かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

信じるってなんだっけ(旧:生きるって楽しいじゃん)

 

信じるってなんだっけ

(最初に頭に浮かんだ流れと反して、思った以上に重要な項になった。だから長い……)

信じるってなんだっけは、一体「何を本当と思えばいいのか」の話だ。

信じるの意味をまず見よう。

辞書の意味(goo)
・本当と思うこと。疑わずに、そうだと思い込む。とある。実にシンプルでいい。

漢字の成り立ち(web)
人+辛+口だそう。(そうだったのか!言うではなかった)
口で言ったことが嘘であれば、受刑することを誓う(辛の意味)で、
「まこと・真実」って意味のある漢字だそう。

要は、「信じる」ってのは、「本当なんだね」ってことみたい。また、真実だと思えるということ。

信じるってなんだっけと、真実ってなんだっけはつながりのある話だ。

信じるってなんだっけは、「本当と思うこと」について書いた。
真実ってなんだっけは、「真実」がなんなのかについて書いた。

ところで、信じるってことは、出来事を「はじめる」ために必要なことではないだろうか。

いやいや、最後には「信じる」しかないんだよ、「おわり」に必要なことだろ。そう言う人もいるかもしれない。

けれど、人は、出来事を起こすために「信じる」のではないだろうか。
(起こさない場合は、起こさないということを、起こす)

物事が起きるまでの手順の最後に来ることはあるかもしれないが、「信じる」は、最後の手段というわけではなくて、出来事の起点、「はじまり」、はじめるための行為だろうと考えた。

これをふまえて、一つの仮定を話す。
それは「私たちに起こるすべて、なにもかも、どんなことでも、はじまりには『信じる』ということが求められるのではないか」ということだ。
(信じていないときも、無意識とか認識できない部分で、自分は、その出来事が起こることを信じている、または、本当や真実と思う力が働いている)

では、どうすれば、信じることができるのか。

「信じる」の意味にもある「疑わない」がヒントになりそうだ。

「疑わない」という考えは、たとえば、誰かと過ごすときに、その中でも特に「はじめて」過ごすときに重要な考えだ。
(用心はするとして)疑わず、無垢に相手のことを信じて接することは、人間を大切にするために(人間らしさに)必要な考えになるだろう。

入口に疑いがあっては、その場が心地良い場として過ごしきれないように思う。

でも、ただ、「疑わなければいい」としても、それは簡単なことではない。
信じるだけに固執することは、自己犠牲的で良いのだけど。
(疑えば傷つくのは相手であり、信じれば傷つくのは自分だけである)

もう少し考えを巡らせて、心地よく信じられるようになりたいものである。

それにしても、私たちは、なぜ、信じることがあまり得意でないときがあるのだろう。

信じる範囲、段階のようなものを四つ考えた。

・あなたを信じられない。
・自分を信じられない。
・誰も信じられない。
・何も信じられない。
(この四つをまとめて「存在」を信じられないと捉える)

なぜだろうか。
なぜ、人や世界を本当と思えないのだろうか。

(仮定を使って考えると) 一体、「何をはじまりにしたくない」のだろうか。

私たちは、なぜ「存在」を「うそ」にしようとしてしまって。
私たちは、なぜ「存在」を「本当」にすることができないのか。

「本当」もとい「真実」は、「この世で生きやすくなるための自分なりの認識」だと、真実ってなんだっけで話した。

上に挙げたどの「存在」をも「信じられない」というとき、その人が「この世の真実(不変のルール)」をも信じられない、ってことにしてしまう生きやすさに逃げていないかが気になるところだ。

真実は、どうしたって真実でしかないのに。

この世界も、地球も、大好きだったあなたも、一生付き合っていくはずだった自分も「信じられない」
これは、真実なのだろうか。「自分が生きやすくなるための認識」なのだろうか。

