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【「教育」それ自体の側面からの再考】ジョン・デューイ『経験と教育』

盤上の駒は常に完全である。そして、そのすべてはリソースである。「ハピペン」です。どういうことかって説明すると長いので今回は端折るが、誰かを否定的に見ない。自分に生かすってことを大切にしようって感じ。

 

さて、いよいよデューイ!!

 

経験と教育 (講談社学術文庫)

経験と教育 (講談社学術文庫)

 

 

冒頭に教育哲学の役割を定式化することは「妥協、中庸、折衷」のためではないとある。

 

刺激的だなあ。

 

あとは、以下、抜粋。

思想上新しい体制のうえに基礎をおく学校の運営は、踏みならされた道を歩むような学校の経営よりは、はるかに困難なことである。

 そうなんだよなあ。いばらの道に気付いてしまって、わくわくで飛び込んで傷だらけになっているのかもしれないよなあ。

公は公的な教育、現状維持の事なかれご都合主義みたいな。

そこに子どもはいるのか?を問いたいくなる。それは、誰のためのセリフだ?自己保身か?と。

 

教育における新しい運動の将来を見据えている人たちは、新しい社会体制が求められているという現在の必要性をよくわきまえているので、教育について、つぎのように考えるべきであるということにはほかならない。

現在の必要性を軽んじてはならない。

 

新運動を推進している人たちは、たとえ「進歩主義」という主義に立っていたとしても、教育については、なんらかの主義という見地からではなく、「教育」それ自体の側面から再考しなければならない、と。

「そもそも論」。それ自体の側面からの再考。

あなたは、教育をなんだと思っているのか?人間とは?学ぶとは?

我々は、教育をなんだと思っているのか?人間とは?学ぶとは?この差異を埋めたい。

 

どのような運動でも、それ自体の立場からではなく、ある「主義」という見地から考えたり行動したりするようでは、他の主義にいちじるしく反動的な立場をとりがちになり、結局は知らず知らずのうちに、他の「主義」によって支配されることになるからである。

これが一番重要だと思った。いつの間にかもともとの目的を見失いがちで、目の前に出現する困難をやっつけようと理論武装をはじめてしまうことがある。

その間に苦しんでいる子どもたちは、目の前から消え失せていく。

大切なのは主義を通すことではない。子どもを育て伸ばすことだ。

 

なぜなら、そのような運動は、現実の必要性や問題や可能性についての、総合的で建設的な調査によるのではなく、他の主義に対する反動によって、その原理を形成することになるからである。

現実の必要性や問題や可能性についての、総合的で建設的な調査」から教育について考えるということ。

そうではなく、とにかく動機が他の主義に対する反動であってはならない。

 

ああ、そうだ。大切なことは。誰が正しいかではない。「教育とは?」で語ること。

しかし、私たちは立場を気にして物を言わない。言えない。

言って平気な自尊感情の基盤がない。正解もあやふや。トップも理念を示しきれない。

私たちは、北極星を見失っているのかもしれない。

 

いいよ、自分が正しくなくて。いいから子どもを見つめよう。

大体、そこでつまずいてんだろうから。