伸び悩んだら伸びそうなところを伸ばすとイイよ。とにかく脳を育てようよ。そんなことを思っている。「ハピペン」です。
文を書けるようにってねらいも、助詞がきついのにってなる。
それで、毎日助詞は、おかしい。
助詞嫌いになる。伸びない。
まだ、やってないこと、足りないことをやる。
3学期は、固有覚、ビジョントレーニングを意識している。
4月から毎日やっているラジオ体操の「体側」がようやく変わる。
怒ったって変わらない。
育てば、その機能が身につけば変わる。
低がランニングで4、5、6に抜かされても泣かなくなる。
4月から「最後までがんばる」を勝ち負けよりも優先し続けた。
ここ2回の体育は、泣かないでできている。それまで毎回泣いてた。
自分のコントロールできる要素が増える。感情のコントロール。これは、特に、社会の適応に重要な要素だ。
今日はじめてとび箱をやった。苦手ーと中学年。跳ぶの概念がない低。
ありふれた指導をする(とび箱をつなげて並べて体重移動させたり、両手をパンとつけと教えたり、ドンと両足で飛べと見せたり)。
終盤は「できたー」「見てください」と叫びまくってる授業になった。
飛びきれないかも「もう一回やらせてください」と何度も言って繰り返していた。
育ちたい子どもたち。
きちんとした処方。
いろんな教科を見ながら、全部の能力というよりは、その子の個を育てられるような小学校の先生は、児童一人ひとりのマネージャーで、どうすればより活躍できるか、人生楽しめそうかを考えることは、まさに彼らの経営者のようで楽しい(義務教育でつける能力をつけようとすることに全力なのはいつもとして)。安心して自分を楽しませたい。自分に希望を感じさせたい。瞬間最高視聴率でいいから、変わる自分、「できた!」って自分に吠えたくなるような、自分への賛美を感じさせたい。
優れた経営者であれば、成員は安心する。
経営者のビジョンが未来(や自分の実感している社会)と自分と自分の未来に合っていると感じて信じられるからだ。
成長を感じて、ほめるとか認めるってのも成員の安心につながっていると思う。
伸びないってことはない。必ず伸びはある。
伸び悩んだら、その伸びるスウィートスポットを探せ!!発想の転換とかってことかもしれない。自分を楽しめるスポットを(見つかってもそれに取り組ませるモチベーションの方の課題ってのも、それはそれであるかもしれない)。
持論だけど「成長は尊い」と考えている。
気づかれなければ、ないものにされてしまうのが成長。していても、気づかれなければないものにされてしまう。気づかないだけ。「成長のない人間はいない」(時代や社会に合うかって質はあるのかもしれないけれど)。
ただ、気づかないと分からない。
昨日の昼休み後からビー玉遊びに変わったなとか、今までトイレの電気つけなかったけど3年生になってはじめてつけたなとか、挨拶の時起立してはじめてイスしまったなとか。
さりげない行動の変化に大きな心境の変化があると思う。そこを見逃すと大人は子どもをけなすかな。
そういうちょっとした「見方・考え方」(適当に流行りにのっておく)。
自らの人生が醸し出す成員の経営。
不信感は、人生がぬるいか不勉強。
勉強すれば語る言語が変わる。
自分の人生を語れる言語が増えればぬるさは消えるか。
振り返ると、切り刻まれた私の残骸の山。
ぬるくてすみませんでした。
と謝っておーこうっと。