この考えは、何かを「信じられない」状態が、「真実ではない」ということを証明できる考えな気がする。
当たり前に「自分が生きやすくなるための認識」が自分(の本質)が生きられなくなるような真実であるはずがないからだ。

誰か。

誰かが邪魔しちゃいないか。

本当は信じられたのに。

誰か。誰かのせいで。

誰だ?生きることを邪魔しているやつは。
(誰かが邪魔をしているかもしれないという疑いもない方が良いけど)

今、私たちが、「ここ」にいるのは、どうあがいたって事実で真実だ。
これは、何が起きても肯定されるべき事実である。

「今、あなたは、そこにいる。」
これは、全員が逃れられない信じる(本当と思う)しかない真実だ。

でも、誰かが「誰かをいないことにしようとした、存在を否定しようとした、本当でないことにした、信じないことにした」

誰かが、疑ったのだ。

「この存在は、間違いだったのではないか」と。


さぁ、素敵な話をはじめよう。

この世に信じることを禁止されている人は誰一人としていない。

誰もが、出来事を「はじめること」が許されている。

今から!

今!あなたは、

・あなたを信じることをはじめていい。
・自分を信じることをはじめていい。
・誰もを信じることをはじめていい。
・何もかもを信じることをはじめていい。

自分が「どんな存在である」かをはじめていいのだ。

・あなたは、真実である。
・自分は、真実である。
・誰もが、真実である。
・何もかもが、真実である。

すべての存在を肯定していい。

じゃなきゃ、誰もいないし、何もない世界だ。

私たちは、いていいから、いるに決まってる。

もし、「自分はいちゃいけない」なんて思う人がいたとして、その「自分はいちゃいけない」ってのは、もとからずっと思ってたことか?
「誰かに思わされただけじゃないのか?」

信じられないんじゃない、信じられなくなったんだ。
前は信じられたはずだ。
生まれたときは、信じられた。
2歳の誕生日までは信じられた。

そんとき、できていたことが、どうして今できないか。
それが、成長した姿でいいのか。

いや、違う。

ならば。

ならば、私たちは、帰ればいい。
と、言っても、なにも生まれる前まで帰る必要はない。

「ここ」まで一緒に来た、本来の自分のところまで立ち帰ればいい。
今も「あなた(本当の、本質的な、真実のあなた)」は、「ここ」にいるのだから。
何が起きても、本質は消えることはない。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、一生レオナルド・ダ・ヴィンチだ。
自分というのは、見えなくなった気がしているだけだ。

ここまで、分かると、次の戦う相手は自分になる。

たとえば、
信じないことにしているのは自分自身にすぎないんじゃないか。
自分がはじめようとしていないだけなんじゃないか。

そうかもしれない。

だって、

私は、あの日から「自分は、はじまっていないもの」。
もう、「(本質の)私は、やめたの」

そうだ。
いつの日か、もうとっくに「自分を殺した」私がいるんだ。
自分を本当でなくしてしまった自分が。

生きるために。生き残るために。
「自分(の本質)を終わらせることをはじめた(信じた)」わけだ。

そうすることが、この世界のためになる。
そして、もう傷つかなくてすむと。

確かに、それは、この妙な「社会(人間同士の営み)」の中では必要な部分もある。

けれど、もしかすると、それでは、やり方が悪かったかもしれない。

根っこの根っこから自分を終わらせる必要なんてないのだ。
当然に、命を絶っていなくなる必要なんてのは、もっとない。

私たちがしなければならないことは、終わらせることではなくて、本質のよりよい「形化」だ。
自分の本質から、そのまま表に出てしまうことを止めるだけでいい。少なからず加工して自分を表せばいいのだ。

本質は消えない。真実は変わらないのだ。

であれば、どう加工し、どうあがいたって、本質は滲みでる。

でも、それでは、私の本質自体は伝わらない。そう思うかもしれない。
けれど、それでいいのだ。本質が丸々伝わってしまうのであったら、自分はいらなくなってしまう。
自分が丸々他人の中に入れるのだったら、自分はあってないようなものである。

