いろんな人がいていいよね、いざというときはみんなで守ろう! 「ハピペン」です。
あおせんさんの記事!
性善説?性悪説?どちらかで悩んだときには… - 先生の働き方Design研究所
これいいなーって。
結局、この失敗の可能性を前提にできるかどうかに教師のファーストステップがある。
経営力かも。
やりっぱなしで、エラーを修正する自信がない、周囲に口出しされて困る、目的がブレる人はこのチャレンジができないだろうな。
どんな人も「私のキャパ」までしか、手を広げられないは広げられないとして、ミスしないためのキャパって意外と狭くて、ミスしてもなんとかなる方のキャパを意識している人は少なそう。
コンフォートゾーンの話になるかもしれない。
職場環境によっては、働けば働くほど「学校は正解があるところ」だと思い込んで仕事をしている人もいるだろう。
注意と決定が仕事で、指導改善が仕事ではない人。
4月から毎日怒鳴られている子は未だにハンカチを忘れている。
その仕組み、システムが誤っていることに気づけない。じゃあ一石投じろって話で、もちろんそうしたい。
子どもに言った言葉は必ず……。
人はそうそう次世代の規模まで想像して目の前の人に接していないだろう。
私もそういうときもある。
ただ、結局、人はされたことしかできない。
そして、あの日自分が嫌だったことを自分が自然としてしまっていることに気づけて、自分を変えようと思えたならいい。
しかし、簡単なことではない。
目の前の子どもを従えて、心地よくなっている裏で、そこで失われた自尊感情は、また次の世代に搾取される。
自尊感情の食物連鎖、弱肉強食。そういう悪循環があると思う。
今クラスの雰囲気は甘い、甘々、子ども同士が目の前の子のために言葉を掛けられる。
1から6までいい意味で並列。
1学期かけ続けた言葉が伝播し始めている。
幸福連鎖を狙って働きかけるのが自分の中のセオリーっぽい。
でも、それだと、社会で厳しい人に出会って困るというかもしれない。
ただし、そういうとき、そこで本当に困っているのは誰か。変わるべきは誰なのか。
社会は厳しいなら困るならそのエビデンスも見たい。
責めて育てられて厳しさに耐えられるようになるよりは、レジリエンスじゃない?って思う。
たとえば「僕はこの社会で否定されない」という勇気を与えることができれば、人は自然と貢献感を発揮することができるのではないだろうか。
負の自己肯定感マーチを断ちたい。
テクノロジーをどの程度教えるか
私は子どもたちに必要なのは「非認知能力」と「みんなの力でなんとかなる経験の教訓の言語化」だと思っている(ちょっと思いつきだけど)。
前に欧米の学校の特別支援の話で、電話のかけ方、きっぷの買い方などの生活に必要な力を教えるか?という質問に、時間の無駄と答えているのを見た。
十年後あるか分からないものに時間をかけるのは無駄だ。と言っていた。
その通りだと思う。
そこが「教師のキャパ」じゃないだろうか。
自分が使ってきたこと、必要だと思うことを教えるのがキャパだったら、子どもは石包丁片手に生きていくことになるかもしれない。
石板に書いてある知恵で生活させることになるかもしれない。
じゃあ20年後。今は2038年。
あなたは何してる?世の中は何が克服されている?何がより便利になっている?何が課題として持続している?どんな新しい課題が生まれている?
想像できない世界。
だけど、そこで、確かに私たちが育てた子どもたちは生活をしている。
人との関わりの中の問題に投資することだけは、私は間違っていないと思う。