かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

【居心地について考えた】「居場所」と「ありたいと思った自分」と「傷」の話

天気のいい日だ。家の中はどんより。なぜだろう?ハピペンです。

 

居心地のいい場所は、自分らしい自分で居られる場所。もう少し言い換えると、「そこでこうありたいと思った自分を演じられること」かもしれない。

求められるのはナチュラルな演技力。

 

どこでも「ありたいと思った自分」を出すことができたら、どの居場所にも安心・安全を感じられるようになるのかもしれない。

 

そのためには、自分的にも社会的にも許されるようなバランスの良い自分、すなわち「納得した自分」が必要になってくるかもしれない。その完全体のような自分を目指して人は生きているのかもしれない。

 

しかし、場所や人に依存する自分の振る舞いを全統一することは不可能だろう。

これは、=「いかなる居場所においても完全体のような自分」とは存在しないということだろう。

自分はすべての人、すべての場所に存在することはできない。それはつまり、ところ変われば、それまで別の場所で居心地の良かった自分も容易く崩壊するということだ。

 

だが、それは悪いことではない。むしろ捉え方によっては光栄で、それはまだ伸びしろがあるってことだ。

まだ知らない自分、その場で必要な新しい自分の在り方があるってことなのだ。

 

そうなると、居心地のいい場所というのは、感覚的に端的にその瞬間的に刹那的に居心地がよいだけであり、そこには成長もなく、変化がない。

果たしてそれは、居心地が良いが、相応しい居場所なのか?を問う必要が出てくる。

 

この世には変わらないものはない。感覚的にその居場所が変わらないように思えても、何かは常に変化している。学校であれば、人事、子ども、制度、社会情勢等々、様々なものが、変化して影響している。

 

それに気づかないふりをして、居心地のよさを満喫することもできるが、それはやがて崩壊するだろう。

 

じゃあ、崩壊するまでは、のんきに過ごそう楽しもうという考え方もできるかもしれない。

けれど、個人的にベストは、同じように自分も変化していくことだ。

だから、居心地の悪さは、成長のためのヒントであり、捉え方によっては自分にとってポジティブなものだということだ。

ただ、そこに批難や人を傷つけるということがあっては、その居心地の悪さは単なる悪さではなく、払拭されなければならない居心地の悪さだ。無理してそこで変化する自分を味わう必要はない。

 

何事も当然にバランスが重要になる。

 

言いたいのは、居心地のよさっていうのは変化に対して非常に盲目的なのではないか、ということだ。だからといって無限に対応するために厳しく変化に応じられるように孤独でも耐え抜ける力を育てなければならないとも思わないのだけど、自分が変わること自分を変えることに慣れておくことは、悪いことじゃないんじゃないかなって思う。

 

じゃあ「ありたいと思った自分」「納得した自分」って何?って言うのが問いだ。

 

ルソーは、「社会人」と対比して「自然人」という考えを示している。

ありのままの自分には、自然人的な自分でいること。

自然人発→社会人であること。

自然な「人間」というもの自体を楽しんだ上で、それをよりよくするための社会参画というイメージ。

 

反対に、

自然人殺→社会人であること。

これには、なんために生まれたのか、生きるのか、人間とは?が抜けてしまっていて、社会人こそ正しいとなり、社会人スパイラルが起こる。猛殺される、自然人が現れる。

子どもは小さい大人として扱われ、強制的に大人の社会に当てはまるように矯正されるってことだ。

 

それが「ありたいと思った自分」ならいいのかもしれない。それを「ありたい自分と思わせること」こそが、教師の仕事なのかもしれない。

 

子どもはためにD先生みたいな大人になりたいということがある。

その先生によるが、ユーモアのある、統率者と権威という付随物に憧れているとしたら恐ろしいなと思う。

 

話をいろいろと呼び戻すと、

その「ありたいと思った姿(自然人的な姿)」が、チーム(社会人的な役割のある組織)」の目的に合うことで、目的を果たすチームづくりが可能になるだろう。

 

そう考えると、仕事じゃない目的が明確に決まっていない、学級をつくるのは「みんな」だと思う。

私は、学校はシステムであって(大きな目的も含めて)、学校という学び場を利用して学んでもらうためのものというイメージをもちたい。

 

民主主義を意識すること。公だから。功利主義も働いて、教授が先行するところもあるとは思うが、必ず「納得」は必要になるはず。

 

繰り返しになるが、その中でも、自分そのままであることを自分自身が許して仕舞えば、そこで自分は自分の成長を止めてしまうかもしれない。

あくまで学校は「みんな」が重要だと思う。「一般意志」にも近い。

そして、「何こそ自分とするか?」は、また大きな問いで、自分の中の自分と思いたくないものにフォーカスするために、他者があるのかもしれない。

それにフォーカスしてこそ、「自分」なのかもしれないのだ。

これは、レヴィナスの考えに似ていると思う。

それでも、大人になるとその自己の探求をしている暇がなくなる。成長をストップさせた人、人生が安定になった人は、維持を目指す。

 

この辺りの考えは「みんな」ではなく、「己」にフォーカスしている人と相反することになる。

 

ただ、宇宙の真理は常に揺れているし、ダーウィンの言うように「変化し続けたもの」だけが生き残る。

 

かく言うダーウィンすら、血が怖いのに父に言われて医学部に入った。他者を自分に取り入れその意思を生きたのだ。問題は「自覚的な選択があるか」ということで、そこに「自分とは?」の着地点に近いものがありそうだ。

「揺れ」をあえて、止められるような「何か」に出会って「自己決定」しているかどうかだ。

 

まとめ。というか蛇足。

人生は資源だらけだ。今そこにあるものをどう使うかが問いになる。

 面白いのは自分からは安定的、維持的に見える人もその人なりの変化を起こしていることは間違いないってことだ。

 自分本位さはぬぐいたい(こんだけ好き勝手書いておいてよく言うが)。人は結局、自分が変化したと感じることを変化と捉えがちだ。

そして、そのフレームこそ取っ払いたい。全人類称賛的な公式がほしい。

 これからの時代は、「意味付け、紐付け、価値付け」といった、タグ付けの力が求められる。

解釈力とも言えるかもしれない。

これが自分だ!という解釈は、ときに人を傷つける。みんな少なからず学問を基にそれをやっているのだけれど、学問と感情と経験が先行しすぎて、ある人生を傷つけてもいいってことが生まれてしまっているように思う。

「人間は皆平等なのだから、できないのは、お前が悪い」

こんな好き勝手なフレームがいろんなところにある。

そして、それを自分に当てはめられらる人、自分に当てはめられられない人がいる。

自分に当てはめられる人は、自分を成長させるには?と考えられるかもしれない。

自己肯定感が低いとそのままつぶされてしまいそうだが……。