私たちは、全員違う、そして決して完全に交わることはない。
それが、この世界の醍醐味だ。

この有限の世界では、どうしたって、形化された自分しか表現できない。

私たちは、自分を終わらせずに、ずっと火を灯していていい。
相手に見える炎は、どうしたって形化のフィルターを通した、そもそもの灯の一部だ。
そうしなければ、生きにくい部分がある。

ただ、ちゃんと、そもそもの灯に近いものを見せられる相手もいる。

けれど、相手を選び間違うことによって「信じられない」状態に陥ることもある。
特に肉親は、見せていい相手、見てくれる相手だろうと勘違いしやすい。
知っておくべきは、見せてはいけない肉親もいるということだ。
大部分は無条件で見せていいことが多いようだけど、全員がそうってわけじゃない。
ありのままの自分で生きさせてくれない、ありのままの自分で生きると大火傷をするような肉親はいるのだ。
でも、それは、別に不幸でもなんでもないし、ただ近くにそういう人がいただけだ。
それが、私たちにとって、よりよい真実だったのだ。
大切なのは、そこから、どこへ向かうか選択することだ。

ここまできて、

私たちは、何を信じるか。
何を真実にするか。

「もう一度選択し、はじめていい」

「今」から「信じていい」

・「今」からあなたを本当だと思ってもいい。
・「今」から自分を本当だと思ってもいい。
・「今」から誰もを本当だと思ってもいい。
・「今」から何もかもを本当だと思ってもいい。
(一番下は、何も間違いはないってことに近い。これは簡単な考えではないけれど。)


それでも、一度「信じない」ことにしてしまった自分を「信じられる」自分にするのには、言葉だけじゃ足りないだろう。

自分を信じること。「自信」についても話す。

辞書には
・自分で自分の能力や価値などを信じること。自分の考え方や行動が正しいと信じて疑わないこと。

ここから、自信がないってのを四つの言葉に分けてみる。

・自分の能力を本当とは思えない。
・自分の価値を本当とは思えない。
・自分の考えを本当とは思えない。
・自分の行動を本当に正しいとは思えない。

後半二つは危険な香りがする。
自分の存在を否定することに近い感じがするからだ。

どうすれば、自分の存在を本当と思えるか。
要は、この四つの反対が起こればいいわけだけど。

これには、心ってなんだっけで少し書いた考えが役に立つ。

身体と心と魂が自分だって話で、
魂は、自分以外のすべてだった。

身体は、自分の外側。
心は、内側。
この二つだけでは、自分しかいない。
それでは、自分しかいないのだから、自分が何かは分からない、という話だ。

自信がないということは、視点を変えれば、自分の中に他人が誰もいないってことだ。
いろいろ合点がいくと思う。
自信がない人、一人になりやすい理由はこれだと思う。

自信は、一人になって考えて考えて高まるとかいうより、
誰かに存在を「認めてもらって」得られるものなんだ。

応用として、人間ってなんだっけで書いたような、
「自分」から「自分」の間にいる他人を使って、いろいろ考えたり、思い出したりして、
得られることもあるけれど、
そもそもの間にいる人に気づきにくい場合は、一人になったところで見えにくいように思う。

他にも、読書も他人を入れることを補ってくれると思う。

「認める」ってのが、自信(自分の存在が本当だと思うこと)につながるのは、
認められることが、相手からの「存在認識、存在肯定」で、あなたは、そこに実存している、本当と思う、あなたは真実という「自分の真実」を間近に感じられるからだろう。

はっきり言って、世界中の自信がないって話は、気のせいだ。
どっかの誰かのちょっと嫌なやつの存在否定のせいで感じる、出来上がってしまった思考パターンの一つにすぎない。

また、著しく自信がない場合は、まだ、自分の存在を認めてくれる誰かに会えていないだけだ。
なんの問題もない。近くにそういう人がいないのだから、自信はなくて当たりまえってことだ。

