かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

家族という宇宙

家族っていろいろある。

 

恐らく、延々と自分がムジナということには気がつけないのだろうなあ。

 

ひたすら、メタするしかない。

 

子どもが気にしすぎだと言う。

ただ、そういう親も、ある事柄に神経質である。人には「性質」があって、連鎖していて、それが何に発現するか、しやすいかは違う。

もっと言えば、さらに、上の性質が同じだけだ。依存体質であったり、不安が強かったり。

そんなの飛び越えて、家族は、そういうものとしてやっていく。それでも生きていく。その中で、こういう家族がいいとか、ああいう家族がいいとかではなく、せいぜい100年の中を進んでいく。

 

幸せな形への焦りが、親殺しや子殺しになってしまうこともあるのかもしれない。そのリスクをはらんだコミュニケーションの癖の方をなんとかしなければならないと思う。そらにもかかわらず、どうしてここまでやってこれたのか?とか、比較的よい時は?とか聞いたりなんかして。

 

大切なことは、「否定しないこと」だろうと改めて思う。「その子」はいるし、「私」もいる。今、「愛」から行っているか、「自己犠牲」として行っているかを自覚することだ。

「これだけしたのだから、こう変わるべきだ」これがNGなのは、分かりやすい。よくあるのは「これだけしたのだから、こう変わってほしい」というようなもの。この願いは空を切るし、これもまたNGなのである。実際は最初の4文字目の時点でNGである。働きかけにおいては、「したいからする」そこから始めたら、その原点を忘れないようにしたい。「もしこのまま変わらなくても」たとえば、リターンがなくても、やれることが望ましい。どれくらい時間をかけるか、どれくらいお金をかけるか、正直何によって人が変わるのかは、常に変数だからだ。耐えられないリスクは、もたないことだ。「信じて耐えるほど辛い結果」が待っている。耐えなくても、これまで、なんでなんとなく、やれていたのか?に注目して、生き長らえられたらと思う。

 

人生は長い。生きた意味は、意外といつ降ってくるか分からないのだ。意味が感じられない。意味が無いと思うとすれば、それは、まだ生まれていないだけ、まだ生み出していないだけである。意味はいつも創出されるものだからである。元来から意味があるものはない。道具も人が使って初めて意味を持てるように。「在る」だけで意味は生まれない。ただし「在ること」で「意味が生まれ得る」という「意味は持ち合わせている」ことになる。ここが希望だろうと思う。そして、その意味が生まれるという現象は私という宇宙の始まりに匹敵するのではないか、と思う。そうすると、もう一つの宇宙が生まれるのを待って、超紐理論だかなんだか分からないが、ビックバン待ちなのである。それにおいて、私たちは「在るだけでいい」。何かしたいなら、しながらそこに在ればいい。

 

昨日は、納会だった。

 

「最近分かってきたのだけれど」と自分のことを話す人。定年を過ぎている方だった。自分を学んでいる姿に刺激を受けた。年老いて自分がさらに発見されるのだ。人生とは波乱万丈である。絵を描いていることを熱心にお話ししてくれた方もいた。同じ景色を写生していても、それぞれ自分の表現したいことをしていると知った。

 

片や「分からない」と子どものことを話す人もいる。自分を見つめることに生き抜くヒントがあるように感じる。そこに宇宙がある。

 

 

これこれ。これが言いたかった。

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