かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

【不幸のすすめ】『希望の心理学』【公平さ、忍耐、信頼】

今日は、ほとんどぶっ倒れている。足がなんとなく痛いしね。ハピペンです。

 

でも、読み終えたい本を読み終えた。

希望の心理学―そのパラドキシカルアプローチ (りぶらりあ選書)

希望の心理学―そのパラドキシカルアプローチ (りぶらりあ選書)

  • 作者: ポール・ワッラウィック,長谷川啓三
  • 出版社/メーカー: 法政大学出版局
  • 発売日: 1987/03/01
  • メディア: 単行本
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まったく名著である。

『希望の心理学』なんて抜かしているのに、内容は「不幸のすすめ」だ。

 

人が不幸になるための方法が羅列してある。

 

そのどれもが「あー、あるある」と思えることが恐ろしい。

 

人は不幸になるべくして、なっているし、わざわざそこに向かって生きているということがよく分かる。

 

つまり「人間が不幸なのは当たり前」ということだ。

 

不幸から抜け出したい???

 

ならば、何かを変えるしかない

 

そう聞くと、おそらくほとんどの人は「えー!」と思うのだろう。

 

それでも構わない。

「えー!」だとすれば、「不幸であることを受け入れて、楽しむ他ない」。

 

まあ、何かを変えられるかどうかは、不幸になる方法を見てからでも遅くないかもしれない。

 

自分は、なぜ不幸になっているのかが分かるし、それをやめれば、いつでもあなたは幸せになって構わないってことなのだから。

 

希望の心理学

この本もブリーフセラピーの源流シリーズの一つ。

 

先週読み終わった『変化の原理』が、理論書で、ヘビーな教科書的なものだとすれば、こちらの本はライトな小説的な立ち位置だそう。

 

変化の原理〈改装版〉: 問題の形成と解決 (HUPセレクション)

変化の原理〈改装版〉: 問題の形成と解決 (HUPセレクション)

 

(変化の原理についても、また書きたい)

 

ワツラウィックの表現は、シニカル満載で分かりにくい。けれど癖になる。矛盾が散りばめられていて、頭を使って楽しむような本。

『希望の心理学』も、不幸になるためにどうすべきかを丁寧に勧めてくれている。少しでも幸せになろうとすれば、「それはダメだよ」と教えてくれる。

「そんなことをしたらせっかくの不幸が逃げてしまうよ」と。

 

まったく面白い。

 

第1章:なんじ自身に正直たれ

初めの不幸になる方法は、

 

「唯一の正しい道があると信じて、その道を信じた自分(だけ)を信じること」

 

である。

 

すると、自分自身の決めた道に合わないものは、すべて狂ったものに見える。

そんな風に他人のせいにすることは、とても易しいこと。だから、すぐに実践できると思う。

そして、不幸初心者の人はその狂ったと思っている世界の中で不平・不満を言いながらも過ごしていく。

一方、不幸上級者は、妥協を許さず、唯一の正しい道のあるべき姿に向かって突き進む。

 

「唯一の正しい道」を信じ尽くすと、人は「否定の精神」に包まれることになる。

「唯一の正しい道」と他者を比べることで、この世界のすべてが間違って見えるため。

否定しなければ、自分の信じる唯一の正しい道の正しさが薄れてしまう。

その「否定の精神」も、一切の妥協なく、誰かが示した正しい道(自分が見つけていればそれを選びたかった道)も、自分でない誰かが見つけたなら許せず、否定したくなる。

さらに、自分も「唯一の正しい道」にはたどり着いていないため、現在の自分をも「まだまだ」と否定する。

終いにはそこには誰も残らず、誰もたどり着けず、誰も存在しない、「唯一の正しい道」だけが残る。

「自分に正直でいる」ということは、簡単なようで、誘惑の多い言葉だ(魅力的だが、実際は苦しい)。

もし不幸から逃れたいのなら、どんな風に正直でいるかは、考えないといけない。

みなさんは、そんなことを求めないだろうけれど。

「否定の精神」に包まれている自分に気づいてしまったなら、「自分では自分に正直でいるように思っていても、実際に自分に正直でいることができているか」というと、怪しいかもしれない。