存在を信じられるようになるには、この「本質を他者認められる経験からはじまる」
どういうことかって言えば、

信じるが「はじまり」に必要なことだとして、
自信がなければ、「自分がはじまらない」ってことだ。

この四つを思い出してほしいのだけど。

・あなたを信じる
・自分を信じる
・誰をも信じる
・何もかもを信じる

ここまでは、「自分を信じる」までのことを書いた。
少し、まとめると、

まず、認めてくれる存在、「あなた」を見つける必要がある。
どこにいるかは分からないけれど、それでも、目の前に現れる「あなた」とのかかわりが必要になる。
そこで、先手で信じることをはじめられたなら、「あなた」の存在を認められたなら、次に、そのかかわりから、
・自分の能力
・自分の価値
・自分の考え
・自分の行動
を認めてもらえるチャンスは来るだろう。来ないとしたら、それは「あなた」の選択を誤まったに過ぎない。
ただ、これも純粋な経験値でしかない。次に行けばいいのだ。
そうして、自己の存在(能力、価値、考え、行動)が認められたら、次のステップ「誰をも信じる」に行きましょうって話だ。
この、自分を信られるようにステップは重要だ。
自信という安全基地がなければ、「誰をも」という大きな外の世界に行けないことは、少しも不思議ではない。

この「誰をも」の中にも、範囲の大きさの段階はある、一つの例を挙げれば、人が人への好意をもつ要素に、近接性、類似性、相補性なんかがある。
近接性は、席が近いとか、家が近いとか。
類似性は、興味や性格が似ているとか。
相補性は、自分とは違うけれど、お互いに必要性を感じられるとか。
さらに、全く知らない未知の誰かも含んでいくような段階。

自分を認めてくれる人もいる。
自分を認めない人もいる。
その「どの存在をも真実」だと思える、「誰でもこの世界にいていい」って思えるってことです。

ただ、この辺りからは、VS.社会になってくる。
義務教育が終わると、社会は「あなたがもっているもの」に認めるか認めないかを判断してくる。

ここが、私たちのすごく難しいところで、私たちは、私たちの「本質」、「人間ということ」だけで営める「社会には」いないってことだ。
(世界にはいる)
「あなた」という本質だけでいいって「社会」ではないのだ。
(「あなた」という本質だけでいいって「世界」ではある)

このバランス感覚の良さが生きやすさにつながる。

ただ、このバランス感覚(社会と人間の本質と自分のバランス感覚)が必要なことは、誰も教えてくれないことだから、
知らないうちに溝にはまってしまって、生きづらさを感じて生きていくのは、どこの誰にも起こる当たりまえのことだから心配しなくていい。

実際、この性質があることに気づきさえすれば、必ず、社会で生きられる日は来る。
(自分の本質が必ず生きやすさにつながることを分かってもらうために、「忘れてしまった当たり前のことたち」を書いているようなものだ)

少しこの辺りをまとめると、
自分を信じつつ、誰をも心地よく信じられるように、生きやすさを抱いて生きるためには、社会に参加することが大切になるってことだ。

理由の一つとして、それだけ、社会に参加している人間の総数が多いからである。
その中に入るってことは、それがそのまま大きく自分の存在肯定になるし、他人と社会の中で共存できることは、それだけで、たくさんの人の存在をも同時に認めることになるからである。

そこにいられないということは、否定まではいかないまでも、そこにいる人たちから「認められる」ということを得られない感じがするという「疑い」につながるのだ。
それで、苦しくなる。流れとしては、当然自分も疑いたくなっていく。

ここでの、大きな注意として、本質は決して否定されない。何が起きたって、絶対に誰もが生きていいのがこの世界だ。社会は、それを実現する役割も担っている。
ただ、今はまだ過渡期だ。誰もが生きていい世界にしていくために、生きづらい誰かがいては本当は本末転倒なのだが、社会によっては、社会の中で生きてしまって、本質をうまく見られないで生きている人もいるので、そういったことが起こる。

