なーんで17:00に帰れないのよんっ(・ω・)つビシッ!ハピペンです。まあ、いいのさ。まあ、いい。
私は、今日。昨日のミスを回収しなければならなかった。
昨日の振り返り
子どもが発表するとき。
14分もの間、発表し始めるのを待ってしまった。
言いにくいことだったのだと思う。しかし、それを晒せるかというステージだとも思った。私も構造に拘束されてしまって、状況に巻き込まれて、引けなかった。しかし、こだわるほど、Aさんは、発表というものを嫌いになっていくに違いなかった。それでは、そもそもの目的を見失っているように思う。書く段階で、晒せるものをと声をかけまくれば良かったかもしれないが、想像を楽しむ中で、そんな「置きに行け的」な声を掛けるのも違うと思った(ああ、それもこれも教材研究の足りなさなのかもしれないな)。
違和感のある空気と時間が流れてしまった。
その子にも子どもたちにも申し訳ないことをした。それをどう回収するか。しょうもない課題を自爆的に作り、そうして爆破してしまった出来事の断片やかけらを拾い集めて「やり直し」をすることにしたのだった。
そもそもの問題は、これは「しまった」ことなのかというところだった。
懸念の表明
一番の問題は、
①「周りの子がその子をネガティブに見ないか」
ということ。
その次は、
②「その子が発表は嫌なもの、自分は発表ができない」と刻印してしまうこと。
その次は、
③「先生はあの子に意地悪をしたと捉えられること」
①と②が特に問題である。
③は、それに付随して学級が荒れていくことが問題となるだけで、直接的に問題があるわけではない。
現段階で想定し得る最悪のストーリー(ドミナントストーリー)
その子をAさんとする。
ある子の頭の中はこんな風になっているかもしれない。
昨日の国語の時は、とても異様な雰囲気だった。怖いし、気持ち悪いし、イライラした。Aさんはなんで発表しないんだろう。まったくダメなやつだ。早くやってしまえばいいのに。Aは悪いやつだ。泣いていたし。なんで泣いたんだろう。先生が助けなかったからだな。早く先に戻せばよかったのに。意地悪だなあ。ひどい。バカみたい。
さて、どうするか。
まず「私は、なぜ待ったのか」そこを問わなければならないと思った。
率直に言えば、即座に「逃走」を選ぶAさんのクセを感じた。それが気になった。
(しかし、それは、読み違いだった可能性も低くない。この辺り、誰かと状況をシェアして考察したおかげで見えたところもある。)
そして、ここで「言えてしまってほしい」と思っていた。殻を破ってしまって「できた」と思ってほしい、ずっとそう心の中で願っていた。待っている間、Aさんの頭の中にある「できない」というストーリーをどうすれば変え得るのかずっと考えていた。でも、策は浮かばなかった。大変優しくなかった。「どうすれば言えるか」を考えていた。言わないを選ぶことを阻んでいた。
その子の一番のニーズは「ありのままでいること」である。それを阻んだ。権力と圧力で、である。
最後には、友だちを用いて、言わせるということを試みている。我ながらひどい。
そして、翌朝、振り返る中で、私はなぜそうしたかと言えば「成長してほしいから」だと思った。しかし、その強制に「その子の育ちはあるか?」と言えば「ない」と思った。
今でないのに「何か(大人の都合のくだらないもの)」のために、その子に嫌な思いをさせていいはずがなかった。私は、私の中にある公式を越えていた。だからこそ、私自身が嫌な気持ちでたまらなかったのだった。
そして、もう一つ、私が待ててしまった理由を思いついた。それは「私はAさんを信じていた」ということだった。とても、都合のいい言葉を見つけたように感じたけれど、100%事実でないというわけでもなかった。私の目にはAさんはできなさそうと見ていなかったのだった。そして、この過ちは許されるかもしれない、と思った。
新しい物語(実際には、思いを表現する言葉)を見つけた、私は素直に子どもたちに語ることを選ぶことにした。これで、うまくいかなければ、仕方ないというか、そのときにどう出るかのAさんの考えを尊重しようと思った。私にできることは、そこまでだとも割り切った。力不足である。
私の語り(オルタナティブストーリー)
そういうわけで、朝の会で話をすることにした。
(最近の朝の会は、私の振り返って気がついたことの懺悔タイムだ。しかし「先生は考えた。うんと考えた。」の後に、教室がよくなることを子どもたちは知っていて、受け入れてくれている。そして、そこで言ったことは、ポジティブなことであるとなりやすい。)
昨日のことを話すね。昨日。待ってくれてありがとうね。「えっ、なんのこと?」っていう人は、そのまんま忘れてしまっていていいです。とりあえず、聞いておいてください。長い時間待ったと思うし、嫌な気持ちにもなったかもしれない。まず、どうして待ったかを話すね。どうして待ったかというと、私はAさんができると思ったのね。Aさんを信じていたの。Aさんにもみんなにも嫌な気持ちにさせようとか、いじわるしようとかって長い時間を待ったのではないのね。もちろん、今もできるんじゃないかなって信じています。だから、待ちました。みんなも待ってくれてありがとうね。それとね。「できない」っていうことね。できないっていうことは、悪いことじゃないよね。昨日は、できないっていうので、嫌な雰囲気を作ってしまったかもしれない。だから、できないことが悪いみたいに感じさせてしまっていたら、それは、ごめんなさい。待つことに私も少しはイライラしてしまっていたかもしれないのだけれど、できないことは悪いことだって感じにしたかったわけではないの。サイアクね、6年生までにできればいいのよ。ただ、これも言っているように、「できないからできない」ではなく、「じゃあ、何ならできるか」は考えてほしいと思っています。たとえば、先生だけの前でならできるのか、友だち3人くらいの前ならできるのか、どんな風ならできそうかは考えてほしいわけ。(Aさんは、少し微笑みながら頷いていた。救済措置。)こうしたことを、先に話しておけたら良かったね。先生の失敗です。だから、やり直しをさせてください。ここまで、どうだろう?
