グロッキーな「ハピペン」です。
昨日は昨日で頭を使って、夜はテレビを見すぎて寝てしまったのだけれど、今日は今日でタスクが!!【LMW】で何を話したらいいのやら、何も決まっておらず……。
テレビ面白かったんよ。
ところで、貧困トーク。
問題は情報へのアクセスじゃない?
『「なんとかする」子どもの貧困 (角川新書)』を見て、多方面で、何かを何とかしようとしている人っているんだ!と思った。
しかし、その存在を知らない。
「このワードで検索して、このサイトに行けば出会える」っていうシステムがあったらいいのにと思ってしまった。そう結局、たとえば、どこかには行ってみるのだけれど、そこでは救われず、路頭に迷うってパターンがあると思う。マッチングの問題ってやつ。
救急車はあるにもかかわらず、呼び方が分からないというような状態。
これってなんとかならないんだろうか。
人権を尊重される経験
貧困=お金、つながり、自信
がないことだとする。その感覚があれば、助けようっていう人が増えるかもしれない。
そうすれば、もっと支援が増えて、マッチングも起こりやすくなるかもしれない。
アクセスの仕方もそうだけれど、それを発見できる人たちの感度が悪く、接続できていないっていう部分もあるのかもしれない、と思った。
そのチャンスが大きいのは、学校だろうと思う。
学校がなんとかしようと思って、支援につなげることができれば強い。
だから、それは教育じゃなくて、福祉でしょって言われてしまうかもしれないけれど、それでいいんじゃない?って思う。
特に、負の再生産をさけるために「つながり、自信」にフォーカスして、もっと人権を尊重する態度を日常で感じられるようにすれば、自分がもつ権利を行使することも考えられるようになるかもしれない。
自分の不当さを訴えられる人間を増やすってことだ。
それは、言い換えるとどうかしちゃいそうなときに、助かろうとするってこと。誰かを頼ろうとするってこと。諦めないってこと。
そのためには、その子はその子として生きていていいんだって感じさせたい。そして、その心地よさに気付かせたい。
聞いていないのが悪いとか、みんなの前でののしられるのはナンセンスだと思うのだ。
「子どもの名誉って毀損されまくっている」ってことを、日常化して、クラス中が容認しているような環境は打破すべきだと考えた。
ただ、大人も子どもも、人権を尊重される感覚って味わったことがないのかもしれない。
だったら、そういう居場所を設けてみたらどうだろうか?と考えた。
たとえば、その居場所では、土日に子どもを預かる。そこで、対話等を行い、自分が尊重される体験をさせる。それには、大人も参加し、その感覚を学ぶことができる。
子どもだけを預けることもできる。その間に、親は必要に応じて、就労に向けた学び等を入れてもよい。これは、お金の面での貧困へのアプローチにもつながる。
ここで、老若男女問わず、集まって対話ができるようになれば「つながりと自信」についての貧困はほんのわずかだが克服されるのではないか、というようなぬるいことを考えた。
そのためのワークを今度考えなきゃってところでございます。
ただ、こんなことしか思いつけない自分が情けない。
話している中で、全くの第三者から、子どもへの上からの指導、管理的な指導について「公教育ってそんなもんだと思ってます」「まだそんなことやってんだと思ってしまう」「でもすごいっすね、いばらの道というか不可能というかそれなんか意味あるんすかね、そんなことやっている場合じゃないっていうか、もっとすごい子はすごいことやっている時代なのに」等々言われた。
「私立はもっと上手くない人はやっぱりクビになっちゃうからもっとちゃんとしている。ただマネジメント能力がないだけっすよね」と言っていて。ごもっともと思った。
やっぱり問題のすり替えがたちまち起こる。私もその犯人の一人かもしれない。
また、冷静に多様な視点で考えなければ、と思った。有り難い。