最近コンビニの店員さんに、めっちゃ覚えられていることが判明した「ハピペン」です。新しい商品が出たときに職場に大量に買ったのを覚えられていたりして驚きました。2、3か月前だよそれ……みたいな。でも、まあ悪いことして覚えられているのでなくてよかったか!
最近、ふと「自分のもつ〈価値観〉」と「自分に沸いてくる実際の感覚」の違いに気づくことが多いです。
そこから浮かんだ「損のない〈価値観〉を与えてあげる」という話。
自分の価値観?
私にはいくつか後悔していることがあって、それはこんなこと。
- 友だちと集まって遊ぶことをあまりしてこなかったこと。
- バンドでドラムをはじめたころに習おうとしなかったこと。
- キャンプやバーベキューにあまり行ったことがないこと。
言い換えると
- もっと人を好きで過ごしていればよかった。
- もっとちゃんと習えばよかった。
- もっと自然を楽しんでおけばよかった。
といった後悔があるのです。
どれも今からでもできなくはないことですが、あくまでこれまでの後悔ってことで……。
そして、ただ、「選択したのは自分だよなあ」という感覚はもっています。自分でその都度選んでいました。ちゃんとこういった〈価値観〉で選んでいました。
- 集団が嫌いだと思った
- 習う事が嫌いだと思った
- 野外活動や自然体験が嫌いだと思った
ふと、えっ、でもなんでこういう〈価値観〉なんだろう?と思った。
そして、最近、というか先週、子どもと接していると、なんでか、ポツポツと自分の小さい頃の思い出が浮びました。それで、あることに気づきました。
小さい頃の思い出
サッカー
浮かんできた思い出の場面は、「サッカーの習い事の場面」でした。
私は、サッカーを友だちにつられて2年生のときから始めました。
しかし、遠征に行ったときなど後から入ったってことで、仲間はずれにされるような気持ちになることがありました。
そういうのが嫌でやめました。
そして、母は、「ハピペンは一人でやることの方が好きだもんね」と励ましてくれたのです。「習字」は好きだったので、恐らく、それが根拠になって出た励ましだったと思います。
私は、この励ましに「そうか、だからサッカー嫌なのか」と強めに納得しました。
でも、不思議なもので、私の母の認識と私の認識では辞めた理由が違います。
私は、あの集団が嫌になって辞めたと思っています。
しかし、母は、引っ越しがきっかけでやめたと思っているのです。
だから、それは「習字」じゃない?っていうつっこみを入れたい。
スイミングとピアノ
これは、もっと小さいとき、幼稚園の頃に習っていたものです。
これは、先生が変わって嫌になってやめました。確か男性の先生になってくじけたかな
?(そういう父性に弱いっていうのも私が当時もっていた価値観です。まあそれは置いておいて)
結局スイミングを習って泳げないうちにやめてしまいました。
そのもっと前にピアノを習っていて、それもどこかで嫌になってやめています。
(読まれている方は「おいおい」って思われるでしょうね……)
この結果、いつか母に言われたのが「ハピペンは習うの嫌いだもんね」です。これにも強く納得しました。そう「オレは習うのが嫌い!」。
ボーイスカウト
これは近所の子が入っていて、私も何度か体験して入ったのですが、結果的にやめました。
自分の時間や考えが奪われていく感じが嫌だったように思います。
あることを「合っている・正しい」として進んでいくのが嫌いみたいです(今気づいたけど)。
その理由とか考えとかちゃんと納得してやる気になってやらせてもらいたいタイプなのだと思います。(この辺の感覚があるから、支援の役に立っているとも思う。)
そして、これを辞めたくなった理由も要はある集団心理のようなものが嫌だったということなのです。
そんな中、母はこう言いました「ハピペンは、キャンプとか好きじゃないもんね」。これにも納得しました。
実際は、外という心細さの中で、いつもの安心できる家と違うところで寝るのが嫌いだっただけだと思うのですが、自分の中で「ボーイスカウトが嫌い」=「自然体験が嫌い」みたいな〈価値観〉が出来上がっていました。
これも、先週、偶然、子どもが借りた植物の図鑑を見ていて、面白い木に「触れてみたい」「直接見てみたい」と胸がときめいたのです。それで、「あれ?オレ自然嫌いじゃないな」って思ったのです。「この木なんの木」を見に行きたいと思っていたし、それが「日立の樹」って呼ばれているくらいには木に興味が強かった。
