命ってなんだっけ。
命ってなんなのか。
これは、一つの視点からじゃ捉えきれません。
二つの考えを書いてみます。
一つは、量の話。
命は時間だと思うのです。命は時間。これは=(イコール)です。
命=時間、命と時間。
これは、同居しているものだと思います。
時間の分だけ命があって、命がなければその人の時間もないわけです。
だから、人は自分の時間を生命として扱っていくわけです。
我々は、生きていくために、時間を売ります。(働くってこと)
少しややこしい話をしますが、時間がお金になるということは、すごいことです。
人は、
時間という命を売って、
↓
生きる材料(お金など)を得て、
↓
その材料(お金など)で命をつないでいく(つまり時間を得る)
動物もかな?
いや動物は生きることが目的で、要は時間を得ることが目的だから、
生きるために、命を賭けるの一択ですね。
我々のややこしいところは、ただ生きることが目的ではない、
でしょ?!って考えさせられるところですね。
人が生きるのには何か意味があるだろう?とかそういうことです。
いやいや、と言ってやりたいですが、夢だなんだ探し回れって言われますね。
そこで、私は、じゃあなぜ命と時間をつないでいく必要があるのかと考えたわけです。
それもよく分かりませんでしたが、単純に言えば、長く生きたいということかな、と思いました。
より長く生きていたいから、つなぐのだろうと。
これは、自分が長く生きたいということです。
要は、時間的なもので、自分が長く続いていくということです。
いやいや、「自分なんてこの世の中から早く忘れさられたい」という人もいるでしょうが、
それは、やっぱりそう思ったからだよね。
確かにそれは、そうかもしれない。この世がつまらなければ留まりたくないに決まっている。
オレだっていじめられて辛い教室があったらそこに留まりたいとか思わないからそれと一緒だ。
まぁ、だからこういう話をするわけだ、留まろうぜ、この世はなかなかクソじゃないんだぜって話。
話を戻す。
動物は、子孫を残すことが目的でしょう?たぶんだけどね。わかんないけど。
自分っていう意思とかじゃなくて、自分の「種」だと思うんだよね。
う~ん。
でね、時間経過の分だけこの世界に命が存在するわけだ。
そして、それが誰かに知れたときに私たちは相手にとって存在するわけだ。(当たり前だけど)
その現象が自分にとっての「命」じゃないかってことね。
さっきの「自分はこの世から消えたい」って話と少しつながるんだけど、
要は、これが命でたまるかって人もいるに決まっているんだけど、
その消えたくなるというか、命を失くしたくなる感情は、
その誰かの中に存在する命がよく見えてこないからそう思うんじゃないかってことなんだ。
誰かの中に命(自分の存在)がある(感じられる)人。誰かの中に自分が生きている人は、要するにいつまでも生きられるわけで、
それは寿命の後もだ。もちろん、身体のあるうちは生き生きと生きられるでしょう。
(これは生きるってところとか、別のところでも言いそうだから、 命ってなんなのかってことにはならないように思うけど。)
ここで、言いたかったのは、命が時間になって時間が命になるってことね。
そして、その時間の分だけ命が生まれて、命の分だけ時間が生まれるってこと。
それが、また誰かの命とつながって生きていくみたいなことが言いたかったんだ。
もしかしたら最終的にうまくまとめられるかもしれないから、次に行ってみる。
命は、時間の長さだみたいな話をすると、じゃあ子どもはどうなんだ!と。
亡くなった赤ちゃんはどうなんだ!と。私も当然自分に対してそう思いました。
お前の言ってることは、なってないよ!と。
ここは、非常に発言を謹んで、気をつけていきたいところですが。
私は、そういう、なってないところの理由のようなものをしばらくずっと考えていたときに、
何かの本で、「そうした人間は天使だった」というのを見ました。(出典を見つけたらまた書きます。)
「その人は、その周囲の人のために来たのだ」と。
