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それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

社会は完全か不完全か

自分なりの視点

最近目覚ましを使わないで起き始めた「ハピペン」です。人は自然に目覚めるときは、レム睡眠で、夢を見ているときです。そのタイミングで起きないために朝のストレスがすごいのではないか、と思ってそうしています。そう思っているからというのもあると思いますが、いくらか、その方が目覚めが良いです。

(今日のは(今日も)ちょーっと、書きたいことをかなりダラダラ書いてしまった記事です。すみません。)

自分と時代とのズレを垣間見た記事

今日は、最近気になっている「宮台真司」さんの記事を見て思ったことを書きます。私は、こういった記事を見ると<メタ認知>を促されるなあと思いました。

realsound.jp

 

この記事に何度か出てくる言い回しに、

映画や小説などの表現には二つの対照的なフレームがあります。
第一は、本来は社会も愛も完全であり得るのに、何かが邪魔をしているので不完全になっているとするフレーム。不全をもたらす障害や悪の除去が説話論的な焦点になります。
第二は、本来は社会も愛も不可能なのに、何かが働いて、社会や愛が可能だと勘違いさせられているとするフレーム。そこでは、ベタに可能性を信じて悲劇に見舞われる存在と、不可能性を知りつつあたかも可能性を疑わないかの如く<なりすます>存在が登場します。

 というのがある。

 

無知で、よく知らない内に、私もこのフレームの中にいることに驚く。

 

そして、私は、<第一フレーム>の思考を持っていた。

 

今時は、性善説ではない?

たとえに自信がないのだけど、私は、将棋に最善の手があり、相手に合わせて最善の手を出すことで理論上必勝法となり得るように(到底人間の頭では計算しきれないが)、「その時」に対応する最適解があると信じている。

けれど、「様々な理由」によって、世の中は最適解が実行できないだけなのだ、と考えていた。

ただ、出来る限り最善手に近づけることはできる。
そして、そこに導いていくための考えが少しでも普及するといい、となんとなく考えていた。(特に子どもの見方等々)

だから、性善説で考えることも多い。みんなが善を持っている前提。公教育ってそういう場なのかもしれない、とも思うけど。

でも突き詰めると、自分の中に「子ども=善」で「大人=善を阻む悪」の図式があることに驚愕する。

私は、子どものことを考えているというより、大人のかかわりの相応しくなさから不完全になっている、と確かに思っていると感じてしまったのだ。

その子のために大人を正そうとする。という思いがあったときに、目的が「子どものため」だか、「大人を正すこと」なのか、自分の中で動機が混在していることに気づいてしまった。(「子どものために大人を正す」という感じに、思考の際に「子ども」が抜け落ちていなければ良いのだけど。)

 

それが、どんな思いだろうと、どんな結果を生むかっていうところまでは決められない。思いと結果には、もっと複雑な変数がかかわってくるだろう。
ただ、その自分の黒さに嫌悪が沸く。

この嫌悪の正体は、自分の正しさを証明しようとする、自己本位さだろう。

秩序が無秩序を否定するという無秩序を生むというパラドクス

これは、学校の怖いところなように思うのだけれど、学校とは正しさを管理している風潮があると思う。

特に先生各々は、集団を管理し経営を進めるために、一人の大人が正しさとして君臨することが少なくないと思う。

けれど、とにかく注意しなければならないのは「ある秩序が決まったとき、それ以外は無秩序と見なされるという無秩序が生まれる」ということだ。

公教育が生み出す秩序は、全員を包摂するということである。それにもかかわらず、ある秩序は、その秩序に適さないものは不適切として扱う。その誰かを不適切な存在として扱うことは、目指す秩序から外れる行為になってしまう。

このさも正しいと思って秩序を生み出しているつもりで、誰かを排除しているかもしれないというところに嫌気が指すのだなと思う。

そして、その秩序の気持ち悪さは、一人の大人に依存した秩序でしかないというところだ。

これは、最近別の路線でも気づいたのだけれど、いくら一人の教師が大人を一人でも多く正したところで、その正しさは一人の教師に依存する

教師とのかかわりがなくなれば、たちまち求める秩序は崩壊してしまう可能性があるのだ。

 