そうでなければ、自分が「否定の精神」に包まれているとは思わないはずだからだ。

心当たりがあるなら「自分は『自分に正直』の幻想に飲み込まれている」ということである。

 

この不幸への処方箋は、「他人に正直であること」だ。

 

第2章:過去との4つのゲーム

ここでいう「ゲーム」は、つい繰り返してしまう「行動パターン」のこと。

1.過去の賛美

過去にすがること。あの日の出会いを思い出し、もう一度そのような奇跡が起こることを願って日が暮れるのを待つこと。すると、人は不幸になれる。

 

2.後ろを振り返ること

過去に注意を向けること。今日何をするのかや、未来で何をしたいかではなく、過去のことをひたすら考える。すると、せっかく手に入れた不幸を不幸でなくしてしまうことを避けることができる。

 

3.運命のビール

変えることのできない過去の出来事を悔やむこと。たとえば、禁断の果実を食べてしまったことの罪を引き受けること。変えようのない、既に起こってしまった出来事について、何度も考えることで、不幸を追求することができる。特に、その変えようのないことに対して「それでもおまえなら運命に対して何とかできる」と思うことで、さらに不幸を重ねることができる。その先に「今やもう遅すぎる、もう何も望まぬ」となれば、なお不幸になれる。そして、すべてを過去のせいにすることができ、その場に留まる、つまり、不幸に留まることができるようになる。

 

4.「同じことの繰り返し」

環境が変わったにもかかわらず、過去にうまくいった方法を繰り返して行うこと。周りが変わっているにも関わらず、昔のままでいることで、不幸に突入できることがある。自然の法則は一定である、反応はいつも同じであると考えることで、より深く同じことを繰り返す動機を作ることができる。

そうすることで、別の実現可能で、今に適した、より優れた解決方法が存在するという事実に目を向けなくて済む。

さらに、気をつけるとすれば、過去の解決を決して「偽解決」などと呼ばないこと。

 

これらから大切な二つルールが見つかる。

  • 正しい論理的な唯一の解決が存在するはずであり、それが効果を現さなければ、その方法をさらに強力にすすめるべきである。
  • 唯一正しい解決があるという仮定は疑う余地がなく、その解決策の適用の仕方こそが問題にされ、「洗練」されるべきである。

 

この不幸への処方箋は、「未来の自分のために、現在のあなたが生きやすくなる方法を選ぶ」ということ。

 

第3章:ロシア人とアメリカ人

自分がしていることに、自分では気がつかないこと。自分を見失うとも言える。自己正当化と言ってもいい。そうすると、たちまち不幸に陥る。

 

この不幸への処方箋は、「なんかおかしなことに気づく」ということ。

 

第4章:金槌を借りる話

人々は私のことが嫌いだ、と。隣人は私を殺そうとしているに違いない、と。思い込むこと。そうすることで、善良な人々を敵に回し、不幸になることができる。

「思い込み」が大切である。

自分は神に見放されている、そういえば身体の一部が痛む気がする、いつも人々が自分の顔を見て笑っている気がする、信号が毎回赤だ、とにかくツイていない。

こんな風に「気がする」ことを繰り返し思い浮かべて訓練していく。不吉な連想をできるだけ多くする。そうすれば、不幸はもうすぐそこ。

特に何か怪しい恐ろしいことがあなたの周りで起きていると信じられるようになったら、誰かに話すことだ。友人は「そんなことはない」と言うかもしれない。しかし、それは、友人が悪い人とつながっており、あなたを陥れるための罠だ。そうでなければ、熱心にあなたの考えを正そうと説得するはずがない。

この訓練によって、不幸な状況を創り出すための力をつけることができる。そして、不幸を被る気になれば、心ゆくまでそれを味わうことができようになる。

 

この不幸への処方箋は、「気のせいは、気のせいでしかないと知る」ということ。

 