ただ、それくらい自由が保障されている生だとも捉えられる。(部分では本質からはずれてしまうことも許容されるということ)
だから、私たちもいくらでも、どこにでもいられるという事実もあると考えられる。
(この辺は考え方次第で、持っている真実による。)
こう考えると、反対にというか、社会は、自信や他人を信じるための取っ掛かりにできるとも考えられる。
社会で認められるだけで、自信を得られるってことだ。
ただ、それだけに頼ると、どこかで自信を失う日がくる。

「信」を本当、「自」を自分と捉えれば、本当の自分を失う日が来るってことだ。

だから、私たちは、本質は忘れてはいけない。
誰もが生きていてよくて、誰もが存在を認められているということを。
(こんなことは、憲法に散々記されていることだろうけど。)

あと、いくつか自信を得た中では、否定してくる存在も必要である。
だって、どうしたって、それは、あなたの魂なのだから(自分以外のすべては魂)。
それは成長の兆し、自分の本質からの指針なのだろう。
(ただ、相手の未熟さもあり、「形化」が下手でむやみに傷つく可能性はある。
それも、できれば気にしなくていい。)

今、誰かがそこにいることを、私たちは認めなければ。
誰かを「ないもの」にすることになってしまう。
(そんなやつばっかりだけど)

もし、大きくはじめられるなら、私たちは、せめて私たちは、
疎ましいアイツらも、真実と思いたいって。
そういう意味で「誰もを」って言葉も入れた。

四つの最後、「あなた」「自分」「誰も」「何もかも」の、
・何もかもを信じる
ってことについて話す。

これは、もうそのままなのだけれど、究極にはというか、最後にはというか、結局は、私たちは「何もかも信じていい」という真実の中にいる。

すべては通過点にすぎなくて、流れの一部にすぎない。
どうあっても、何があっても、私たちは「一つの流れ」として見れば、
良いも悪いもなくて、すべてで一つなのだ。

だから、「私だけが」ということも「あなただけが」という考えもそもそもない。
あなたは、私だし、私は、あなただ。
こっちに来て間もない幼児たちは、そのことがよく分かっている。
泣いている子がいるといくらでも寄ってくるのは幼児だ。
泣いている子を見て泣き出す子もいる。
泣いている子を見ている子どもはみんな不安そうな顔で覗き込んでいる。

その姿は、自分も相手もなく、美しい。

また、細かい話になるけれど、
私たちは、「生まれもって善である」という考え「生善説」ってのがあるけど、
私は幼児を見ていてそう思った。
「年長男子は、本当に成人男性みたいに人に優しい」って言葉を聞いてそう思った。

ただ、人間ってなんだっけで言ったように、「人間は成る生き物」でもある。
生まれもって「善」ならば、すでに善であるから「善に成る」ことはできない。
だとすれば、人は一度「善からはずれる」のだろうと。

それが、存在を疑いはじめるということ、信じられなくなるという現象に近いと思う。
自分の生に嫌な気分を感じるということだ。

でも、上で「一つの流れ」だと言ったように、その瞬間を捉えれば生は嫌な感じがするが、流れを見れば、私たちは「善に成る」ための通過点にいるにすぎない。

善から善に成った状態が、どんな状態かといえば、「私とあなたが別々の存在だと認めたうえで、私もあなたも同じ存在なんだね」って思える状態ってことだ。

自分を大切にするように、相手を大切にするってことだ。
そして、これは、再三言っているけど、「人間を大切にする」という「人間らしい生」に必要な考えだ。

「誰をも」、そして、「何もかも」。
この世界中の出来事、嫌なことも悪いことも、何もかも全部、今(通過点の私たち)としては認めるしかないってことだ。
ただ、それじゃあまりにもだから、やっぱり社会があってルールが用意されていて、私たちが最大限生きやすいように仕組みを整えてくれている。
(まだ完成はしていなくて、途中段階だけど。そして、たまに回り道もあるけど。)