そうしたときに、やはり<第二のフレーム>が必要になるということだと思った。

 

どこに向かって邁進しようか

高圧的な正しさを横に置きつつ、依存も避けて進むにはどうすればいいのか。

問題は、もし正しさを訴えているだけで、自分は何もできていないとしたら、それはもうどうしようもないと言えるくらいの存在だということかもしれない。

でも、もししているのだとしたら、それは違うのかもしれない。

 

そう!勝手にひらめいてしまってとても気持ち悪いだろうけど、ちょっとここまで捉え間違いをしていたわ。

 

要は、正しさで誰かをやっつけようとしてたのか。さらに言えば、実際にやっつけちゃったのか?ってことだ。

やっつけようとしているときもあるのではないか……という心配はあるのだけど、だからと言って周囲の人が誰か倒れてしまったわけでもない。

そういう意味では、倒れるまではいかないけれどふらつかせるくらいはしているのかもしれない。

それでも、周りは立ってくれていて、目指す方に向かって、みんな(私も含めて)立て直して、子どもを見つめている。こっちが事実だわ。

 

目指す方には何があるのか?

目指すということは、今ここにはないという前提があるということになる。

本来は社会も愛も完全たり得るのに、何かが邪魔をしているので不完全になっているとする<可能性の説話論>。
本来は社会も愛も不可能なのに、何かが働いて社会や愛が可能だと勘違いさせられているとする<不可能性の説話論>。

 

改めて考えると、私たちがこのどちらを生きているかは、分かりえないことで、そもそもはこの間を生きているというか、この二つのフレームのどちらもを眺めることができる<現在地>という<現実>に立っているだけということに気がついた。

 

言ってしまえば、
性善説は素質ではなく後付けの願望だったのかもしれない」し、
性善説は本当生まれ持った性善説かもしれない」ってことだ。

この正解はなくて、分かっていることは、「性善説を目指そうとして目指しているけど、私たちはなかなか辿り着けない」ってことだけだ。

性善説だろうが後付けだろうが保持している「理性」と性善説じゃなかろうが後付けされたものでなかろうが保持している「本能」に<現実>を呼び起こされているってことだ。

 

たぶん、ここからは、じゃあそれはどう選ばれるのか選ぶと何が規定されるのかというところが問題になるのだと思う。

 

人々は自分なりの希望に向かって

人々は、結局、今の自分が巻き起こしたい方向へ向かっていくのだとしか言いようがありません。

正しさも正しくなさもそもそもなくて、そこにはそれ(という現実や社会)が存在していて、絶え間なく生まれ変わり続けているということです。

そこに勝手に<現在地>によって、善し悪しを見い出しているに過ぎないということです。

その価値観に本質を見いだしたり、統一性を持たせようとするのは、どこか違うというか大きなズレを生む可能性があるということなのだと思います。

けれど、やっぱりこの両方と重なる宙ぶらりんになる視点があるように、誰もの営みにも共通される考え方があるような気もします。

その考えの中身、質、量などは違うのだけど、その考え方は同じかもしれないってことです。

ここまで来て思うのは、「<現在地>からの<現在地>なりの希望性(希望だと感じられる生き方)を見い出したいんだ」ってことかな。

人々は、善し悪しというよりは、単純な希望に見えた、そう錯覚した、そう感じてしまった方に行ってみたくなって<現在地>を変えて見え方を変えているだけなのかもしれない。

そうそう、現実の見え心地がいいところで、時の流れを見ていたらいいだけなのかもしれない。

そこで、手を出すこともあれば、手を出さないこともあるってことなんだと思う。

その躍動は、自然な偶然と必然の折り重なりで、ある種オートメーションで進んで変化も起こるものなんだと思う。

 

世界が最悪でも、デタラメでも「変数を楽しむ」「それでも正しいと思うことをやっていくしかない」。そうして、子どもたちには、社会を信じて参加しようと思えるようになってほしい。その幻想しか、社会をよくしようと思える原動力にならないだろうから。

そう、だから、人は後世に真/善/美をプログラムするってことなんだと思う。

社会がデタラメできつさを感じたんだろうね、そのデタラメさも覆い隠されているし……おや?(隠してんのか。)

 

宮台さんの記事の続きです。

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