そんな言葉で納得するのは安易で、そんな簡単に納得してはいけないことは重々承知ですが、
反対にそうとしか考えられない、そう考えることは、素直にその人の思いを受け取り、
その人の喜びへとつながるのではないかと、そんなことを考えました。
これは、逃避ではありません。その辛い経験をしっかりと受け止め、
ずっと心に抱いて前向きに生きていくという、愛情のようなものです。
すると、命は、ただ量で考えられるものではないなということが分かります。
当然といえば当然ですが。
要は、質のようなものになってきます。
命の質?なんだそりゃ。
要は、90歳の命も1歳の命も同じなのです。
その質はいかにといった感じがしますが、同じなのです。
それにどこでこの世を去っても、その価値は等しいはずなのです。
誰の人生より、誰かの人生が優れていたり、劣っていることなどあり得ないのです。
そこで、どうやっても同じ命、「おんなじだよ」と分かった上で。
いくら生きても同じだったら早くこの世を去った方がいいのか。
ねえ、それってなんの競争?って話です。
この世は速さの優秀さを競うところではありません。
まるで、1番とか、素早くゴールに辿り着く優秀さばかり競っているように感じてしまうのはよく分かりますが。
我々がしているのは、死にたがり競争ではありません。
そんなのが、我々が辿り着く命ってなんであるかの名回答だったら、生まれた瞬間死んだ方が正しいみたいでムカツキます。
あ・の・占い師も、「死ぬために生きてる」と言っているのを見たことがありますが、
もちろん語弊があるのでしょうが、何を言ってるんだろうと思いました。
人は、死ぬためになんか生きてません。(少し話しが脱線しますね)
死にたくないから生きてるんじゃないか?つまり、生きたいから生きてるってことね。
そう思えない人がいるから、考えるわけだ。
我々は、生きたいから、生きるために生まれたはずなのに。
さっき、そうした人間が天使だと書きましたが、
私は、人はみんな天使だと思うのです(たとえば)。
死に方に満足も不満もないはずですが、優しい死に方っていうのはあるかもしれません。
むごいのは確かに胸が痛みます。
人はみんないずれ死にます。しかし、早さに関係なくその価値はみな同じでしょう。
すべての生命は同様に平等であり美しい。
我々は、突然誰かのところに舞い降りて、誰かのところへ飛んで行き、
また返っていくのでしょう。
命はその役目を探り続けるようなエネルギーなのではないでしょうか。
それを人間的に目に見える形が時間と言えるかもしれません。
しかし、命の個数は“1個”です。
これは、生きてさえいれば、やり直しが利くということでしょう。
反対に失敗しても良いという証拠でもあります。
辛くても間違いじゃないってことです。
私たちは役目を終えたときに自然とここを去ります。
なのに、自分からリタイアなんて、悲しすぎます。
そんな最後を天の誰かさんは与えていないはずです。
それを乗り越えることが本当に試練なのかもしれません。
そうしたら強くなれます。また、そうしている誰かを助けることができます。
同じように辛い思いをしている誰かを。そういう役目があるんです。
前回のあなたはそこまでだったのかもしれません。
けど、つながってまたここに来ているのです。
なんとか、生き抜く。布団にもぐったまま、縮こまってでもいいから耐え抜く。
命は、何かと、誰かとつながるためにあります。
だから、生きていれば必ずつながるのです。絶対に。
「命は生きるためにある。」当たり前じゃんかと思えますか?
これは、つまり...。命のあるものは、死ぬためにいるわけじゃない、これは同時に殺すということがあってはならないことを示している。
っと、これは、全部私の独り言的な考えでしかありません。
自分で考え導くことがもちろん大切です。
一つの意見を知って、肯定否定してみんなさまざま自分の考えにしていくのだと思います。
生きるってなんなのかとか、命ってなんなのかと。
命ってなんだっけ。
それは、あなたが生きていい証拠そのもの。
そして、なんとなく、「生きるってなんだっけ」に続く。