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それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

「愛は」出るものか?出すものか?

自分なりの視点

子どもを「ありのまま」育てるとして、大人の態度は「ありのまま」でいいだろうか。

 

溢れた人間観から、教育観も溢れ、人生観も溢れる。

そこから見出すそれぞれの自由が、集団をぐちゃっとすることがある。

 

保護者支援が大切にされる中思うのは、実は「愛情は出るもの」ではなく「出すもの」なのではないか、ということだ。

 

自然な愛情こそ至高と考えるかもしれないが、そうすると子育てでつまずくことがあるように思う。

 

愛情が湧くときはかまって、湧かないときはかまわないとしたら、子は大人の顔色を見て育つようになる。

 

理性的な愛情というと、つまらなく聞こえてしまうかもしれないが、意識的な関心でも、意識のない関心でも子どもは嬉しいと思う。

 

「こう育てたい」があってもいいのだけど、子どもが欲しいものを与える必要はある。

ずーっとほしいものが得られない場合は、塞ぎ込むか、代用品をさがすかだと思う。

 

「愛情って勝手に出るものではない」という前提があったら、「出す」という意識をして子どもを大切にできるのではないか、と思った。

 

また、愛は、抽象的な言葉なので、結局、自己解釈で捉えると言われる。

 

だとすると、愛は自己解釈であって、

愛は相手の自己解釈に寄り添う行為、または、自己解釈を広げる行為と言えるかもしれない。

 

これを無意識でやるのは到底難しい。

すごく長く共に過ごしてわかり合っていないというダメだ。

それに、わかり合っているはずという驕りにも気をつけなければいけない。

 

また、愛は目に見えないもので、形化しないと相手には伝わらない。
どんな形であれば相手についてよく知る必要がある。

 

つまりは、愛を伝えるには、愛について多くの人が語り合う時間が必要ってことだ。

 

だと、するとやっぱり「愛は出すもの」なんじゃないかと余計に思う。「出るときもある」といった感じだろうか。

 

みんなで「愛」について語ってみたら「愛」は目に見える気がする。

そのとき、私たちは誰もが愛をもっている事実を知って、人を愛おしく思うに違いない。

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