まあ、それでも、もはや、大体の問題は「打たれ弱さ」な気がしてきたけど……。
(この間遺伝子検査で「やや打たれ弱い」傾向って出たし。あと、何かしら(?)のせいで、男性の厳しさに弱かったです。私は。)
でも、この年になって思ったのは、「それって本当に集団が嫌、習うのが嫌、自然が嫌、そういう理由だったの?」ってことです。
子どもの「本質」を育てたい
実は、私は、サッカーが嫌いなわけでも、スイミングが嫌いなわけでも、ボーイスカウトの活動が嫌いなわけでもないのかもしれません。
また、集団が嫌いなわけでも、習うことが嫌いなわけでも、自然体験が嫌いなわけでもないのです。
実際は、それぞれの「枠」に「苦手とする何か」があっただけってことです。
英語も習っていたのですが、これは、学年が上がって教室が変わったときに、前に座っていた学年が上の男子二人にまだ習っていないことを聞かれて笑われるのが嫌で辞めました。
嫌だったそれぞれは、厳密には「ある人」や「ある場」の「ある特定の何か」が嫌だっただけなのです。(この「全部が嫌い」ってわけではないってところが支援に似ているなあと)
私がうまくできていなかったことは「本当を上手く伝えること」なのかもしれない、と思っています。
また、「聞こうとする」ということを、その時、偶然大人たちがうまくできなかったのかもしれません。
テレビのエントリーで書いたように「自分を出せる」っていう環境や基盤が家になかったっていうところもあるかもしれません。
これらから生まれてきている私の〈価値観〉が「子どもの〈本質〉を育てたい」というものです。
〈本質〉ってなんだよって言われると少しまだ整理しきれていないのですが、
「言葉にできない思いや考えをちゃんと受け取って、その子の“本当は”に出会って支えていく」ってことです。
どういうことかというと、私は、本当は、サッカーをしたかったし、スイミングもしたかったし、英語もしたかったなあって思うのです。今だからそう思えるだけかもしれませんが、私は明らかに、そこにいた「ある人々」が嫌で辞めたということははっきりと覚えています(ボーイスカウトは集団の雰囲気)。
その“本当は”を拾ってあげて、“本当は”を目指せる選択肢も選べるように環境を整えてあげられる大人になりたいな、と思うのです。
「損のない〈価値観〉」と「正常な〈ライフスタイル〉」
ここで扱った〈価値観〉というのは、〈アドラー心理学〉でいう〈ライフスタイル〉という表現に似ています(また勉強してどこかで扱いたいと思いますが)。
「自分の思う〈価値観〉の錯覚」、「親の言葉」につくられていた部分が、私のもつ〈ライフスタイル〉の一部です。
アドラーは〈正常なライフスタイル〉の態度の大切さをよく言っています。そこに近づいていかないと社会で生き辛いと。
つまり、たとえば、親は子どもを守ろうとして、いろいろな励ましや視点を与えて、その子が潰れないようにすると思います。そこまではいいです。
ただ、潰れそうだから、一般論を伝えないで保護するというのは、間違った保護かもしれません。
何日かして落ち着いたときなどに、「ある〈価値観〉」の大切さは伝えなければなりません。その上で選択させ、その選択には賞賛を与え、少し休んだら、その<価値観>のために、何が出来るかを共に考えることが大事だと思います。
そして、その伝えるべき〈価値観〉は、子どもによって違うでしょう。
「集団の楽しさ」を伝える必要がある子どももいれば、「一人で頑張る大切さ」を伝えなければならない子どももいます。
「人から習う大切さ」は生きていく上で必須なスキル。むしろ人間の醍醐味ですらあると思いますが、反対に「自分で創意工夫をする重要性」を伝える必要がある子どももいるでしょう。
ただし、「ある<価値観>」に偏りがあり、社会に必要な力からずれていくと、結果的に生き辛いことがあります(当たり前ですが)。
今の私は、生きていて楽しいと思うし、そんなには辛くありません。
それは、いざというときに奇跡的に、私を支える客観的な正常な〈価値観〉に出会い、それを糧に「行動できているから」だと思います。
未来で子どもに「損のない〈価値観〉を与えてあげる」ってことを考えてかかわらなきゃと思った「ハピペン」でした。(その〈価値観〉はなんだろうかをまた書かないとですね。おそらく〈共通価値〉なわけだけど。)