昨日は随分好き勝手書いた「ハピペン」です。
それでも、私はそう思うのだ……。
「学校一多様性を認め合える学級」
これは、自分が担任クラスはそうしたいと思っている。
実際は、特別支援しかもったことないのだけれど、特に悪い意味を含まず「ここで、出来んだから他の人ができないわけない」って思っている。
出来ないのは全部ヒューマンエラーでしかないと思う。
そういう発想がない。私もまだまだで、昨日もがっつり心をえぐられた。
余談だが、去年は粒ぞろいの中で「クラス会議をやる」という目標を立てて実践してみた。
「超多様な集まりで話し合いをした」という経験はこの先生きていく彼らにとって自信にもなるだろうし、有用だと思ったのだ。
今の支援も少しずつ開けて来て、今日も通常学級の子が7人遊びに来ていた。
「VS.読み聞かせを妨げる子」
国語の時間に読み聞かせをしようとした。
しかし、低学年がなかなか席につかない。
3手ぐらい、言葉を変え表現を変え促すも「ふざける」。
- 席を動かして絵本の目の前に来て顔を近づける。
- 私の背中に乗ろうとする。
- 私の膝の上に乗ろうとする。
- 私の右後ろにからしゃがんで見ると言う。
こう言ったことに対して、
- 「みんなが見えるように離れて座ろう」
- 「動いたり、音を出すと見たい人が嫌な気持ちになるよ。」
- 「協力してみんなで見よう。」
- 「イスに座って見たら丸。」
- 「見なくてもいいから、邪魔しない。」
などと言ってみるも無駄。
そろそろ「おい、コラ!」となりそうだけど堪えて読もうとする。
こういう時に人質になるのは、待っている子の意欲が奪われないかだ。
別に見たくねーしとか、うるささでちょっと疲れましたとか、とにかく集中が切れてせっかくのスイッチoffになることが教師は怖い。
ただ、本当はそれもいいんだよね。
じゃあ、次の機会にね、でもいいのかもしれない。
そうやって、共に生きている時間を楽しんだらいいのかもしれない。
「こうでなければならない」ではなくてね。
ただ、こういうときに面白いのは、教師は自分の任務遂行が躍起になっていて、「道徳性」はどっかにすっとんでいることだ。
「子どもの方が真理を突ける」
こういうとき、目的が子どもと一致していると強いと思う。
学級目標だったり、先生がいつも言っていることだったり。
それが子どもの中にはあって、問題を解決するアイデアにつなげてくれる。
本当に感動して涙が出そうになってしまったのだけど、結局、困り果てている私の様子を知ってか知らずか、高学年が膝をポンポンとして「ここに座りな」とやってくれたのだった。
低は喜んで座って最後まで静かに読み聞かせを聞いた。
「イスに座らなければならない」。そういうクソみたいな偽社会を作っているのは、クソみたいなクソ教師だけなのである。
そんなクソ社会、本当は幻想でフィクションででっち上げなのである。
高学年が、その場の学びのために誰かを否定しない方を選んでくれた。そして、そうするためのアイデアも実現してくれた。私のコンセプトを体現してくれたとすら思う。
そして、一人より二人だし、多様なみんなで考えれば多様性はいくらでも享受できるのではないかと思った。
そして、こうした行為も教師がお願いするのと、自然と自分から出るのでは、仲間意識・所属意識に雲泥の差がある。注意より寛容を選べた高学年の行動は本当に嬉しい。
この子が持っている価値観は、この先の学級いや学校規模で要になるんじゃないかと思う。
この子の良さを大切に育まなくてはと思わされた。
そして、こういう子が将来困らない社会であってほしい。当然、社会で生きるための力をつける責任も改めて感じる。
ただ、こういう感性の子が「できないできない」って否定されて無気力になったといって支援に来ている。
一人ひとりができるかできないかではなく、みんなで学ぶ方法はあるのではないか?とやっぱり思う。
何を大切にするか、どんな視点で見るか。
子どもたちは教師の背中を見ている。
私は、ノーマライゼーションな背中を見せたい。何言ってんだ?って感じだけど、そう思う。誰でもどいつもこいつも誰の前でも安心させられる人間でありたい。