かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

ポケットに手を入れない

「3日で幼稚園に飽きた(らしい)」ハピペンです。母に「やれやれ言われるから行きたくない」と言っていたらしい(源泉だろうか)。

 

学校に「子ども中心主義」って垂れ幕がかかってるのを見て「これだよ!これ!」と4年前くらいに思った。

 

ルソーの「子どもを発見」の話を聞いて「そうそう!!」と思った。

 

その源泉って結局自分の感情ベースなのか。

ただの、不満解消、自己満足。

 

自分を生きるってなんだ?

と禅問答がはじまる。

 

自己不在感。

 

本当の自己なんてないのだけど。

個人的には「君は僕の心臓の一部だ」というアリエッティの最期のセリフがピンときていて、「あなたも私である」的な考えは好きだ。

 

自分の感情を殺しすぎない範囲で、相手を優先できると自分が幸せな気持ちになっていることがあるはず。

 

それが思い込みだと危険で、上辺では「ありがとうございます」とか言われていても、不幸の積み立てに成功していて、ツケが回ってくるってこともあるだろう。

 

「ポケットから手を出した方がいいよ」40代の先生が20歳の私に言った。

 

11月の朝、その日は寒かった。1Hの散歩の時間だった。

 

私は、「あっ、すみません」と焦りながら、その先生の言う理由を聞きながらさらにその焦りを加速させた。

 

「近所の人は、やる気なさそうに面倒くさそうにやってるなあって見るかもしれないからね」

 

自覚がなさすぎ!

本当にやる気ないんじゃないの?

子ども見る資格あんのか!

とかいろいろあると思う。

 

「いや、そんなこと思ってねーし!」という問題ではないのである。

 

この子たちが社会に出ていくとする。

「この子たちがどんな子なのかは、周りにいる人によって見え方が変わる」ってことだ。

 

仮に「どの人間も生きていい」とする。

まず、近くにいる人がそう思うこと。

次に、自分もそう思えるようにすること。

 

私たちがその子に価値を与えている。与えてしまっているのかもしれない。その価値を与えるってことは、その子の価値を感じているから起こっているといい。

 

一方的に与えると、こちらの思う価値を再現できないとき、こちらの判断でその子の価値を暴落させがち。

 

私のエネルギー源って不満解消、自己満足のところもあるのかもしれない。

でも、子どもたちにとことん利益があってほしいって気持ちも強くある。

ありのままも、ありのままを押さえながらも身につける力も両方いるよね。

「何のための」教育か。

社会生活?自己実現?

単に適応?自立と自律?

幸福感?

まあ全部ひっくるめることになるのだろうけど、これって思いつつゆらぎをもって、子どもを見ていきたいなあ。

 

「モチモチの木」の豆太は、変わったか変わっていないかの話にも似ているかもしれない。

おくびょうな豆太か勇気のある豆太か。

「勇気があるときもあるが基本おくびょうな豆太」みたいな。

 

源泉はいくつもあるってことかな。

 

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