第5章:一握りの豆

現実を見ないこと。現実との照らし合わせはどんなものでも、不幸への追求にとって有害となる。第4章の気のせいについて、データをとって「そんなことな買った」なんて現実を決して明らかにしてはいけない。誰かに相談するときは、第2章のような、過去の誤りをひたすら追求するような、実際の行動や現在について解決しようとするような人に相談してはいけない。せっかくの不幸が台無しになるかもしれない。

 

この不幸への処方箋は、「実際の現実はどうかを知る」ということ。

 

第6章:象を追い払う

私たちは常に危険に晒されていることを想像し、それがいかに避けられないか考え、しなくていいことをしよう。

たとえば、これまでの章を生かして「象が家に襲いかかってくる」と想像しよう。それを避けるためには、回避行動がいる。

それは、「一日に3度手を叩かなければならない」というものである。そして、手を叩いた後はこう考える。「見た通りここには象は来ていない、二度と来ないようにこれからも叩き続けよう」と。このように問題を探し、問題に注目し続け、問題がいつも身近にあることを何度も確認しよう。どんな考えであろうと、それが確かに保持され、栄養を与えられ、栽培されるとき、それは、それ自身の現実性を生み出す。

 

この不幸への処方箋は、「回避行動をやめてみる勇気。それでも、危険は起こらないと知る」ということ。

 

第7章:予言の自己成就

予言を信じて、四六時中気にすること。そうすることで、予言を成就できる。一日の間中、占いの結果を気にして、嫌な予感が的中しないかに注意を払ってすごすこと。

 

この不幸への処方箋は、を予言は予言に過ぎないと知る」ということ。気にすればそれは的中し得る。ジレンマ。パラドクスがある。

 

第8章:終着への用心もしくは未来とのゲーム

「目的を達成することは素晴らしいこと」とされる。だから、目的を達成できないことは、素晴らしくないことである。そう考えられているなら、やはり不幸を手にする素質がある。

さらに、目的地は第1章で言ったように、遥か遠く、偉大で壮大でロマンチックで、理想的な唯一の正しい道であるほどよい。地道でない、目的地がよいのだ。地道で手が届きそうな目的地であってはならない。それでは、達成して、幸福になってしまう。また、到着せずとも、その過程で、気がつきさえすれば、幸せを手にしている可能性もある。しかし、それには、目もくれず、到着すべき目的地だけに目を向けること。そうすれば、不幸はより身近になる。

アドラーもこう考えたそうだ。「『到着』とは、目的地へ達することを意味し、一般的に成功や権力、理解または自己尊重の程度を示すものとして使われていて、反対に失敗、もしくはとくに人生上の『漂流』が、愚かさや怠惰、無責任、また臆病さをも示すものとされる」と。

(この本では、おそらくアドラーは皮肉として扱われている)

道半ばで「到着」について迷いながらも進み続けること。決してその迷いから覚めてはいけない。ひたすらに「到着」を目指すこと。そうすれば、遠い幸福の島。すなわち「ユートピア」という「何処にもない場所」を追い続けることができる。

 

この不幸の処方箋は、「今日これからの、もしくは、明日の目標を立てる」ということ。

 

第9章:本当に私を愛してくれるなら、ニンニクも好きになって

「地獄ーーそれは他人を意味する」という言葉から始まる章。

ここだけ、やたら理論立っている。

コミュニケーションについて

コミュニケーションには、「物レベル」と「関係レベル」があるという。どういうことかというと、「この料理の味どう?」と聞いた時に「物レベルでは、『おいしい・おいしくない』」で答えればいいのに対して、「関係レベルでは、関係を壊さないまたは維持するための返事が求められる」ように、コミュニケーションには、二つの意味が存在するということだ。

