かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

感情ってなんだっけ(旧:生きるって楽しいじゃん)

 

感情ってなんだっけ。

これは、脳処理と言えばそうなんだけど、その癖ってあると思う。

「あれ」が「楽しい、かわいい、恐い、嫌い、苦手、得意、好き、おいしい、悲しい、つらい、嬉しい」とか。

この反応がどうして人それぞれに違うのか。

それは、感情は、言わば運命の指針で、あなたが誰かに、何かに出会うための指針だからだ。

もし感情がなければ、僕らはアメーバやヒドラのようなものだ。
誰とでも出会い愛し合うことになる。

けれど、唯一無二の人生のために、指針は必要だ。
どのアメーバーを取ってもアメーバーらしいように、どのヒドラを取ってもヒドラらしいように、
僕ら、どの人間を取っても人間らしいのはこの感情のおかげ、一人ひとりの指針があるおかげだ。

何度か取り上げているように、選ぶってことが自分を表現する一つの手段だ。
その選ぶうちの自動的な部分に感情があると思う。
なんでも好き、なんでも嫌いであれば、その人の存在は風のように、その時その時にあったりなかったりするようなものになるところがあると思う。

外界に対して自分なりの反応を示せることが、自分の自分たらしめるところでもあるのだ。

その感情をヒントに生きていくことが、自分らしく生きていくことになる。

ただ、この感情を垂れ流しにして生きていけば「自分らしいか」というと、それはそれで今度は人間から離れる部分があるからややこしい。

人間らしい人間には、感情のコントロールも問われる。

どういうことかと言えば「社会ってなんだっけ」に書きたいのだけれど、僕らの人間生活には「人間本来的にありのままの自分」と、「社会の中での自分」の二つを担うってところがあるのだ。

ただ、これは、ややこしいが、厄介というわけではないと思う

たとえば、人はずっと「赤ちゃんでいたい」とは思わないだろう。
勝手に言葉の便利さに気づいて、興味を持ち言葉で表現するようになる。

すべての欲求を泣くことで示すのではなく、より迅速に欲求を伝えるために言葉を知り、感情を抑えながら言葉で表現するようになる。

しかし、感情を伝えるとなると、感情を出した方が早いように思う。
感情を伝えるには、感情を出すしかないのだ。

ただ、ビジネスや社会生活では、感情を出さない方がよいこと場面が少なくない。あくまで内容を伝えることが必要とされる。もちろん、内容が伝わるように感情を込めることはある。

そして、言いたいのは、この「ビジネスのような内容の分かりやすさ」が「プライベートでも求められすぎている可能性がある」ということだ。

家族、友達、恋人さまざまプライベートな状況の中でも、今の私たちは冷静に対応する必要が増えてきた。
このご時世のせいか、よく言う人間関係の希薄化ってやつのせいか、最近の私たちは感情表現が上手ではない。
感情的にぶつかって、処理できる周囲の人間が少ないこともあるだろう、感情の先のフォローができる人が少ないのだ。

感情表現が許されなかった分、感情を出さない方が良いことと捉えている場合もある。
けれど、感情をコントロールした方がいいのと同じくらい、感情を表出することも大事である。

たとえば、役割が違うと思う。
感情をコントロールするのは、相手に考え方を伝えるためだ。感情を伝えるなら感情的でもいいのかもしれない。

そして、感情を出さないことを徳と捉えて感情を抑えるのではなく、押し殺してしまった場合、その代償が出ることがある。

感情っていうのは、自分の指針だと言った。だから、押し殺した自分は指針を失い、生き方を見失うのだ。
だが、自分が息さえしていれば、心臓さえ動かしていれば、本当に自分が息絶えてしまうということはない。

いつかの自分を思い出せば感情は引き出すことができる。
感情を見失った場合、ほとんどは感情を思い出す作業が必要になる。

それか、身体を動かすことだ。身体を動かして脳を動かすことで、忘れかけた感情の呼び水となって引き出すことができることがある。同時に似た理屈で、人付き合いも重要なカギとなる。

そうして、少しでも感情が出てきたら、その感情を保管できるといい。
その脳の動きってことになるけれど、その感覚が出たときに「これ」って思い出せるようにするのだ。

保管のためには、「名前」をつけるという方法がある。

特に小さい頃に自分を殺し過ぎてしまった場合、いいかげん大人になってからでも感情に気づきにくい自分がいることに気づくことがある。

自分が辛いのか、辛くないのかよく分からなかったりするのだ。
他にも頑張りすぎることが当たりまえと感じて、自分の頑張りを認めにくいこともある。

感情を吐き出す体験を意識的に大切にできるといい。

一日の嬉しかったことを捜してみたりして。

感情を抑えて生きるときはあるとしても、自分が感情を抱いていることは大切にして生きると、自分の指針を見つけやすくなると思う。

遺伝からもらったフィルターと、多くの種類の環境にかかわることで、その分だけ自分はオリジナルの指針を打ち出すようになると思う。

あまり変わり映えのない人生だと感じるなら、その分新しい刺激、新しい感情の起こる体験が必要ってことだ。

そうして循環からの脱出をしたとき、動く感情がある。

注意しなければならないのは、生活している中で感情の振れ幅が少ないってことは、それはそれで平和ってことだ。
その平和を無理矢理に壊せってことではない。

ただ、感情がありさえすれば、そのままの人生でいたいって思い続けることはしにくい。
ジッとしていていいからって、ジッとしていられないのが人間だ。
人間は何かしたくなる生き物だ(何かの中毒によって何も考えない時間を手にし続けていれば別だが)。

感情が動く体験を、指針を手に入れる体験を嗅ぎ分けて手に入れてもらえたらと思う。

今、その感情が、どんな感情か見極めるんだ。その感情を埋もれさせるために湧いて出てくる感情もあるだろう。
けど、それも大切にしながらさらに遡るんだ。その先に何があるか。

あの頃の自分は、今の自分を見てなんて言うか。
あの頃の自分は、どんな感情、どんな指針をもっていたんだろうか。

あの頃の自分は、今の自分は、自分を見てどう思っているんだろう。
あの頃の自分は、今の自分は、この世界を見てどう思っているんだろう。

その感情で、今動ける何かがあるはずだ。
手段はいくらでもある。感情をコントロールして、伝わる手段か。
感情を表現して伝えるのか。それは選べばいい。

あなたをあなたたらしめる感情で、唯一無二の自分を表現する生を選ぶんだ。
そのために、いろいろ知ったのだから。

すべては「伝えるために」だ。
感情コントロールすることがあっても、そのときの感情を必ずどこかには、誰かにはいつだって表現していいということを忘れないでほしい。

伝えたくて、伝えたくて、誰かとつながりたくて言葉を覚えた自分を忘れないでほしい。

感情ってなんだっけ。

それは、自分をこの世界とつなげる重要な手がかりだ。