久々に「L'Arc〜en〜Ciel」な、ハピペンです。TrueとHEARTを聞いて、通勤です。いいわ。
書き換えには子どもの言葉がいる
今日は「道徳」の話(これまでの軌跡は、下の方に)。
これまでの自己ベストな意見交流ができた。
とにかく相互交流が必要だと考え、リフレクティング的なアプローチ(やり取りを見て、第三者がそれを聞いた感想を第三者と話し合うみたいなの)を考えたのだけれど、頓挫した。というか、無茶だった。班の中で発表させると、発表を強いる形になり、ざわついて終わる。言いたくない子は言いたくない。
そこで、単純な仕組みを入れた。
「次に意見を言う人は、前に人の意見について一言何か言ってから意見を言う」
これだけである。
すると
- 意見を聞くようになる
- 自分の意見を明らかにして主張できる(◯◯さんの意見は「なんとか」と思いました。僕は・私は「なんとか」と思いました」と言えるわけ)
そして、どうしてこうするのかと言うと「語りの効能」を高めたいためだった。
本来であれば「言いっぱなしの、聞きっぱなし」でもいいのだと思う。しかし、2年生を見るに意見を言っている人が「聞いてもらっている」ということが分からないのではないか、と考えた。
つまり、意見を言っても「受け取られたかが分からない」のだった(紙の裏に◯やら△やらで、聞いた意見をチェックさせても)。
ナラティヴ・セラピー
まず、ナラティヴについて。ナラティヴとは「物語」「語り」の意である。
そして、ナラティブ・セラピーとは、「いま語られているナラティヴ」を「いまだかたられていないナラティヴ」に出会うことで、自分が抱えている問題の意味を書き換え改善するものである。
「いま語られているナラティヴ」を「ドミナントストーリー」。
「いまだ語られていないナラティヴ」を「オルタナティブストーリー」と呼ぶ。
「ドミナントストーリー」は、「支配的な物語」であり、その人が知らないうちに築き上げてきた価値観や自分についての考え方、他者や世の中についての考え方など、固定観念のようなものが強く影響する。そのため、一般的に時代背景や社会の支配的な物語に影響を受ける。
そんな強固で到底揺るがなそうな「ナラティヴ」は、どのように変わり得るのか。
アプローチの視点として3つがある。
- ホワイト
- グーリシャン
- アンデルセン
大きくこの3人の方法に分かれる。
1.「ユーモアのある結果」
ホワイトらは、「問題の染み込んだストーリー」に着目し、同時に、そこからこぼれ落ちる「ユーモアのある結果」に着目する。「問題の染み込んだストーリー」の外側にはかならず汲み残された「生きられた経験」が存在すると考える。
具体的な方法としては「外在化」「例外さがし」などがある。
「外在化」について、書いているもの。
2.「無知の姿勢」
グーリシャンらは、「専門家の専門知に基づくナラティヴ」を問題にし、「いまだ語られていないストーリー」を聞こうとする。
専門家によって定義されたナラティヴ、あるいは専門知に影響されたナラティヴから脱出するために、「無知の姿勢」をとる。
「無知の姿勢」とは、それは、「セラピストの旺盛で純粋な好奇心がそのふるまいから伝わってくるような態度ないしスタンス」のことであり、「話されたことについてもっと深く知りたいという欲求」で、つねにクライエントに「教えてもらう」立場のことである。
「無知の姿勢」であることと「権力」が関係する。「ワン・アップ」「ワン・ダウン」という表現で、自分のポジション・優位性をどう下げるかということが大切になる。
ところで、こういうことを言っている人いたよなあ。と思う。
そう「大空の木村先生」である。
「子どもの事実からはじめる」「教師は子どもから学び続ける」
3.「リフレクティング・チーム」
アンデルセンは、「専門家同士の会話におけるナラティヴ」を問題にし、「クライエントに聞かれているナラティヴ」を実践する。
通常のセラピーの構造を変えることによって「いまだ語られていないナラティヴ」を引き出そうとする。「面接室と観察室」「表と裏」をなくす。関係を逆転させたり、メンバーの組み合わせを変えることで、その可能性を広げる。
これは、場所やポジションを変えることで、「いまだ語られていないナラティヴ」を引き出そうとするものである。
たとえば、教室で児童だけに話す場合と職員室で児童と話す場合に、何か変わりはないだろうか。または、教師と児童だけで問題について話している場合と、教師と教師がある子の問題について話している場合に何か変わりはないだろうか。
場所を変えることから、言葉の使い方の違いが生まれ、そこから生まれるナラティヴ。
ポジションを変えることから、問題の見え方の違いが生まれ、そこから生まれるナラティヴがある。
教師は専門家と称して君臨し、コメントしちゃいないか?
