かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

愛ってなんだっけ(旧:生きるって楽しいじゃん)

 

愛ってなんだっけ

 

これは、目に見えないものではないかと……。
愛は目に見えない。そんなの当たり前だと?

でも、目に見える愛もあるじゃないですか。
動作であったり、物質であったり、何かを施してもらうということ。
けど、それは、=(イコール)愛ってわけでもない。

誕生日プレゼントなんかをあげれば愛なのかというと違いますもんね。
普通の光景として、誕生日プレゼントを一緒に買いに行くっていうのがありますけど、
それはそれで子どもは断然嬉しいのですが、その愛いかに?なんてことを思います。

つまりは、誕生日までに、なんとか相手がほしいものを探り探り、
前もって買う時間を作ってプレゼントを用意しておく。
その方が相手のことをたくさん考えていて、愛があるんじゃないかなあなんて思うわけです。

つい確実にほしいもの、そしてスマートにそれを与えるために、一緒に買いに行った方が、
相手の得になると考えますが、それは確かにその通りでそういう愛情は愛情なのですが...。
まあ、負担の少ない方にというのは人間の本性的な部分もあるでしょうし。

大人になって振り返ると、そうやって影で考えてくれたり、行動してくれたりしていたことが、
愛情なのかな、なんて考えるわけです。

無償の愛。こうした言葉は人々の耳によく入るのではないでしょうか。
その結果、この言葉の重みが少し軽くなってしまったような気がします。
無償の愛と一言に言っても、無償の愛がどんなものかは、簡単には言葉では表せません。
そこには、やはり、愛が現象で捉えることのできないもので。
やはり、愛が目に見えないものだからに他ならないように思うのです。

なんとか現象で捉えようと考えてみるとすれば、
やはり相手の目に映らない、相手の知らない相手への考えや思いやり、
行動は無償の愛に近いように思います。

それは、相手が知らなくても施す気持ちだからです。
なんの理由もなく相手が喜ぶことをただ「したい」とか相手のためになることを「する」
こうした気持ちが愛なのではないでしょうか。

身近なところで言えば、お腹が空いてご飯を食べることや、眠くなったら眠ること、
勝手に呼吸をしていること、心臓が動いていることなんかは、自分への愛に近いように思います。
中には嫌な質問をする人がいて、じゃあ人工呼吸器の人は愛がないのかとか言われそうですが、
そうした人には、周囲の愛があるのではないでしょうか。
いや、でも、もしかしたら自分へ施すことだけが、真の愛かもしれません。

人は、他に施せば、返ってくると思いたいものですから。

他に、目に見えないものとして、心や幽霊なんかが挙げられますが、
これらは、見えないから不安になるもので、もし、はっきりと見えたらその不安はなくなるように思いませんか?
心は見えないという事実があるので、見えなくてもあきらめがつきますが。
幽霊は、見える人がいたりします。だから見えるのか見えないのかはっきりしないせいで不安ですね。

では、愛はどうか。愛は、見えるつもりでいる人が多いのではないかと思います。
愛は見える。そう思っている人たちがケンカをしているのではないでしょうか。
愛が見えないから、愛を示せって怒ったりするわけです。
それは、行動の要求だったり、物質の要求だったりします。
けれど、愛っていうのは、そういう上辺の世界というか、
「はいっ」とあげて「ほいっ」と受け取れるような簡単なものではないと思うのです。
もっと深いところでつながっているというか、目に見えないんです。
相手への愛というのは、目に見えないところに存在しているんです。

本当の意味での愛は、形に表すものではなくて、
時間の共有だったり、相手のことを考えたりすることではないかと思うのです。
意思疎通ができないなんてこともあります。けど、それは愛を見ようとするから嫌な気持ちになります。
それで一緒にいられなければ、いなければいいだけの話です。
ただ、それでも一緒にいたりする人はいます。
私は、ある意味でそういう人たちこそ愛なのではないかと思うのです。
会話もない、下手すれば相手への考えもない、けど、共有している。時間とか生命を。
それは、人間の次元では表せないような、もう運命的な深い愛が内在しているのではないかと考えずにはいられないのです。

耐えることができなければ脱するまでです。でも、留まるならば愛だと思います。
勘違いしてはいけません、耐えること=(イコール)愛ではありません。

しかし、愛が見えないという前提だとすると、なんでも思えばいいみたいな、妄想みたいな世界になってしまいますね。
そうです。それじゃただの変態みたいになります。

ここがややこしいところなのですが、
愛が人間の次元を超えているとしても、我々は人間ですから、
我々、人間が愛が見えないものと理解していても、
その最初の発見、きっかけには、見える愛が必要になるのです。
見えないところから、見えるところへの変換を人間(自分)を通して行い、
人間(相手)に伝えるわけです。
そうして愛がはじまって、付き合いが長くなれば、
だんだん無償化してくる(なんだか高速道路みたいですが)、
つまり、本来の愛の在り方に近づいていくということです。

ここでの注意は、無味乾燥な愛こそが本物だということではないということです。
もちろん愛情を目に見える形で示せば分かりやすいですし、相手も受け取りやすいでしょう。
それを続けられることも十分に温かい愛です。
むしろそれを続けられることは、相手を深く思っているわけですから、やはり愛です。

言いたいことは、愛は見えないものだということで、
しかし、きっかけには「目に見える愛」が必要だということです。

何かをしてもらうことだけが愛情を受け取ることではないということです。

簡単に言えば相手を思うことなど、純粋に相手の幸せを願って考えることも愛だということです。
また、相手が考えていなくても、共に生きられることがまず愛の一つではないかということです。
人生に長い時間かかわった人間が存在するという、そこに愛は存在しているのではないかということです。
どんな形にせよ。

目に見えないから嘆くことが山ほどあるけど、
目に見えないという前提があれば、見えないことに対して納得できるものがあると考えたのです。
それに、何かしてくれなきゃ愛じゃないってのも嫌な話です。

世の中にあなたのことを考えている人はいます。それにいたはずです。
そこには、必ず愛があったはずです。たとえ憎まれていたとしても、
それは愛で(ここは少し難しいし、意固地な捉え方な気もします。)
何かあなたが必要な経験をするための空からのメッセージだったのです。
そう考えられることが、考えてあげられることは、あなたが持つ愛なのだと思います。

人は愛を持っています。生き続けてその愛が光る日にたくさんの人が必ず笑えます。
その日まで生き続ける。

愛ってなんだっけ、それは、目に見えない、けれどそこにあるもの。