かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

【怒らない先生がいい】失敗に寛容になり、他者から自由に学ばせたい

朝片付けをした「ハピペン」です。みなさんのブログを見ていて、誰かの学びになることをシェアされていてすごいなと感じる。

 

【ふたせん】私の教師のあり方はダチョウ倶楽部だ 【裁量を与えること】 - 小学校教師ふたせんの朝3時からの共育現場〜育つ育てる育てられる〜

そこからの

【ハッピー黒板】

子どもを成長してさせたかったら「自由にできる」幅を与えること!大人は「失敗」を認める器のでかさを身につけろ! - 現役教師が小学生の子ども達に毎日送るハッピー黒板

【あおせん】

読書ノート「1440時間の使い方」ケビン・クルーズ著 - 先生の働き方Design研究所

 これを見て、自分には散らかる部屋のこんなやたらな情報処理をする時間はないのだな、と思う。

 

子どもたちの学校生活をもっと幸せにしたい。

そのために足りないことがまだあると感じる。

しかし、人は自分の価値観に合わないことはしない。

Aという形で指導したい人は、Aという形で指導したいのだ。

自分でないものも、良いからと言ってやってしまっては(やらされてしまっては)、そのうちそこで行われる教育に自分は存在しなくなってしまうのではないだろうか。

 

自分のAI化が子どもにとって良いとは思えない。

 

人間関係と安心・安全

昨日こんな記事も見た。

残念な部下に「スイッチ」を入れる単純な方法 | 会社を変える人材開発の極意 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

また、ギャラップ社の「State of The Global Workplace(世界の職場環境の状況)」2017年度版レポートによると、職場に親しい友人がいる従業員が全体の6割いれば、危機管理に関する問題を36%減らすことができ、顧客エンゲージメントを7%、利益を12%向上できるのです。

結局、職場の問題は人間関係と言われるように。

円滑さの鍵は、匠な方法論というよりは、人間関係なのかもしれない(当たり前か)。

 

職員室の人間関係。学級の人間関係。

 

そういえば、これまで「展望を共有すること」が子どもを一番伸ばすということを体験してきた。そうしないと、子どもは大人の顔色を見て生活するようになる。前任校でもそればっかり言っていた。そして、展望を共有する大人は多ければ多いほど良い。

これは、結局、子どもが変な気を遣わずに「安心して過ごせる」ってことなんだよな。

大人が大人一人ひとりによって違うってのも学びになり得るけれど、その統制の取れたなさ、組織でなさ、この人は私たちにとって好き勝手に振る舞い得るという、「誰にも守られ得ないという不安」の方が子どもには負担でストレスなのではないだろうか。

周りの大人が子どもを見るために団結している方が多少時代錯誤だろうが、子どもは安心するだろう。

ただ社会から取り残されてカルト村みたいになっても怖い。現代に適うかを意識できる教師ではありたい。その境界でのモヤモヤを味わっているってことなんだろうけど。

 

失敗に寛容な姿

今日は、NHK for schoolの「で~きた [特別活動 幼保・小1]」を見る時間があった。

こういう客観的な媒体がどストライクにハマることがあるため活かしている。

多少教訓染みていて、ムカつきを覚えるが、彼らはこれから学び、自己コントロールの視点を得ている。

最近のNHK、Eテレは使える番組が多いと思う。編集が端的でタイトだと感じている。

他にも

なんかもヒットしている。

 

「で〜きた!」の「#20ごめんなさい」の会を見ているとき、教師役の人と子どものやり取りを見ていて子どもがボソッと「先生ちょっとイイネ」と言った。

 

その先生の対応が良いってことらしい。面白い。

 

どんなやり取りかと言うと、

 子「実はさっき休み時間にゆーとに悪いことしちゃって、それからずっともやもやしてるんです。」

先「たぶんもやもやしているのは、おーすけくんが思っていることを、ちゃんとゆーすけくんに言えていないからだと思いますよ。自分の思っていることをゆーとくんに伝えてみたらどうですか?」

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子どものつぶやきは真実であることが少なくない。真実は子どもの口をついて出ると聞いたことがある。その通りだと思う。

 

この先生役の人のいいの「イイネ」ってポイントは、

  • 微笑みがある
  • 子どもの目線より下に立っている。
  • 丁寧な言葉
  • ゆっくりした落ち着きのあるトーン

だと思った。

 

子どもを封殺している教師の空間では、子どもは本音を出さないだろう。これが、高圧的な教師の一番のデメリットだと思う。

まあ「ここは、公だから、本音など必要ない」という反論があるかもしれない。

ただし、仮初めの自分で学べることも限られてくるだろうと思う。

たとえば、そこには、自分を越える学びがないし、その教師を越える学びがないと思う。

 

他者からの学び

今日、図工で絵を描いていて「終わったー」という児童に二つ問いを出した。

  • 「自分なりに100点?」
  • 「限界突破したい?」

と聞いた。

「自分なりに100点?」と聞いて、そうでなかったら「じゃあ何があれば100点になりそう?」と加筆等させる。

「100点」と言う子には「限界突破したい?」と聞いて、「越えたい」と言えば、歩いて友達の見てきて「いいな」って思うものを取り入れたら?と聞いた。

その子は「自分の絵の木の色を濃くすること」を思いついていた。

これも「何を育てたいか論争」に巻き込まれそうだけど、私はそうやって自由に漂いながら、他者から学び、自分が変わる楽しさを学校で味わわせたい。

それに、失敗してもいいし、チャレンジを称えたい。

私が抱えているのは、人間と人間を接続する課題なのかもしれない。