かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

88日目:「〇〇の前に人間だろ」

快晴と朝。暑いけれどカーデァガンを羽織りたいハピペンです。

 

昨日の夜ぼやぼやと本を読んでいた。

34年前の本。信じられん。

 

「もつ?」「ある?」

障害を「もつ」となっているところに時代を感じる。

今は障害が「ある」と表現する。

 

しかし、書かれていることは「障害は『ある』」という視点。

 

34年前から、大切なことは言われ続けているのだと思った(一体今まで何を考えてきたのだろう。もう散々言われていることに時間を使ってしまっていたのだと気づいて苦しい気分でもある。正しいテクストや人に出会ってなかっただけなのだ)。

 

もちろんそれが伝わっているか?というとそういうわけではないだろう。

 

ここにある声よりも、大きな声で叫ばれていることの方に心を囚われるのだと思う。

 

「障害は社会がつくる」という項がある。

 

共同性

この本の中でピンときて仕方がないのは、

「人間の本質にある共同性」について書かれているところだ。

 

医者が「ありえない」と思ったことを越えて、親が共鳴し、共感し、交流することで、子が奇跡的な発達をする場合がある。

 

この

「共鳴、共感、交流」

に、私は心を囚われる。

 

マジョリティの発達は「科学」が担っていることが多い。人間の在り方は「科学」や「数値」で判断されてしまう。

 

どのような問題も

「共鳴、共感、交流」

を怠って起こっているように思える。

 

「共鳴、共感、交流」していない何かがあるときに、人は「障害のある人」と「障害をつくる人」になるのだと思う。

 

これが、下手をすると「障害をもつ人」と「障害のない人」に分断される。

 

それは、苦しむ誰かを生み出してしまう。

 

【疎外論】

北海道旅行で読んでいた本の中で、「ファイエルバッハの【疎外論】」という考えが浮かぶ。

 

【疎外】とは、

「もともと人間の中にあるものを外部に投影し、さらには、その投影したものからかえって支配を受けてしまうこと」

を指す。

 

たとえば、マルクスは、この【疎外論】を「労働」に当てはめた。

人が「労働」を生み出したが、いつの間にか「労働」のための人になってしまい、まるで労働に人生が支配されてしまうようだと。

 

「〇〇の前に人間だろ」

少し前に「ホストである前に人間やろ」ってタイトルのドキュメンタリーがあった。

 

自分も「〇〇の前に人間だろ」ってのが頭をよぎる。

 

「労働の前に人間だろ」ってな風に。。。

 

「利益の前に人間だろ」とか。

「点数の前に人間だろ」とか。

 

「人のおおらかさ」

もう一つ、目についた言葉がある。

  • 「丸ごと受け入れていく……人と人との関係」
  • 「人のおおらかさ」

 

この二つが、科学を越えて「共鳴、共感、交流」を可能にすることがある。それが、人を発達させる。

 

「可能性」を信じるってことに近いと思う。

 

そして、それは温かいと思う。

 

 

雇用率はなぜ水増しされたのか。

 

  1. そもそもそんな人(障害者)はいなかった。いなくていいから、水増し。
  2. 単純なミス(見間違い)
  3. 規定と違う人を雇ってしまっていただけ、その人たちをいない人にしないために枠を流用してしまった。

 

ただ、考えるほど違和感が湧くのは、人間に枠があること。仕方ないのは分かる。

 

でも、障害者だったから良い。障害者でなかったからダメ。とすると、何かを見落としているような気がする。

 

「資格のあるなしの前に人間だろ」って思い始める。

 

問題は障害者の仕事がないことの方な気もしてる。

 

水増しが悪いって話ではなく、水増ししてしもうような事情生み出す何かが悪い。

 

でも、それがとんでもないことだって言う社会にはなっているのだからいいのかな。

 

障害者と向き合うこと「共鳴、共感、交流」している企業や自治体の方が多いのが事実だと信じよう。

 

発表された「愛媛、高知、山形」以外では、きちんと集計されているのだろうから(?)。

 

なんだか、俗世から離れて修業をしたい気分だ。