私は、ナラティヴ・セラピーの視点を知って、子どもたち意見に自分が当たり前のようにコメントしていることに気がついた。その当たり前さは、当然にそういう権利、私は君たちの言ったことにコメントをする存在。もはや、すべき存在とでも言うかのように、行なっていた。理由は簡単だ。「教師だから」である。しかし、そこは少し行きすぎていて「教師様だから」である。くらいまでいっているかもしれない。職責としてはそうだ。教える使命のような部分もある。しかし、姿勢として「無知の姿勢」であること。そのコメントの権限は「対等」であっていいのではないか、と考えた。考えると当たり前である。逆になぜ今までそうしてこなかったのか。それが怖いところだ。私の「ドミナント・ストーリー」つまり「支配的な物語」が背景にある。子どもが言ったことに「教師が反応する」ということが自然だと思い込んでいる。自分がそうされた、そういう風景を見て来たからでもある。教師に当たり前にある優位性を無意識に使っていることに気づいた瞬間だった。
ならば「コメント」や「反応」は、子どもに委託してみよう。ということである。ポジションを変える。ちなみに次に意見を言う人の指名も異性に子ども自身でしてもらっている。私も意見を座って聞くようにもした。
そして、子どもがコメントすることで、その意見が同士である同級生にとって良いものなのか、ポジティブなものなのかが、語られるようになった。子どもたちは道徳でオルタナティブ・ストーリーを語る。それに、ポジティブな反応があることで、その新たなストーリーの価値が高まる。その子の物語は、それを聴く語られる相手がいることで、現実になり、その子を形づくる。私の目から見ても、少なくともその瞬間は書き換わっているように感じる。
一つの懸念
道徳の中で、みんなに自分の意見を「聞かれてしまう」という制限が、適当なよい表現を選び、置きにいくようなことが起こるだろうか。
あるかもしれない。
しかし、たとえ自分が本当に思っていないことを書いたとして、それをみんなに言って、受理される。
少なくとも、その空間でその瞬間のその意見は「ホントウ」になる。
その宣言が絵空事になってしまったとしても、また「やり直し」をすればよい。
もし、その学びのサイクルを作れているとすれば、「宣言」は無駄ではないと思う。
驚いたのは子どもたちの一言について
Aさんが、もう◯◯しないというのは、「やり直し」ができていてすごいなと思いました。
という言葉が出た。驚いた。
うちの学級で良いものとされている言葉は
- やり直し
- 気づき
- 成長チャンス
- イイネ!
- 思いやり
などである。こうした、学級の文化となった言葉が子どもから子どもに向けられていると少し感慨深い。ここまで与えたものが、共通語として、価値として、子どもたちの中に存在しているのだなあと。
課題
課題は「やり取りをして、本当にそう?」なんて検討するような「たっぷりの対話」の時間の確保である。
意見を書くのに6分は、ほどよい。
6分が大体2セットある。
お話を読むのに5分。お話の解釈に場合によっては5分。これで、すでに「22分」。
あと「23分」。3分はバッファとして、残り「20分」。
- 「6分書く→10分やり取り」
これが、一つのパッケージになるだろうか。
ただ、友だちの話を聞いて学んだことのメモも書かせたい。それがバッファの3分で行うことになるだろうか。
「6分」は良さそうなんだよね。
集中して書いている子が増えたし、ほどよい感じがする。
しかし、まあ、本当に大した意見を書く子もいる。
だれかをたすけたりすると、たすけられた人がしあわせになって、おれいを言うとたすけた人もしあわせになる。
そうやって、みんなも幸せになる。
がっつり、ペイフォワードな感じだ。
こういう子どもたちが大人になっていく。
世界はなん明るいのだろうね。
とりあえず、あと4日。
年内にもう一回くらい、道徳をやりたいなあ。考えの相互交流。子どもたちは、病みつきになってくれるのではないだろうか。。。
やたらなリンク(道徳について書いてあるもの)
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119日目:特別な教科道徳を回せ【ポイント10こ】 - かならず幸せになれるいきもの
2回目
124日目:ここ2日の彼らが好きだ【道徳のポイントについての再考】 - かならず幸せになれるいきもの
3回目129日目:昨日の件で一番気になっていたことは決するも - かならず幸せになれるいきもの
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【特別の教科道徳の再考】昨日何にもしてなくはなかった - かならず幸せになれるいきもの
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138日目:ほぼ復活さ!! - かならず幸せになれるいきもの
少し思っていること