「関係レベル」のコミュニケーションをコントロールすることは難しい。そもそもうまく言語化できないのだ。だから、こそ「関係レベル」のコミュニケーションのやり取りは、常に「関係破壊」の可能性を秘めている。「関係レベル」のコミュニケーションが、問題に問題を重ね、新たな問題を生む。本来思っていることと別のことを(遠慮して、自分に嘘をついて、相手を欺いて、配慮して)伝え続け、違和感を生み出すことで、関係破壊の達人になることができる。もしくは、ひたすら相手の返事を疑い続ければよい。「なんで怒っているの?」と聞いて、返ってきた言葉を、「本当は違うくせに」となじっていけばよい。非難し、否定し、拒否し続ければ、不幸な関係を実現できる。

 

この不幸への処方箋は、「疑わないで信じる」ということ。

(ややこしいのだけれど。幸福には、ロジャースの自己一致が大切ってことだろうなあ)

 

第10章:「自主的たれ!」ということ

「できないことをやれ!」ということ。その命令を権力者から与え続けてとらうことで、不幸になれる。しかもディープな不幸だ。その最たるものが「自主的たれ!」というものである。この言葉の後には、真実は存在しなくなる。それは、その後、いくら自分から動いても、自分から動いていない可能性を秘めるためである。本当に、誠に、真に、心から自主的には動いたかが分からない。ひたすらにそれを責めることができるようになる。「できないこと」を命令され続けた結果、人は自己を本格的にダメなのだと決定づけることができる。自分はいくらやってもダメなのだと思うことができ、自分は何をやってもダメなのだと絶望させることができる。「幸せたれ!」も同じような状況に近づく、これは「到着」とも合わさって、意識してすべきでないことを意識させて行わせることになり、不幸の奈落へとつながる。

 

この不幸への処方箋は、「『できない(証明できない)ことを『できない(証明できない)』ことはおかしいことではないと知る」ということ。

 

第11章:なぜ彼はあなたを愛するのだろうーーその卑しむべき真実

愛を信じないこと。愛する理由は、誰にも答えられない。人は、自由の中で条件のない中で愛され、愛を証明したい。しかし、それは、第10章の「幸せたれ!」のように、証明できないことである。「私はあなたを本当に愛している」ということは、どうしたって証明できないことなのだ。だから、愛を信じてはならない。自分を愛するものなどいないと信じ抜くことで不幸になれる。決して親切な人が心から喜んであなたと関係をもとうとするといった現実的な発見をしてはならない。人々は偽りの愛をぶら下げてあなたに近づいているだけなのだ。愛があると思ったとしたら、それこそ、それは、気のせいなのである。

 

この不幸への処方箋、「親切にされた、気分が良かった、心地よい感じがしたなど。自分が体験した現実を受け取る」ということ。

 

第12章:援助の罠

第11章の続きのようなもの。

利他心や行為の純粋さを疑うことは、難しくない。何を言われても、親切な人には、本当の動機があるに違いないと勘ぐることだ。どんな善良な行為を行う人にも、善良でない動機があるから、それを行なっているということだ。つまり、すべてはごっこであるということだ。

そして、二つの示唆がある。一つは、どんな善意も関係の破壊に向かっているということ。善意が失敗すれば、その関係は当然に終わるし、どんな善意もそれが成就すれば、やはりたちまち関係が終わる。もう一つは、上で挙げたように、善意は善をしたい人が利己的にしているものであって、決して利他的なものではないということである。善を行うものは、善を求める不幸な人を求めている。つまり、共謀関係にある。もし、それが現実で叶わなければ、演じ続けるしかない。善を行うことを目的としたり、善意を他人に求める限り、人は不幸を生み出すことができる。

 

この不幸への処方箋は、「一方的な共謀関係ではなく、相互依存的な共謀関係を築く」ということ。もしくは「あなたは演じずとも、あなたでいていいと知る」ということ。問題は、それが生きづらいかどうかということだろう。

 

第13章:気の違った外国人

自分の見ている世界こそが本当だと思うこと。

私たちは、自分たちの個人的な生活世界が嘘であるとは思いたくもない。なぜなら自分たちの世界が本当の世界であり、自分たち以外の他の人たちの世界が、狂っていて、偽物で、幻想で、そして、この世のものではないと前提されている

