かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

大切ってなんだっけ(旧:生きるって楽しいじゃん)

 

大切ってなんだっけ。

 大切ってなんだっけ。

 大切ってワードは生きる上で結構重要なワードだ。

 最初は考えを二つ紹介したい。
 一つは、  「生きる上で必要な大切なもののために生きる」のもいいけど(お金とか食糧とか)、「大切なもののために生きる」って思えることも(人とか夢とか)必要なんじゃないかって考え。

 もう一つは
 「大切なものがなければ人生を大切にしようがない」って考え。
 
 この言葉たちに強さを感じないだろうか。命に乗っかる「何が大切なのか」がなければ、人生を大切に生きるのは難しいんじゃないかって話だ。

 そうして、考えたいのは、そもそも、その「大切にする」ってのは、一体どういう行為なの?ってことだ。

 はじめは、大切っていうのは「いつでも思う」というようなイメージがあった。けれど、どんな人間も延々と「誰かだけ」を思い続けることはできない。瞬間瞬間に別のことに意識が行ってしまうはずだ。
 それほど、いついかなる時も、誰かを、何かを思っているときがあるとしたら、ただの依存症でしかないだろうし、いくらキムタクが大好きな人がいたって、四六時中キムタクのことを考えているのはたぶん不可能だと思う。トイレのとき以外はキムタクで頭がいっぱいと表現する人はいるかもしれないが。

 たとえば……大切にするっていうのは、その人の「存在を認める」ということではないだろうか。その存在の在り方や、誰かが訴えていることを「ありだ」って思うってことだ(虫を発見したわけではない)。
 
 しかし、認めさえすればなんでも大切にできているかっていうと、そうは感じられない気がする。ただ存在していて大切にされている気がするってのは、実感と違うなあ……と。
 
 そして、ふと、大切にされていると言えば、「赤ちゃん!」と思って考えてみた。そうして出た答えは「優先順位を上げる」ってことだ。
 赤ちゃんの泣き声ってのは誰でも気になるようにできているらしい、それは本能的に何かが起こったこと、それを解消する優先順位が高いことを分かっているからだろう。電車の中で聞こえれば、視聴率はかなり高いものになる。この何かを解決しなければならない焦る感じが嫌で、赤ちゃんの泣き声が嫌いな人もいる。

 そして「存在を認めて」、「優先順位が上がっている」が大切にするってことか、といえば、それじゃ気持ちのような見えない部分だけだなと思った。
 「大切に"思う"」ならばこれでいいのかもしれない。ただ、「大切に"する"」ってなると「よりよく生きるのに必要なものを"与える"」っていう動作も必要だなと思った。

 ここで辞書の意味を見てみる。
(なんだか辞書の別解釈集になってきちゃったかな)

(goo 辞書)
【大切】
 1 もっとも必要であり、重んじられるさま。重要であるさま。
 2 丁寧に扱って、大事にするさま。
 3 急を要するさま。

 類語の「大事」も見てみた。
【大事】
 [名]
 1 重大な事柄。容易でない事件。
 2 大がかりな仕事。大規模な計画。
 3 たいへんな結果。非常に心配な事態。
 4 出家して悟りを開くこと。

 [形動][文][ナリ]
 1 価値あるものとして、大切に扱うさま。
 2 重要で欠くことのできないさま。ある物事の存否にかかわるさま。

 もしこの意味で存在を「大切」にできたなら、みんな幸せだろうなと思った。
 ただ、この世界の真実が、誰もが「もっとも必要」だというのが事実だったとしても、誰もが誰に対しても同じように接するのは難しいだろう(それこそ、そうなると自分が自分である必要がなくなってくる)。
 
「【大切】の1」と「【大事】の-2」はつながるところがある。「全人類が大切」だとすれば、その誰もが「もっとも必要」であり、「重要で欠くことのできない」もの。しかも、「ある物事の存否にかかわる」っていうのは、とても筋が通っているなと思った。
 大切にするには、「(誰かにとって何かにとって)必要」だと捉え、「(欠くことのできないのだから)欠かぬように」し、必要としている人にとっての「物事の存否」を妨げなければいいってことだ。
 
 個人的には、これこそ、この地球で起こしたい感覚だ。
 
 そして、「【大事】の-1」も意識したいところだ。たとえば、全人類を「価値あるものとして」って捉えるってことだ。この捉えも、「全人類を大切にする」という考えの手助けになる。その価値についてのくしゃくしゃなやりとりは「価値ってなんだっけ」とか「続・自分ってなんだっけ」に書いた。

 その具体は、なんなのかって話で、さっき上に挙げた、
 
 ①存在を認める
 ②優先順位を上げる
 ③よりよく生きるのに必要なものを与える

 ってことがあると思う。大切にするための考えの枠組みは辞書がくれたとして、その枠組みを適っていると感じられるものにするには、この①②③の考え方が役に立つんじゃないかってことだ(決して「①②③だけが」ではない)。
 
 ①は「丁寧に扱う」とか「価値あるものとして」って部分、
 ②は「急を要するさま」って部分、
 ③は「もっとも必要で重んじられる」や「重要で欠くことのできないさま」、「ある物事の存否にかかわるさま」って部分と重なる。

 ただ、③の「もっとも」というのは少し難しいなと感じた。
 実生活の中では、先に言ったように、全人類に同じに誰もが同じに振る舞うってのは現実的ではないわけだ。その個人によって、大切さの優先順位はどうしても出てくるのが実際だろう。

