バスで都内観光な「ハピペン」です。
やっぱり、最近「ゴールの共創」や、メンバーの「最適解」などが気になっている。
先日の「価値観の違いを乗り越えるには?」への参加も似た動機がある。
その「違い」を乗り越えるには、「対話」が重要なのではないか、と感じている。
(「どんな対話が必要か」っていうのはこの先考えていきたいこと。)
とりあえず今日の経験を書いていく。
今日は、同僚の一人と様々なことを話した*1。大体、高校から20代後半までについてをお互いかいつまんで話した感じだ。
夏休み何をするか、はまったアニメ、好きなアーティスト、やっていたスポーツ、教員の前何をしていたか、していたバイト、忘れっぽいこと、時間管理が苦手なこと、家族のこと、外の風景を見て思いついたことなど。(友達みたい)
よくある通過儀礼的な話と言えばそうなのだけれど、それが、約2時間・1時間・1時間半と計4時間近く朝・昼・夕と間を空けながら話した。
とても面白かったのが、最後に自然とお互いの教育観の話に踏み込んだことだ。
「学校じゃ生きにくいだろうなという子ども」について話し合った。
言葉を理解しにくい子ども(言葉をまとまりで読めない子)は、どんな風に世界を認識しているのだろうか。そして、そういう子は、テストなどの評価基準では計れない良さをもっている。
もちろん学校は点数で評価せざるを得ないのだけれど。そこで、たとえば、こちらが点数以外の良いところを感じて家庭に伝えたとしても、家庭の価値基準が点数なこともあって生きにくさを脱せないこともある。
共通のキーワードは「100点がすごいのではない」ってことだった。
頑張ったならそれはほめるに値するかもしれない。しかし、100点だからすごいってことではない、といったことを話し合った。
一日お互いのことを知り合った後の最後の最後でお互いが抱いている「共通のテーマ」が垣間見えた。
表面だけを知っていて、1学期間職員室で顔を合わせる程度では見えない部分。
この日常の中で相容れないと思うところもあると感じながらも、本当はそうでないという捉え直しが心地よくて心強くて楽しい。
純粋な対話時間、距離感の濃さを経て、お互いの教育観を話すことができたなら、そこに「親和性」が生まれ得るのだろうな、と思った。
(「親和性」とは、ここでは「お互いが結合する性質」というニュアンス。)
もっと端的に言えば「対話」が「親和性」を生むってこと。
時間がどの程度必要かはテーマや人によって変わると思うのだけれど、対話によって自分をメタしながら聴いて、相手を受け入れて、表現し返すことを繰り返す過程で、「共有できる何かが共創され得る」のだった。
なんとなく浮かんだのは「みんな自分が正しいと思っているけれど、みんな自分が合っているか不安」ということだ*2。
たとえば、警戒していると「正しい」までがアピールされる。一歩踏み込むことができたとき「不安」の視点から相談や打ち明けるといったことが出てくる。
この「揺らぎ」から「共創」が生じる。
最後にかけてくださった言葉は「勉強になりました。ありがとうございました」だった。社交辞令もあるだろうけれども「一周回って学び合えたね」って感じも受けた。
他にも、ライフハックの話で盛り上がるシーンもあった(タスク管理&ミニマリストについてなど)。みんなオーバー30の人たちで、若い人たちと括られることが多い自分が、またいつもと違ったつながりを深められたのが本当に嬉しかった。
話してもらえる距離が嬉しかった。そういう人でありたいとも思った。
そして、ちょっと分かった。ああ、そうだ。私は一年契約だから周囲の人にとってやたらなプライドっていうバイアスがかかりにくいんだ*3。だから、話してみてくれるんだなあ、内側のことを。それって本当にありがたい立場だなあと思う。一歩踏み込んだ深いつながりって好きだね。
これを読まないと。
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