世の中では、所変われば「ゲームのルールが変わる」。しかし、それについて、あれこれ考える必要はない。自分の行いについて、どんな反証をあげられようと「自分の行動こそは正常で正しいものであると信じる」ことで、他の人すべてがバカげて見えるようになる。そうして、自分の視野を狭め、自分の見方や考え方を健全な不幸の状態に保つことができる。

 

この不幸への処方箋は、「多様な考え方があると知ること。他人について知ろうとすること。自分以外の在り方も尊重する」ということ。

 

第14章:ゲームとしての人生

不幸への至る基本的な前提条件は「我々の右手をして、左手が行なっていることを知らしめないという『能力』にある」。

 

そうして、我々は、知らないうちに「ゲームを演じることができる」。

 

それは、

「これはゲームではない!本気なのだ!というルールに従うゲーム」であり、

「人々はゲームをやっている。ゲームをやっているんじゃないというゲームを」である。

 

そして、このゲームには、

「ゼロサムゲーム」と「ノンゼロサムゲーム」がある。

「ゼロサムゲーム」は、「勝つか負けるか」である。片方が「5点」を取れば、もう片方は「−5点」となり、合わせると0になる。

「ノンゼロサムゲーム」は、「参加者が一緒に勝つか負けるか」である。

 

人々の関係について、「ゼロサムゲーム」持ち込めば、地獄を出現させることができる。そのためには、両者ではなく、一方が「関係レベル」で、「ゼロサムゲーム」を持ち込むだけでよい。実際の対戦相手は、「人生」にも関わらず、「相手の誰か」を対戦相手にしてしまう時点で、自分は人生の主導権を放棄することになる。相手が得点するかどうかということに囚われて、それに応じて自分を操縦することになるからだ。本来、人生のことは「勝ち負けゲームから最も遠くにあるべき」なのだ。二人でのみのゲームに夢中になってはならない。どちらかが、二人の関係にゼロサムゲームを持ち出して

、人生という対戦相手に仲良く負けている場合ではないのである。反対に、相手を負かしてしまわない限りは、相方共々勝利を得ることができる。しかし、人々は、人生ではなく、相手との対戦に飲み込まれていく。

 

この不幸への処方箋は、「このゲームを終結させ得るたったひとつのルールは、ゲーム自体ルールの中にはない。『公平さ、忍耐、信頼』といった性質のものが、ゲームを終わらせるのに役立つ。それらなしには、ゲームは終わりのないゲームになってしまう。」

 

もしも、「人生は我々に、人生に投げ入れたいものを与えてくれるものだ」ということを信じることができるならば。我々人間は不幸を造り出すだけではなく幸福の建造者でもあることを知るだろう。

 

すべては良好だ。すべて。人が自分が幸福であることに気づいていないから不幸なだけなのだ。それだけのことだ。それがすべて。それだけだ。そのことに気づきさえすれば、すぐにでも、瞬時のうちに幸福になれるのだ。

実にその通りだろうと思う。

 

事態が絶望的であれば解決もまた実に簡単なのだ。

 

不幸を目指すみなさんは、決して自分が幸福であることには気がついてはいけない。人々との間で勝ち負けを競い合い続けるべきだ。誰が正解か不正解か、誰が正しいか間違いか、誰が成功か失敗か、誰がありかなしか、誰が生きていてよいか生きていてはならないか。延々と問い続けようじゃないか。

 

決して「それでも幸せなひとはいるから」ということも、誰もが「かならず幸せになれるいきもの」だということにも気がついてはならない。人生には勝者と敗者がいて、誰もが仲良く勝利できるなんていうことを期待してはならない。今も人々は常に不幸なのだと、いつもその身で味わってほしい。幸せには決して気がついてはならない。この「不幸のすすめ」を知ったことこそ不幸であり、これは、不幸になるための役にしか決して立たない情報なのだから。みなさんは、大変に不幸である。

 

もう一つの、苦しくなる考え方集

【イラショナルビリーフ】「偏った考え方」について(論理療法より)【7つ】 - かならず幸せになれるいきもの