今日もやたら走った「ハピペン」です。暖かかったし、半袖短パンな日。
今日は、校外学習の出発を後ろから見ていた。
ふとした空き時間に子どもたちがこそこそ話す。
「じゃあ、〜って聞き方でいってみる?」
と、何かを通すための作戦会議をしているようだ。
「言い方で却下される学級。」
「教師って子どもたちにとって上司なんだな」と思った。
そう考えると、世の中にはいろんな上司がいて、そういう社内政治を円滑に進めるには多様な申し伝え方があり、それを学べるのが学校ってことだ。
顔色を伺って、その人の嗜好に合わせて意見を組み立てる必要がある。そして、その力がつく。
個人的には「それ小学校でいるか?」ってことと。
子どもたちに必要なのは、集団で決定しながら何かを為し得ていくことだと思うから、一人の上司の機嫌に活動が左右されるのは嘘くさい社会だと思う。
上司のために決めていくのではなく、自分たちの意見を丁寧に集めて、教師の意見も聞いて考え直す。それでも、意見が意見としてあるなら、それでチャレンジすべきだ。
100%失敗が見えて、かつ、その時期に不要な失敗をわざわざさせる必要はないが、前に聞いた言葉で言えば「上手な失敗」を子どもにはさせていく必要があると思う。
学校を学習指導要領の目標を達成するビジネスライクな現場にするのは違うと思う。
というより、学習指導要領主義になっていたら逆にビジネスライクにならないような気もする。
教育現場は、ビジネスとは違う。成果は意識する立場でいたいけど。
というわけで「教師は上司」。
3つの問いを書いて終わろう。
「教師が上司」だとしたら、
- 「じゃあ、あんたどんな上司でいく?
- 「あんたの見てる子どもたちは、社会でどんな利益を出せる人材なの?」
- 「あんたみたいな上司がいなくても力がついていて生きていけるように育ってんの?」
私は、お伺いを立てなきゃいけないような上司にはなりたくない。
そして、学校はその子に必要な力(必要だと思われる力)を身につける・身につけさせる場だよね。上司が過ごしやすくなるための力ではないよね。少なくとも、未来の想定は入っていてほしい。