間違いなく、必ずつながりに気づき、つながりが見える日が来ると思う。

この二つをよく表している詩がある。

灰谷健次郎の詩だ。

『あなたの知らないところに、いろいろな人生がある

あなたの人生が、かけがえのないように

あなたの知らない人生も、またかけがえがない

人を愛するということは

知らない人生を知るということだ』

私は、灰谷健次郎が大好きだ。

知るということは、時間を賭けることと、こちらから仕掛けることの両方を兼ね備えなければできないことだ。

自分しかいないと思っている人たちは、誰かの人生を知ろうとしたことがあるだろうか。
人は、誰かを知れば知るほど、自分の人生の尊さを知る。
私も生きたいと思うだろう。あの人が生きたこの星を、この人が生きているこの星で、誰かと生きたくてたまらなくなるはずだ。
また、誰かの中に生きたくてたまらなくなるはずだ。

その生きたさの美しさは、なかなか良いものだと思う。
とても人間らしいと感じて、人間で良かったと感じると思う。

もう一度だけ言うけれど、

「つながりのない人はいない」
これはこの上ない至福である。
私たちが時間と空間というつながりの中を生きていることはこの上ない正、生なのだ。
よってこの世での死は、目の前のつながりをなしにしてまうことだと言ってもいいだろう。
ただ、つながりをなしにしてしまったとしても、地球は回る、僕らを乗せて。(どこかで聞いたフレーズだ)
自分しかいなかったとしても、いつでもこちらからつながりを持ちかけることは出来るし、また持ちかけてくる誰かはいる(要は年賀状を出せばいい)。
この地球が回って、誰かが動いて、誰かに作用しているという仕組みは留まることを知らないし、延々と流れ続ける(地球が回る限りは)。
そういう救済策のある仕組みなのだ、だから、人間という種族なのだ。私たちはどうあがいたって誰かとのつながりの中に生きてますという人間という名詞なのだ。

自分だけで人生を始めて、自分だけでは人生を完結することのできない、
双方向のかかわりが絶対的に必要なありがたい、素晴らしい生き物、
人間として生まれ、生きている。

私たちは生まれもってつながりをもつ(DNAに刻まれている)生き物なのだ。

生きてさえいれば、私たちは人間である。いつでもつながりを思い出して、つながりを得られるということだ。
つながりをなくしていた過去に気づいたり、つながりがない時期を過ごすことは少し損と考えることもあるかもしれない
けれど、それは全くおかしな間違いだ
つながりに値はなく、早いも遅いもなく、損も得もない。
ただ、私たち自身が、「ある」と思うか「ない」と思うかだ。
天の誰かさんはまさか人間がこんなところに迷い込む(人間がまさかつながりが「ない」と思うような日がくる)とは思っていなかったかもしれない。
だから、ただ、当たり前に「人間」と名付けたのかもしれない。あなたたちは当たり前に人と人との間で生きているのだと。
私たちは、一人でいられる環境を作りすぎたか、一人でいられる事実を紛らわし違和感を誤魔化せるようになったか、一人でいられる方がマシだと誰かに思わせても平気でいられるくらい性格が悪くなったかのどれかだろう。

私は、誰にも生きてほしい。生まれたすべての誰にも。そして、こんなに長々と人間についてのバカな暴論を言って、その上誰かに生きてほしいとか抜かす変な奴もいる。
私を知ったというこの「つながり」。これを読んだ、この時間の共有を誰かの人生にもっていってくれたら私は人間の一人としてこれほど嬉しいことはないだろう。

人間ってなんだっけ。
少しややこしいけど、誰にも、私は人間をやって、人生を生きて、人生を続けてほしいってこと。つなげ続けるために。