やたらに冗長ですみませんが、大体こんなことを話した。
子どもたちは、今「やり直し=いいこと」になっているので、「いいよ」とか「いいね」とか言っていた。
やはり、Aさんも、頷いていた。
ありがとう。それと、あと一つだけ、みんなの前で発表することと、少ない人数の発表の前でやることをまったく同じという風にはできないので、たとえば、それだとSにはできないってところがあります。それだけ知っておいてください。それじゃあ、国語のときには、また、よろしくお願いします。
と言って終わった。
「さて、はじめようじゃないか!」
やはり、Aさんは、むりむりと渋った。
しかし、前に出る前に差し押さえた。
「立つ前にそこで考えておこう。たとえば、前に立つより、そこの方が言いやすい?」
「うん」
「じゃあ、そこで」
Aさんは、それでも、辛いようで、後ろの子にサポートを頼んでいた。
そして、小さい声だけど、言うことができて、発表を終えた。
昨日より成長できた
と、私は思う。
そもそも、よく学校に来た。それだけで、嬉しい。良かった。これで、来なかったパターンだったら、重さがひどかっただろうな。そういうAさんの強さに助けられた。ありがとう。
振り返りに書いてあったこと
振り返りには、発表したことについて、何を感じたかを書いてもらっていた。
(楽しかった・どちらでもない・楽しくなかった・前より楽しかった)
Aさんは、意外にも「どちらでもない」を選択していた。
自由記述のところには、「どうしてかというと」を設置して、理由を引き出すことにしていたのだが、Aさんは
どうしてかというと、自分がそうぞうして考えたことを発表するのはどうしても苦手なのです。でも、後ろの友だちが助けてくれたので、言うことができました。だから、どちらでもないです。
苦手と散々自覚して、それでもがんばってくれたのだと思った。この素直に自分と向き合えるAさん。こんな素晴らしい子を痛めつけちゃよくないよなって思った。
他にも様々な構造の問題があった
他にも様々な構造の問題があったのだと思う。私の環境構成ミスです。
- くじで順番が決まり、覚悟をしにくかったこと。
- 聞く側が評価的な雰囲気で聞いていたこと。
- 明日の予定が繰り上がったこと。
一番は
- 自分が純粋な気持ちで想像し考えたことを晒すということ
だった。
勝手にステージの前提を決めてかかりすぎ
子どもたちは、基本的には、教科書に合わせて知識や技術に強制的に直面する。
一人ひとりを見たら、まだそこでその力にたどり着けない可能性があるにもかかわらず、強制引き上げのような状況に追い込まれて邁進する。
それで、引き上がる子もいれば、大きな挫折を体験する子もいるのだろう。
原因を一言でいえば「教師の準備不足」。
二言でいえば「教師の見取り力不足」。
三言でいえば「教師の指導力不足」である。
そのステージに行くまでに、そのステージに行けるだけの力をつけてあげられるように、計画的にステージを用意して、力を付けておかなければならなかった。
落ち度だらけだ。
しかし、ストーリー次第で次のステージには進める。最悪の事態は回避した(つもり)。ストーリーは続く。今のところは、そこを信じて次に進もうというところ。
人生とは、生きている限り、読点である。
— Happy penguin(ハピペン) (@kn_penguin) 2018年12月21日
ハピペン
こういうツイートもあるから、気にはなる。ちゃんと、今つける力をつけられるようにしたい。
通級の生徒達に『いつ頃から勉強するの嫌になった?』と聞くと声を揃えて『小2の頃だな』という。なんせ時計の読み、九九が始まり、漢字は山とか川とかのようなイメージしやしい象形文字が少なくなり…。覚えることが抽象的になり、飛躍的に多くなる頃。そしてギャングエイジに突入してしまいます~。
— ゆず姉 (@ikeike3103) 2016年12月18日