かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

御多分に洩れず校研

寒い。とにかく寒すぎる。「ハピペン」です。

ペンギンに好都合だろ!ってね。いやー寒い。

なんだろう。冷気がすごい。風邪ひきそーだ。

 

昨日は、さりげなく、うちのクラスが研究授業だった。

 

お店に行くことを到達点として、店員や客のロールプレイをしながら、コミュニケーションのバリエーションを増やす、お金を使うことからの数字への関心、未来で自分で食べ物を得るための手段を知ること、公共でのマナー、チームで動く意識などを育てる。

買い物で使う小物を図工で作ったり、メニューを国語で書いたり、いろいろな学習を紐づけられる内容だった。

 

いくつか感想を聞きながら、思ったことを書いておく。

 

支援は6年生まで見通す

この活動は、今年生まれたもの。

この経験に関してはみんな1年生だった。

そう考えると、この先、毎年カリキュラムに入れられるなら、2回目以降のステップアップを加えていけると思った。

感想に1から6年が同じことで違った学びを得ようとすることの難しさを感じたといったものが出た。

 

その通りだと思う。

 

グループに分けるなどをして、その子に合った学びを考える。

 

毎年言われるようなことなのだけども……。

というのは、こちらとしては、どの年度もやっているつもり、やらせているつもりになっていることが多く、大抵、もっと伸ばせる子もいるのではないか、と言われる。

 

そこまでシステマティックに、子どもを内容ごとに当てはめられないよなあと思うから、そういう考えもあるよねと思って終わるのだけれど、最大限の伸びを考える余地は大切にしたい。


だからこそ、6年間の見立てが重要だともう一度考える。

 

この活動を来年もやるとしたら、一度やった子たちは、どんなステップアップができるだろうか? と考える。

そこにしかない貴重な学びが100%ある。

 

「練習したらできた」というような体験の言語化が重要

汎用性のあることを省察・言語化してあげたい。

この先のいろいろな困難も、準備したり、用意したり、練習したりしたらできるかもしれないって希望が大切だと思う。

 

ある子に「大丈夫そう?明日できそう?」と聞くと。
「うん、できる、ゼッタイ!」と自信をもって本番に臨もうという子がいた。

 

あと、この仲間とならできるかもという思い。

それが6年間積み重なると強い。

新しいことも生まれるし、後世を思いやれるし、そのつながりの中を生きる自分を胸を張って運営していこうと思えると思う。

 

「オレはAにも真面目になってほしいから厳しくしてるだけなんだよ」と必死に弁明している子がうちにはいる。

嘘でも本当でも、そこまで他者に一歩踏み込もうって情熱嫌いじゃない。

 

その子の良いところは見限らないところだなあと思う。その子を正そうと挑戦する。かつ、若干その子に合った働きかけをしようともする。

 

今日は可視化して伝えようとしていた。

私もそれにのって、今なんの時間か示す掲示物を作った。

 

昨日のツイートで気になるのがあった。

 

私たちの支援もその子を真面目に「行動させるため」ではなく、その方がよりよく行動できるから提案しているものでありたい。

 

そこはブレずに、大人も子どもも関係なく、協力関係を築いて働きかけていきたい。

 

係活動で「学び研究係」とかありゃいーのに。

 

よって「振り返り」を大切にする

上と少しつながって、振り返りの大切さを考える。

当たり前のことですが、目的に合った振り返りが重要。

もっともらしい目的で、振り返りはとりあえず感想を聞くなどになってしまうと、もう学びを担保できていないと捉えられてもおかしくない。

省察という概念を研究するうえでの問題

省察の促進の効果について研究するうえで,省察をどのように取り扱うのかが大きな問題となります。省察の概念化の仕方にはさまざまなものがあります。

(中略)
ザイクナー(1983)やカールとケミス(Carr&Kemmis,1986)などが主張している,省察を批判的探究と見るアプローチでは,よい教師は批判的で探求的な専門家と見なされます。この考え方は,学校での教育の目的についてのある特定の考え方(たとえば,子どもを批判的な責任ある市民に育てること,など)とつながっています

指導中のやりとりの質に関する研究の中でザイクナーとリストン(1985)は,批判的な性質がどれだけ会話の中に現れるかという点で省察を対象化しました(4.4節を参照)。よい教え方の他の要素を強調する研究者は,他の方法で省察を取り扱うことでしよう。

しかし、もし子どもがテストで最高の結果を出せるようにするものをよい教え方とみなすならば,全く異なる省察の概念が立ち現れてきます。きっと,高得点を取るための方法について,教師がどれだけ体系的に思考したかという観点で省察をとらえることになるでしょう。

上の引用から考えがつながっていった。

 

教師は良いと思うことを振り返る。

それは、「教育の目的についての考え方」とつながっている。

 

この教師の価値観に、子どもたちも巻き込まれる。

 

教師が振り返ろうとしたものを「良い」と捉えて学んでいく。

 

人は、学びを、振り返ったことのための学びと捉える。振り返ったところに価値を置く。

 

(反対に自然な漠然とした問いの振り返りは、子どもが良いと思うことを引き出すかもしれない。建前だったとしても。)

 

振り返りが重要なのは、

  • 何のために学んだかが仮固定される
  • 振り返りから目的が見直される

ただの、評価の話になってしまうけれど、学校は正解が決まっていて、目的は見直されない印象があるからモヤモヤしたのかも。

 

そして、支援はピンポイントフィッティングなカリキュラムだからこそ、常に目的と成果が求められる。なおのこと、この省察の話が自分ごとという感じがした。

 

カリキュラムが決まれば、同じことをしても、意味づけと工夫次第でいくらでも、学ばせられると思うから面白い。

 

同じことをしてもどの観点を意識させようか? と考え必要と考える力をつけていく。