かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

同じく木曜日

戦は終わらないー。

 

授業の方は目処が立ってきたが……。

 

憂鬱やなー。

 

下手に味方がいるのも逆にきつい。

味方(温かい人)だからって何かを話すと、敵だとか味方だとかになってしまいそうで。

 

なんかなあ。嫌われ体質やなあ。

たぶん、あれなんだよね、みんな穏便にやってきたルールに乗っからないからなんだよね。

 

空気読まないってのかな。

 

みんな「自分にとって合うか合わないか」を探っている。合わせ合えばいいのにね。もっと前段階で、ふるいがあって、コイツはいい、コイツはダメってのがある。

 

人でいたい。そう強く思う。

ケアする、優しくある、包摂する。

 

合う人なんていない、合わせ合うだけなのに。それから、一抜けピッをすると、脆い。

 

ただし、それも悪くないね。続ける限りはその先があるから。どんな一年にするかは、お互い次第。

 

だからこそ「寄り添う」ってなんだろう。なんてことを思いついた。

 

寄り添う

「寄り添う」という時、私は「人生」という言葉が浮かぶ。その人の人生に寄り添う。そうしたときに、どんな風に、何があれば、より良い人生になるのか。

 

その人にとって。より良い人生に向かって。

 

たとえば、愚痴。

寄り添う。

「そう思ってしまったんだから仕方ないよね」そこまでは、いい。

「そこから」が問題。

そのツラミ的な、ウラミ的なストーリーをどう支えるかだ。

その人に寄り添うとしたら、一緒に不満を膨れ上がらせておけばいい。

そうでないなら、「じゃあ、どうなったらいいだろう」とか、「じゃあどんな風にしていきたい」とかってことで寄り添うなんてどうか。

その人がより生きやすいように。たとえば、周りに嫌だと思う人がいるのは辛いことだ。しかし、それを膨れ上がらせてもその人はより苦しいだけだ。人なんて良さもあれば悪さもある。それは、パートタイムだから。あとは、どのメガネをかけるかにすぎない。

 

「人を嫌いになる準備はしない」という言葉を生んだことがある。誰かの嫌なところを見始めたら、それは「嫌いになる準備を始めた」ってことだ。別に嫌いにならなくてもいいのに。人は何かのために理由があって都合がいいからその人を嫌うと思う。

 

そんなわけで。

 

そういう意味では皆ずるい。言わせて言わない立場を取る。それは、ちょうど、自分は絶対的に被害者であるから、加害者ではないという虚構に似ている。

 

まあ、それもそうだし。今の私は、膝を強打して痛い。