でも、そういう全部を「信じる」って、そうして、「はじめよう」って。
「私の私を」
「私たちの私たちを」

とりあえず、「信じる」って話はこの辺にしておく。

もう少し、途中で思いついたけどうまく入れられなかったことを書いておく。

私たちは、もう、自分を疑わなくていい。自分を嘘にしてしまわなくていい。
本質を認めるから、あなたはそこにいていい。

そして、やっぱり、認められるには、表出が重要になると思う。
認められる要素が、相手が感じ取れる形で表に出ていなければ、それを認識して認めようがないからだ。

そうなると「形化」ってことが結構鍵になることが分かってくると思う。

そもそも、私たちは真実(本質)を抱いてこっちに来ていて、材料があるのは当たりまえで(日常にあふれている。自分の外側と内側、自分以外のすべてが材料で四六時中メッセージが発信されている)。
だから、私たちは、それに気づいてどう表現できるか。
たとえば、先に生きて作り上げられている、社会人って彼らにどう表現できるか、なんかが生きやすさにつながるわけだ。

それと、「何もかも信じる」って考えはいろいろ面白い。
自信にという言葉を使ったよく聞くフレーズに「自分を信じろ」とか、信じるのは自分だってのがあると思うんだけど、 自分から少し離れたところ、「自分の人生を信じる」ってのはどうだろうか。

自分ではコントロールできない部分。
たとえば、自分が信じられることってのは(自分でも、相手からも)嬉しいことで、自分が生まれたかいを感じられることだと思う。信じてもらえると頑張れる気持ちになることも多い。

同じように人生ってやつも「あなたが信じてくれれば、元気になってよりよい方へとがんばれるのに」って思っているかもしれない。
(一時そう思って、人生とよく話した。「信じてるからもうちょっと頑張ってよね」って。)

さらに、その反対も考えた。
I'm feeling your intuition and fate believe you.
(私はあなたの直感と運命があなたを信じているような気がします)
そうか、たくさんの見えないいろいろも、私を信じてくれているのだとこの言葉を思いついたときに凄く感じた。
私が人生を信じているように、人生もこの「私」を信じているのだ。

あぁ、私が、私をはじめなければ(信じなければ)、悲しむ私のこの先の運命やら人生やら、私が引き連れている彼らは、下を向いて淋しがるのだと。

ここまで、すべて。

何を信じるか。何を真実と思うか。
「何を本当と思えばいいのか」の話だ。

真実ってなんだっけにも書いたけれど、
私たちは、自身が何を真実と思うかで、真実は容易く変わってしまう。
自分が嘘だと思えば、自分の存在は容易く嘘になってしまう。
自分が死んだ方がましだと思えば、自分の存在は容易く死んだ方がましになってしまう。

ただ、救済策はあって、

誰かが、あなたが真実だと思えば、あなたの存在は真実に変わる兆しを見せる。
誰かが、あなたが生きた方がましだと思えば、あなたの存在は生きた方がましに変わる兆しを見せる。

私たち一人ひとりが、何を信じているかの違いだ。
信じるべき本質を見誤らなければ、もっと生きられる誰かがいる。
ここからは、選ぶ力の話になる。
あなたが、真実だと思う何を選べるかの話だ。
(これは、またどこかでできたらいい。)

信じることを「最後の手段」と思わないで、信じられるってことを「今」から「はじめられる証拠」と思ってほしい。

信じるってなんだっけ。
信じるってのは、何を真実と思うかのことだ。

私たちは確かに、自分が存在していて、何を信じるのかを選んでいる。
いつ、何を信じはじめてもいい。
でも、「今」確かにあなたがいることは、紛れもない真実。誰がどうあがいたって、信じられる、信じていい真実の一つ。生きていていい証拠だ。