修学旅行にて。
彼らはとても楽しそうだ。
それを見ていると、こちらまで嬉しくなってくる。
なんで、そんなに楽しいのだろう。
蛇足だがそんなことを考える。
こうした幸せな時間はどこからやってくるのだろうか。
そして、それは紛れもなく、家康公の仕業でもある。
修学旅行は、歴史性からのプレゼントなのかもしれない。
夜、友だちと寝るだけで楽しいのが修学旅行である。
そして、やたら歩かされることもあるのが修学旅行である。
それが、できるすべてが、「つながり」によって生まれるものだと、改めて感じさせられた。
随所に「つながり」を感じる。
準備をサポートしてくれるお家の方、ここまでの学校生活に携わった人、今年関わっている教師たち、昨年までの修学旅行に行った先輩たち、ホテルで世話をしてくれる人々、観光のガイドさんや運転手さん、日光を拓いた勝道上人、徳川家康などなど。
その歴史性の重みを感じたし、その総ては誰かしらから生まれている。
彼らが楽しそうだから、そう回想した。
こうした時間を授けてくださって、今日まで結びつけてくださって、有り難いと思ったのだ。
正直「何が修学旅行だ」と少しだけ思っていた。何を修学しているのかさっぱり分からなかったからだ(おいおいお前が意味を与える側だろうが)。その始まりは、学習院の学校(小・中・高どれだったかな?)で、本当にこれまで学んだことを生かして、学びを修めるための旅が、修学旅行の始まりだと聞いたことがある。友だちと力を合わせて、ある場所まで行き、帰ってくる。それなりに過酷だったそうだ。
今時の修学旅行は、諸々への有り難みを感じる時間。ということでいいのかもしれない。
楽しそうな彼らの姿を見て、とにかくそう思った。
修学旅行なんて、到底、一人じゃつまらいことしかやっていないと思うんだ。
なのに、楽しいのは、誰かがいてくれるからだし、誰かがいてくれたからだ。
そうやって、「楽しいの範囲」を広げていく、成長してますます、できることが増えて、楽しみ方も増えていく。
そういう学びがここまであったこと、そういう学びがこれからもあることを知る。
学びの価値に気づくためのもの。それが、修学旅行なのだろうなあ。
そうした未来永劫的なつながりを生み出し得る、家康の粋な図らいは、全く計り知れないなあ。