 そうなると、「自分は『何を』大切にするのか」ってことが必要な考えになってくる。

 「自分を大切にして生きる」というとき、「何を自分として、自分の『何を』大切にするのか」ってのが重要なのだ。ただ、何か一つに絶対絞れっていう話でもない。頭の中を常にたった一つの同じもので占めるのは、無茶な話なので、同率一位って感じに、いろいろなものを自分にとって大切にしていいだろう。
 
 でも大切にしたいことの優先順位は人それぞれに違いがあることだ。たとえば、自分と相手が二人で生きている世界があったとして、食糧が少なくなってきたとして、自分を大切にするってのは「より多く自分が食べることなのか」、二人だからこそ相手と生きたいと考えて「相手との時間を大切にするのか」など。

 これは、はじめに言った、
 
 生きるのに大切なもののために生きるのもいいけど(お金とか食糧とか)、
 大切なもののために生きるって思えることも(人とか夢とか)必要なんじゃないか。

 って話だ。私たちは、ただ命を存続するために命を存続するのか、それとも「何かのため」に命を存続するのか。大切にするってことは、自分の命を使って何をしていくかってことを決めることに近いものがある。

 そして、「大切にしたい何か」は存在していなければ大切にできない。ないものを大切にするのは難しい。思いなどは在るものとして、大切にしていけるかもしれないが、亡くなってしまった誰か自体を亡くなったあとに大切にすることはできない。
 あのとき、存在を認めておけばよかった、優先順位を上げておけばよかった、よりよく生きるために何かを与えておけばよかったと思っても遅いのだ。
 大切にできなかったとすれば、それは、存在を認めていなかった、優先順位を上げていなかった、よりよく生きるために何かを与えることができなかったのだから。
 基本的には、なくなったあとに大切にしようとしても遅いのだ。その大切にしたかった対象を胸に、今自分の自分にあるもの(思い出など)を大切にするってことはできるだろうが、それは自分の考えを大切にしているって感じにも近い。それでも、その対象とのかかわりのあった事実を大切にすることで、つながるものも当たり前にあるのだけど。

 ここまで来て、私たちは、何を大切にしたいと思うのだろう。

 何の存在を認めたいのだろう。 
 何の優先順位を上げたいのだろう。
 何がよりよく生きるために与えたいのだろう。

 気づけば日常は見慣れて、私たちはつい近くにあるものを軽んじてしまうことがある。
 たとえば、一番近くにあるものこそ一番大切にしなければならないのに。
 (ただ、大切にしている思いが、大切にされている思いとして成り立っているかは、対象がどう受け取っているか、感じているかによって変わってくる。そのギャップを少なくすることが、その費やした総時間が「愛」なのかもしれない。)
 
 一番近くにというのは、当たり前に、「一番近くにいてくれる(いると感じたい)存在」や、「自分の感情」だ。自分から近いほど文句は多くなるけど、その近くにあるものこそ本当は大切にしなければならない対象だろう。
 
 大きくは「自分か自分以外」かという話になる。あとは、その大切具合の配分だ。

 その大切なものを選ぶってことは、自分の人生をどう大切にするかってことに近い。
 この考えから、自分の人生に存在するものすべてを大切にするってことも可能かもしれない。自分の人生に存在するものをこの外界のすべてと捉えれば、すべてを自分として大切にするような、全人類を大切にするというような考えに辿り着くかもしれない。

 そうなると、本当は自分は自分で大切にしなくてもいい(誰かしらが自分を大切にしてくれる)世の中があってもおかしくないのだけれど、今は、現代はそうもいかないみたいだ。
 
 それぞれが、それぞれの大切なものを見つけて、大切にできたらいいなと思う。

 また、大切さは、跳ね返ってくるものだ。向こうから自然にはやって来にくい。
 大切にされないと嘆く人も少なくないように思うけど、じゃあ「あんた何か大切にしているのか」って話になる。
 私たちは、もう、赤ちゃんではないから。そうそう、無条件に大切にはされにくいのは、虚しい現実とは違って、誇れる当たりまえの事実だ。赤ちゃんのための時間は赤ちゃんに使われるべきだろう。
 自分を大切に生きることは重要だけれど、その大切にしている自分が誰かにつながるものでなかったら、いくら自分を大切にしても、その自分が大切にしようとしているものが、自分でしかないから、自分を大切にしてくれるのは自分一人分だけってことだ。もし、全人類を自分が大切にできたなら、自分を大切にしてくれる人は70億人にもなるってことだ。
 
 人生も、生きるってことも、あなたを信じて待ってる。
 人生も、生きるってことも、あなたが大切にしてくれるのを待ってる。

 あなたが、自分の人生や自分が生きていることを認め、
 あなたが、自分の人生や自分が生きていることの優先順位を上げ、
 あなたが、自分の人生や自分が生きていることによりよく生きるための何か(知恵や食べ物や他者とのかかわり)を与えれば、

 自分の人生も、自分が生きていることも、あなたを大切にしてくれるってことだ。
 
 そして、誰にも大切にされない人生はない。だって、生まれてんだから。
 まず、10カ月分、誰かを大切にしてみたらいい、生んでくれたエネルギー分誰かを大切にしてみたらいい。
 そこから、はじまる。

 大切ってなんだっけ。

 人は、大切なものを大切にしなければ、大切にすることはできない。

 決して欠くことのできない生である自覚をもって、あなたが、ある物事の存否にかかわっていることを忘れないでほしい。